それにしても——こうも違うもんか。
亜由美だって、TVのマラソン中継なんかを見ることがある。
しかし、実際に走っていると、トップの方の何人かなど、亜由美が全力で駆けても追いつかないほどのスピード。むろん、グラウンドから外へ出た時点で、とっくに見えなくなっていた。
それに、驚いたのは生沢範子が何とも軽々と走っていることだった。
「範子! 無理するな!」
外の道路へ出たところで、男の声が飛んで来て、範子は笑顔で手を振った。
あれが、加山とかいう百メートルの選手か。
亜由美は範子から事情を聞いていたので、加山という選手も、元から知っていたわけでは、もちろんない。
「——どうぞお先に」
と、亜由美は範子に言った。「私、もうだめ!」
「あら、もう少し頑張りましょ」
と、範子が言った。「ここは見物の人も多いし。少し行けば、沿道の人も減りますよ」
「そう?」
「ほら、TVカメラ!」
中継車が何の間違いか(?)亜由美たちを映している。
そうなると、亜由美もいかにも本物[#「本物」に傍点]らしく、ちょっと顔をしかめて見せたりするのだった。
「少し前に出ましょ」
と言って、範子がピッチを上げる。
「——嘘《うそ》でしょ」
亜由美は思わず呟《つぶや》いた。
生沢範子は、まるきりの素人《しろうと》なんかじゃないのだ!
先頭集団は五人ほどで、三十メートルほどの間に並んでいる。
信子は二位。ミキはすぐ後ろにピタリとつけていた。
信子は、刺すような視線を背中に感じている。むろん、ミキのものだ。
でも、なぜそう敵のように思うのだろう?
中里を巡って、といっても、今はミキの方がずっと有利だ。そして、今日のマラソンでも、ミキはたぶん信子を抜くだろう。
それなのに、なぜそうも信子のことを恨んでいるように見えるのか。
——信子は、頭を振った。
ミキのことは考えまい。今は、走ること。それだけだ。
信子は、自分の足が軽やかに蹴《け》っている路面だけを、じっと見つめることにした。
「——中里さん」
と、その男が言った。
中里はギクリとした。
「あんたか……」
と、周囲を見回す。
グラウンドへ出る通路。——今は、中里とその男の二人しかいなかった。
黒っぽいスーツと、サングラスのその男は、どう見てもマラソンを見物に来たとは見えなかった。
「こんな所へ来ないでくれ」
と、中里は苦り切った様子で、「人目があるじゃないか」
「どこへでも行きますよ。金を返してもらうまではね」
と、男は言った。
中里は、壁にもたれて、
「返すよ。もう少し待ってくれりゃ」
「充分に待ったと思いますがね」
と、男は言った。「いいですか。一千万は少ない額じゃない。こっちとしても、あんたに消えられちゃ困るんでね」
「消えるもんか。——俺《おれ》はこの世界じゃ有名なんだ!」
「有名だからこそ、困るんでしょ。バクチの借金がかさんでると知られたら」
「もう少し待ってくれ。今日、優勝した方の選手を連れてよそへ移る。そこで金が入るんだ」
「だといいですな」
「本当だ」
「本当でないと、あんたが困ることになりますからね」
と、男は言って、冷ややかに笑うと立ち去った。
中里は、そっと冷汗を拭《ぬぐ》った。
「——畜生」
と、思わず呟いて、ふと人の気配に気付いた。
植田英子が立っていたのである。
「君か……」
「中里さん。——今の話、聞きました」
英子は中里の方へ歩み寄ると、「そのせいだったんですね。うちの社へ借金を申し入れたって、聞きました」
「おたくにゃ、ずいぶん貢献して来たつもりだよ」
と、中里は肩をすくめ、「でも、アッサリと断られた」
「何のお金かも分らず出す所はありませんよ」
英子は厳しく言って、「移るなんておっしゃって……。多田さんは知ってるんですか?」
「いや」
「彼女はK食品から移りませんよ」
「君の知ったことか!」
と、中里は苛々《いらいら》と怒鳴った。
