「疲れた……」
と、黒田忍はいつもの通りこぼしていた。「肩も腰も痛いよ。もう年齢《とし》ね」
「女将《おかみ》さん、今、案内所から電話で」
と、仲居の一人が顔を出す。
「ああ、団体さん、着いたって? ——困ったもんね。とんだニュースが流れて、キャンセル続出ってことになんなきゃいいけど」
と、椅子《いす》にかけたまま、首を左右へかしげて肩の痛みを確かめる。
「そうじゃないんです。問い合せが殺到してて、電話がパンクしそうなんだそうで」
黒田忍は目をパチクリさせて、
「問い合せ?」
「旅館の予約申し込みで、TV局とか、雑誌とか週刊誌とか。——うちで何人くらい引き受けられるかって訊《き》いて来てます」
忍は目を輝かせて立ち上ると、電話へと走った。
「——もしもし! ——ああ、私よ。——ええ、そりゃ何百人でも、って言いたいところだけどね。——今、予約を見るから、待ってね」
台帳をくって、「今夜なら、あと三十人は大丈夫。——ええ、二人で一部屋使っていただかないとね。もちろん、三人でも四人でも。——ええ、じゃ、連絡して!」
まるで夢みたいだった。
「——そうよ! これがチャンスだわ。この温泉の名が日本中に知れ渡るのよ!」
と、誰に話しかけるわけでもないが、大声で叫んでいるので、みんなびっくりしている。
「ちょっと! ——私、ひと風呂《ふろ》浴びてくるからね」
と、声をかけ、「今、閉まってるわね」
「はあ。あと一時間で開けます」
「じゃ、ザブッと浴びてくる。台所に、今夜あと三十人分、材料仕入れとけって伝えて!」
忍は小走りに廊下を大浴場へ急いだ。
思いもよらない展開だ。てっきり人が寄りつかなくなると思ったのに……。
「変な世の中ね。——ま、ありがたいけど」
と、ひとりごちて、〈女湯〉の戸をガラリと開ける。
夕方まで、一旦《いつたん》閉めて掃除をする。それもすんで、大浴場はいやにシンと静かだった。
忍は、熱いお湯に浸《つか》って、大きく息をついた。——稼ぎどきだ。
こんな田舎の温泉では、しょせん頑張ってもたかが知れている。今はマスコミの時代、宣伝の時代である。
この事件のニュースが全国に流れる。ニュースの時間だけでなく、きっとワイドショーとかのレポーターもやって来る。
そのスタッフだけで結構な人数になるだろう。しかし、K温泉の名が全国に広まる効果たるや……。
しかも、この宣伝はタダ[#「タダ」に傍点]と来ている。
そうだ、少し若い人向けに、カラオケの機械も新しくしよう。ここで客を呼ばなきゃ、商売人じゃないわ!
何だか、急に肩こりも腰痛もふっとんでしまったようで、忍は張り切っていた。
が——せっかくの張り切りぶりも、空《むな》しかったのである。
ゆっくりと戸が開いて、誰かが入って来た。
ヒヤッとした空気が首筋に感じられて、忍は振り向こうとした。
そのときには、もう振り上げられた手おけをよける間もなかった。——何度も何度も、水しぶきを上げて、手おけは忍の頭を打ち続けた。
「——大丈夫ですか?」
と、江利は言った。
「もう何ともねえよ」
と言いながら、山辺は足下がふらついて、
「危い!」
と、江利に支えられて何とか倒れずにすんだ。
実際、危かった。——何しろ、階段から滑り落ちて完全に気絶。
意識は取り戻したものの、まだクラクラしていた。
見栄を張って、
「散歩に出る」
と、旅館の下駄《げた》をはいて出かけた山辺を、江利は心配して追いかけて来たのだった。
しかし、山辺としては立場がない。
人に頼まれたとはいえ、殺すはずの当の相手から介抱されるというのは、情ない話である。
「誰も頼んじゃいないだろ!」
と、強がって、「一人で行きたいんだ。放っといてくれ!」
と、江利の手を振り払って町の通りを歩いて行く。
しかし、温泉町の常で、道はかなり高低があって、坂もあれば二、三段の石段もある。急いで歩こうとする山辺は、つい足下を確かめずにけつまずいて、
「ワッ!」
と、転びそうになる。
