何だよ、全く!
——山辺は誰《だれ》に向ってこぼすわけにもいかなかったが、それだけに一人、苛々《いらいら》と旅館のロビーを歩き回っていた。
一人旅のはずだったのに、どうしていつもああして連れ立ってるんだ? 話が違うじゃねえか。
大体、沢木の奴《やつ》、自分は手を汚さないでスンナリと大金持の娘と結婚しようってのが虫のいい話だ。俺《おれ》に人殺しまでさせようってのに、礼金は、
「とりあえず今は払えないけど、あの女と一緒になったら、ガッポリ入るからさ。そしたら俺、ポルシェにすっからさ、車。今乗ってる車、お前に安く——いや、タダでやるよ! な!」
と、来たもんだ。
ケチ、としか言いようがない。といって、それで引き受けて来ちまった俺も俺だけどな。
——どっちもどっちである。
山辺は、沢木の前では「ワル」ぶってしまうのだが、実際のところ人殺しなどしたこともない。
つい見栄を張って、「やってやる」と引き受けたものの、人はなかなか一人にならないものだということを知ったところだった。
山辺が殺すことになっている矢田部江利は、沢木の恋人、倉本そのみたちの一行と、なぜだか一緒に出歩いたりしていて、ちっとも「人気《ひとけ》のない山中を一人で歩く」なんてことをしてくれないのである。
今も、旅館へ帰って来たが、倉本そのみと一緒で、しかも何だか妙に胴長の犬(当人[#「当人」に傍点]が聞いたら怒るだろう)もくっついている。
「——埃《ほこり》になったわね。お風呂《ふろ》にザッと入りましょう」
倉本そのみがそう言って、山辺がロビーにいると、二人は大浴場へと行ってしまった。
殺す相手が男なら、風呂にのんびり浸《つか》っているところをやっつけることもできるだろうが、相手が女とあっちゃ、そうもいかない。
女湯に忍び込むなんて芸当は、とても山辺には無理な話なのだ。いくら変装したって、太っている山辺は、とても女に見えないだろう。
しかし、さっきから、いやにバタバタしてるな。どうしたっていうんだ?
することがなくて、仕方なくロビーのソファにぼんやり座っている山辺は、人があわただしく出入りしているのに気付いていたのである。
すると——矢田部江利がタオルを手にスッとロビーを通り抜けて行った。一人[#「一人」に傍点]で。
一人? 一人なのか?
山辺は、廊下の方を覗《のぞ》いて、誰も後から来ないことを確かめた。
今、江利は一人で部屋へ戻ろうとしているのだ! ——山辺は、ともかくこのチャンスを逃すまいと急いで後を追って行った。
江利は階段を上って行く。そう、あいつは一人で泊っている。このままついて行って、部屋へ入ろうとするところへ駆け寄り、そのまま中へ押し込んで……。
うん、それがいい。
考えてみれば、そう簡単にいくかどうか怪しいものだが、このときの山辺には、いともたやすいことに思われた。
バタバタとスリッパの音をたてて、江利が階段を上って行く。山辺はあまり近付きすぎても危いと思い、適当に間を空けて上って行ったが——本当は、その方が危かったのである。
というのは、一旦《いつたん》二階まで上った江利が、
「——あ、いけない。頭のピン、お風呂場に忘れて来ちゃった」
というので、戻ろうとしたのである。
階段を急いで下りようとして——上って来た山辺と顔を突き合せてしまった。
ぶつかりそうになって、江利もびっくりしたが、山辺の方はもっとびっくりした。相手が自分の上って来るのを待ち構えていたのかと思って、とっさに逃げ出そうとしたのである。
しかし、階段の途中で向きを変えて逃げるというのは難しい。山辺は、階段を踏み外した。
「あ……」
と声を上げたのは江利の方で、山辺がみごとに階段を下まで転がり落ちて行くのを、呆然《ぼうぜん》と見ていたのだった……。
「——町中、大騒ぎですな」