「多田さんが気の毒じゃありませんか。あなたのために、あれだけやって来たのに」
「君は何も知らんことにすればいいんだ!」
と、中里は言った。「さもないと、〈Gスポーツ〉のシューズは欠陥品だとでもしゃべってやるぞ」
中里の言い過ぎだった。
英子はカッとなって、
「何とでもどうぞ。信子さんに話しますよ、私」
と言い捨てて、歩いて行く。
「——待て! おい、待ってくれ!」
中里があわてて追いかけた。「な、植田君……。冷静に話し合おう!」
「中里さんこそ、少し頭を冷やして下さい!」
英子がさらに足どりを速めたので、中里は走らなければならなかった……。
「——あれが先頭の五人ね」
と、グラウンドの客席に腰をおろした「亜由美応援団」の一人、清美が言った。
TV中継の画面が、グラウンドの大きなスクリーンに映し出されているのだ。
「多田信子だ」
と、聡子が言った。「凄《すご》くいい人ですよ」
「市原ミキか、あれが」
と、谷山は言った。「今、人気があるね」
「でも、私、多田信子の方が好き」
と、聡子は言って、「ね、ドン・ファン? ——どこ見てるの?」
ドン・ファンが見ているのは、ミニスカートでやって来ている女子大生らしい女の子たち五、六人。
「全く、もう……」
「さ、弁当を食べよう」
と、貞夫が言った。
「あなた。まだ早いわよ」
「そうか?」
「亜由美が戻ったら、一緒に食べましょ。午後の部は何があるのかしら」
運動会と間違えているのである。
「おや、亜由美さんですよ」
と、殿永が言った。
聡子はびっくりしてスクリーンへ目をやった。
「本当だ!」
亜由美が、相当へばってはいるようだが、ともかくまだ走っている。
しかも、三十人中、十五、六位というのだから……。
一緒に走っているのは、生沢範子。——こちらは結構楽しげだった。
「今、三キロ。——凄《すご》い、亜由美! 一キロだってもたないと思ってた」
聡子は唖然《あぜん》としている。
そこへ、
「失礼……」
「木下さん。もう出場する子はいませんよ」
と、谷山が言った。
「いや、しかし二人とも[#「二人とも」に傍点]頑張ってくれて」
「二人?」
「それはともかく……。殿永さん」
「やあ、どうも」
と、殿永が肯《うなず》いて、「さっきから気付いてましたがね」
「ちょっと来てもらえませんか」
木下の表情は、真剣だった。
「お知り合い?」
と、聡子が訊《き》く。
「以前にね」
殿永は立ち上って、「何かあったんですね」
「ええ、ちょっと……。ともかくこっちへ——」
聡子は、殿永と木下、二人の大きな体が階段へと向うのを見て、
「何か変だわ」
と言った。「ね、先生」
「——まさか、本当に?」
谷山はためらったが、「行ってみよう」
と、立ち上った。
聡子、谷山、ドン・ファンの三人[#「三人」に傍点]が席を立って、殿永たちについて行った——。
——そこは、更衣室の前の小さなロビーだった。
「この人は、植田英子です」
と、木下が言っていた。「〈Gスポーツ〉の社員で、選手にも信頼されてる人です」
床に倒れたその女性は、どう見ても生きているとは見えなかった。
「——絞殺だな」
と、殿永はかがみ込んで言った。「警察へは?」
「いや……。ともかく、マラソンが終るまで伏せておいてもらえませんか。騒ぎになると——」
「いいでしょう。しかし、殺人事件というものには犯人がいる。分るでしょう?」
「むろんです。でも、今殺人が起ったなんて知ったらパニックが……」
木下としては、せっかくのイベントが、という気持だろう。
「その代り、すぐ一一〇番!」
「分りました……。何てことだ!」
と、木下が駆けて行く。
「殿永さん……」
聡子が顔を出した。
「やっぱりですよ」
「やれやれ」
と、谷山が死体を見下ろして、「ともかく、亜由美がここにいないのがふしぎってとこですね」
「ワン」
と、ドン・ファンがひと声鳴いたのだった。