その度に、江利が駆けて来て、
「大丈夫ですか?」
「何でもない!」
と、同じやりとりのくり返し。
山辺は、苛々《いらいら》して、
「ついて来るなと言ってるだろ!」
と、江利を怒鳴りつけた。
「でも……」
江利もさすがにムッとして、足を止める。
二人して往来でにらみ合っていると、
「ごめんなさいよ」
と、荷物をしょったお婆《ばあ》さんが二人の間を割って、「ふう」と息をつくと、大分曲った腰を精一杯伸ばして、山辺と江利の顔を交互に眺め、
「——ははあ」
と言った。
「何が『ははあ』だよ」
「よくいるんだ、あんたたちみてえのが」
「何が」
「ハニムーン[#「ハニムーン」に傍点]に来て、ケンカばっかりしとる若いもんが」
カッカッと声をたてずに笑って、「大丈夫だよ」
「大丈夫って、何のこと?」
と、江利が訊《き》く。
「見りゃ分るんだよ。年寄りの目にゃ狂いはねえ。おめえさんたちゃ、うまくいく」
「へ?」
「ちったあ、我慢する稽古《けいこ》をしな。今の若いのは我慢ってこと、知らねえ。——悪いこたあ言わねえから、仲直りして、今夜はせっせと可愛《かわい》がるんだな。明日は二人で手つないでこの道を歩いてるさ」
と言って、そのお婆さん、またカッカッと笑うと、「——さて、行くかね。お邪魔さん」
と、荷物を背に、よっこらしょと弾みをつけて、坂を上って行く。
——ポカンとしていた山辺と江利は、同時に互いを見て、
「何を勘違いしてやがんだ、あの婆さん!」
「ねえ。——ハニムーン[#「ハニムーン」に傍点]、だって」
江利は、急に真赤になった。「私たちが新婚さんに見えるなんて、変よね」
「冗談じゃねえよ!」
山辺も、どぎまぎして目をそらすと、「俺《おれ》は——女嫌いなんだ!」
「あら……。男が趣味なの?」
「違う! 女なんか——いくらだって寄って来るんだ。本当だぞ」
「そう」
「信じてねえな? 嘘《うそ》だと思うんなら、俺の手帳を見ろ。女の名前で一杯だ」
「ワン」
「何だと? ふざけやがって!」
「私じゃないわ」
「ワン」
「ドン・ファン。何してるの、こんな所で」
と、江利が声をかけると、
「あら、江利さん」
と、倉本そのみがやって来る。
「あ、どうも……」
「町役場に行くの。塚川さんと紀子さんが待ってるから。あなたもどう?」
「町役場って……何かあるんですか」
「岬信介の原稿とか日記があるかもしれないって。——こちらは?」
と、そのみが山辺を見て言った。
「あの——ハニムーン[#「ハニムーン」に傍点]です」
「え?」
「旅館で、ちょっと階段を転がり落ちて」
「お前が急に戻って来るからだろ!」
と、山辺は言い返した。
「まあ、いけないわ。頭が悪くなるかも」
と、そのみは改めて山辺を見直し、「却《かえ》って良くなったかもね」
山辺は、腹を立てるのも忘れて(?)江利と倉本そのみが、あの足の短い変な犬を連れて行ってしまうのを見送った。
「——何言ってやんでえ! 人を馬鹿《ばか》にしやがって!」
怒ったのは、二人の姿がとっくに見えなくなってからで、正にそのみの言葉を裏付けることになったのだった。
「——たぶん、この辺の段ボールの中にあると思うんですけどね」
と、若い職員が埃《ほこり》のつもった段ボールを抱えてやって来た。
「どうもすみません」
と、亜由美は言った。「後は私たちでやりますから」
「ま、ごゆっくり」
——感じのいい若者である。
「亜由美さんの魅力ですね。凄《すご》いなあ」
と、紀子はしきりに亜由美のことに感心している。
「ともかく、中を開けてみましょう」
小さな会議室を貸してくれたので、二人はそこで箱を開くことにした。
「倉本さんが来るまで待ちますか」
「いえ、その必要ないわよ。開けてしまいましょう。その内に来るわ」
亜由美は、埃を手で払ってフッと吹くと、箱のふたを開けた。
「——私、これからどうしよう」
と、紀子が言った。
「え?」
「俊子さんっていう人が、大江さんの娘さんだったなんて……。私、大江さんに申しわけなくて」