と、急に背後で声がして、亜由美はびっくりして振り返った。
「殿永さん」
と、目を丸くして、「どうしたんですか? 魔法でも使って、ホウキにまたがって飛んで来たとか?」
午後、まだ日は高く、聡子が連絡を入れてから数時間しかたっていないはずだ。
亜由美は、また岬信介の住んでいた家にやって来て、地元の警官が〈立入禁止〉の札を下げたロープをめぐらせるのを眺めていたのである。
殿永は、別にちっともあわてて来たという風ではなく、
「私の乗れるホウキというと、宇宙ロケット並みの大きさでないと、この体重を支え切れんでしょうね」
と、真面目《まじめ》くさった顔で言った。「なに、大したことではありません。別の事件の捜査について、打ち合せることがあって、近くのN市まで来ていたのです」
「そうだったんですか? 良かった。一人じゃ心細くて」
「おやおや」
「本気にしてないでしょ」
と、亜由美は殿永をにらんで、「——でも、確かに行方不明になった三人かしら」
「今、家族がこちらへ向っているはずです」
殿永は、亜由美を促して、「入りましょう」
と、ロープを持ち上げてくぐり、家の庭へと入って行った。
警官に殿永が声をかけ、亜由美も特別扱いで、家の中へ入ることができた。何といっても、亜由美もここではただの観光客で、殿永についていなければ、怪しまれるだけだろう。
「——なるほど」
殿永は、崩れ落ちた天井の隙間《すきま》に覗く白骨死体のそばへ行ってかがみ込む。「どうやら一体じゃない。二、三体はありますな。行方不明の三人という可能性は高いでしょう」
「でも、どうしてここに?」
と、亜由美は言った。「いえ、隠すのはともかく、三人も姿を消しているのに、ここを捜さなかったんでしょうか?」
殿永が答える前に、誰かの足音がして、
「そのことについては——」
と、声がした。「私がお答えしましょう」
白髪の紳士は、大江と名のった。
「ああ、紀子さんがお世話になってる……」
「この町の昔からの住人として、こんな出来事は全く残念なことです」
と、大江は亜由美たちの所までやって来た。「しかし、ここは温泉町です。温泉を楽しみにおいでになるお客さんたちがいなくなっては、町は成り立ちません」
「それはよく分っています」
殿永は肯《うなず》いた。「しかし、こうなると、マスコミを締め出すわけにもいかんでしょう」
「むろんです。——ただ、行方不明になるという事件があったとき、町の者たちはそれを否定しようとした。けしからんことと思われるでしょうが、もし、この町で若い娘が姿を消してしまうという話が大げさに報道されたら、どうなったでしょう? おそらくこの町への客足はパッタリと止り、町の旅館は次々に潰《つぶ》れてしまったでしょう」
大江は、白骨死体の方へ目をやって、「気の毒なことだ。私も町の住人の一人として責任を感じます。しかし、分ってやって下さい。町の者は、『信じたくなかった』のです」
「分りますよ」
と、殿永が肯く。「本当の解決はただ一つ、犯人を見付けることです」
「同感です。どうかよろしく。できる限り、お力になります」
大江はふと振り向いて、「——何だ、紀子じゃないか。こっちへおいで」
紀子が庭の外に立っていた。大江に手招きされて、おずおずとロープをくぐって入って来た。
「——岬紀子です。あの作家の娘ですよ」
と、大江は紀子の肩を抱いた。
「あの……大江さん。こんなことをしたのは、父でしょうか?」
紀子が怯《おび》えたように訊《き》く。
「何だ、そんなことを心配してたのか。それは心配ない。この町で若い娘が行方不明になったのは、この七、八年のことで、親父《おやじ》さんが亡くなったずっと後だ」
そう聞かされて、紀子はホッとした様子で、
「ああ良かった! どうしようかと思ってた」
と、胸に手を当てた。