「そう。——気持は分るけどね。でも、心中って、大人が自分で選んだ道よ。何もあなたのお父さんが俊子さんを殺したわけじゃない。あなたが自分を責めることないわ」
「ええ……」
「さ、ともかく中の物を出してみましょ」
しかし、どうして岬信介の物が町役場にしまい込まれていたのだろう。
箱の中には雑多な物が詰め込まれていた。
写真立て、額縁、筆記用具……。
「これなんか、もし〈岬信介記念館〉でもできたら貴重よね」
二人が中の物をテーブルに並べていると、ドアが開いて、スルリとドン・ファンが入って来る。
「倉本さん、今、出してるところです」
「やっぱりあったの? すてき! これで卒論が書けるわ」
と、そのみは身近なところで喜んでいる。
「——岬信介の遺書が見付からないかと思ってるんですけどね」
と、亜由美は言った。「倉本さん。——どうかしたんですか?」
「いえ……。あの人——矢田部江利さんだっけ。一緒にそこまで来たのに、どうしたのかしら?」
「役場の入口のパンフレットでも見ているんじゃないですか」
「そうね……。あの人も可哀《かわい》そうに」
そのみの言葉に、亜由美はちょっと手を止めて、
「頭をお風呂《ふろ》でぶつけたからですか?」
「それもそうだけど……。私に助けられちゃ、立つ瀬がないでしょ。私のこと、殺したいくらい憎んでるはずなのに」
亜由美と紀子が顔を見合せる。
「私の付合ってる沢木って人がいるんだけど、あの江利さんって、沢木の恋人だったの。私のせいで捨てられたのよ」
と、そのみは言った。「きっと、私のこと殺すつもりで近付いて来たんだと思うの。それが足滑らして頭打って……。やり切れないでしょ」
おっとりと言っているが、亜由美は呆気《あつけ》に取られて、
「それが分ってて、一緒に朝ご飯食べたりしたんですか?」
「そう、お礼言わなきゃ。——私の彼氏が、『ろくでなし』だってことを、教えてくれたものね」
「はあ……」
「母が心配して、沢木の素行を調べさせたの。そしたら、もう……。貧しくたって、ケチだっていいのよ。でも、私の方がお金持だっていうだけで、あの人を捨てるなんて。——許せないわ」
淡々と言うだけに、却って怖い。
「ごめんなさい、邪魔して。さ、続けましょう」
と、そのみが箱の方へ手をかけたとき、
「キャーッ!」
と、悲鳴が聞こえた。
「——今の、江利さんの声だわ」
と、そのみが言った。
「ワン!」
ドン・ファンがひと声鳴いて、会議室から飛び出して行く。
亜由美たちも、その後を追って駆け出した。
「——どうしたんですか!」
亜由美が表に飛び出すと、あの段ボールを出してくれた若い職員が、
「あの——ここにいた女の人がトラックに——」
「トラック?」
「小型トラックです。男が二人、女の人をかつぎ込んで、連れてっちゃいました」
遠くに、トラックが走り去るのが見えた。しかし、とても追いつけまい。
「どこのトラックとか——男たちの顔に見憶《みおぼ》えありません?」
「さあ……。はっきり見るだけの余裕もなかったんですけど」
江利をさらって、どうしようというのだろう?
「何を騒いでんだ?」
と、やって来たのは山辺だった。
「あ、階段から転がり落ちた人ね」
と、そのみが言った。
「そんな名前じゃない! ちゃんと、山辺って名前があるんだ」
と、むくれている。
「江利さんがさらわれたのよ」
「何だって!」
山辺はわけの分らない様子で、「あの女が? あんなのさらう物好きがいるのか?」
すると、そのみが、いきなり拳《こぶし》を固めて、山辺の顎《あご》を一撃した。——山辺は不意を食らって引っくり返り、目をパチクリさせているばかり。
「——どうしました?」
と、声がした。
「あ、殿永さん! 今、女の子が一人さらわれて——」
と、亜由美が言いかけて、「何があったんですか?」
殿永の厳しい表情に気付いたのである。
「あの旅館の女将《おかみ》が殺されたんです」
と、殿永は言った。