「でも、どうしてそんな心配を?」
と、亜由美が訊いた。
「まさか、とは思ってましたけど、父のことを町の人が話したがらなかったり、私も何となく、避けられているのを感じてたんで……。何かあるんだろうな、って思ってたんです」
「苦労性だな、紀子は」
と、大江が笑って言った。
「しかし、大江さん」
と、殿永が改まった口調で、「直接この事件とは関係ないかもしれませんが、岬信介の死について、私も興味があります」
亜由美には、殿永の言葉はちょっと意外だった。
「何をお知りになりたいのですか?」
「岬信介は心中したことになっていますが、遺書はなかったのですか」
「見当りませんでした」
と、大江は首を振った。「私どもも捜したはずですが、どこにもなかったとのことでした」
急に、
「ワン!」
と、犬の吠《ほ》える声がして、亜由美は、飛び上りそうになった。
「ドン・ファン! 何よ、だしぬけに」
と、いつの間にやら庭先にいる愛犬(?)の方をにらんだ。
「そころで、岬信介と心中した女性のことですが」
殿永の言葉に、大江はちょっと警戒するような視線を向け、
「そのことは、三人の娘さんの行方不明の件とは関係ないのでは?」
「確かに。しかし、事件は思いもかけないことから解決することもあります。そのための材料は多ければ多いほどいいのですが」
殿永はもう知っている。長い付合いの亜由美にはそう思えた。
大江は、チラッと紀子の方を見たが、
「分りました。——この子にも、いつか分ることだ」
と、息をついて、「岬信介と死んだのは、大江俊子[#「大江俊子」に傍点]。私の娘でした」
空気が震えて、亜由美の足下の岩を揺るがしているようだ。
細かい霧のようなしぶきが、顔にひんやりと貼《は》りついてくる。滝はたっぷりとした水量で地を掘り下げるような勢いで落下していた。
「——お父さんは、ここから?」
と、水音の中で、少し大きな声を出した。
「はい。ここだと思います」
と、紀子は肯く。
「あなたはどこから見てたの?」
「あの——」
と、木立ちの方を指さして、「木の間からです。間違いないと思います」
亜由美は、足下を覗き込んだ。
少し宙へせり出した格好の岩からは、青緑色の水が滝の起す波と白い泡に揺らいで見える。
「——濡《ぬ》れてしまうわね。戻りましょう」
亜由美は、紀子とドン・ファンを連れてここへやって来たのだ。
ドン・ファンは、よほど濡れるのがいやなのか、少し手前で待っていた。高所恐怖症かもしれない。
「この犬がさっき吠えてくれて……」
「え?」
「私、言いかけたんです。でも、この犬のおかげで黙っていました。『言っちゃいけない!』って、この犬に言われたような気がして」
「何のことを?」
紀子は、あの廃屋の方へ目をやると、
「私、あの晩、見たんです。机の上に、封筒があって、そこに二つの文字[#「二つの文字」に傍点]が書かれていたのを」
「二つの文字……。もしかして、それ——」
「七つでしたから、〈遺書〉と書いてあったのかどうか、憶《おぼ》えていません。でもそのときの状況から考えると、きっと……」
「じゃ、誰かが隠したということかしら」
「分りません。——なぜ隠したりしたんでしょう?」
亜由美は少し考え込んでいたが、
「お父さんの原稿とか、町役場にあるって言ったわね」
「たぶん、ですけど。誰かがチラッとそんなことを言ってるのを耳にしたようで」
「行ってみましょう。殿永さんの名前を出せば、何があっても大丈夫」
紀子はすっかり憧《あこが》れの目で、
「亜由美さんって、度胸がいいんですね!」
無鉄砲なだけ、と思ったが、何も自分で訂正する必要もないだろう。
「まあね」
と、亜由美が肯《うなず》くと、ドン・ファンが、
「ワン」
——これは、賛成したのか、からかったのか。