人間、疲れてくると、恥ずかしいとか、みっともないとか、そんなことはどうでも良くなる。
逆に言えば、
「まだここでやめちゃ、いくら何でもカッコ悪いわ」
と考える余裕のある内は大丈夫、ということである。
「もう……だ……め……だ」
と、亜由美は言った。
言葉がやたら途切れているのは、間ごとに呼吸しているからで、心臓の方は、「死にそう」ってとこまでいってないにせよ、足が時々もつれて、転びそうになる。しかし、普段の運動不足を考えれば、これだけ走れるのが我ながら驚異である。
これは、やはり朝、遅刻しそうになって、必死で駅まで走っているおかげかもしれない。人間、何が役に立つか、分らないもんだわ、などと亜由美は呑気《のんき》なことを考えていた。
「もう少し頑張りましょう!」
と言ったのは、ずっと一緒に走っている生沢範子。
生沢範子も、顔を真赤にしているが、それでも亜由美よりもちそうである。
この人、本当に走れないの? おかしいじゃないの!
心の中で文句を言いつつ、それでも自分だってこれだけ走っていられるんだから、と考えれば、そうふしぎでもない。
「もうどれくらい走った?」
と、亜由美は言った。
「さっき十キロを過ぎましたよ」
「十キロ?」
「凄《すご》いじゃないですか、塚川さん。走れないとか言って」
「そっちだって」
二人の会話は、むろん「ハアハア」という呼吸をいくつも挟みながらのことだったが、ここでは読みにくいと思うので省いてある。
でも——十キロ!
亜由美は、あとまだ三十キロもあるということより、自分が十キロも走った、ということに感動していた。
「私、グラウンド一周もやったことないのに!」
「外を走っていると、結構走れちゃうものなんですよ」
と、範子は言った。「でも、四十二キロはちょっとね」
「どうぞ、私に遠慮しないでね」
と、亜由美は言った。「——ああ、お腹空《なかす》いた!」
範子が走りながらふき出して、
「まだまだ大丈夫ですよ、塚川さん」
「今のは、無意識に出ちゃったの!」
と、亜由美は言い返した。
「ほら、ドリンク。少し飲むだけにしといた方が——」
色々な飲物を並べたテーブルが見えてくる。
「何があるの?」
「スポーツドリンクですよ、普通」
「アルコール、ない?」
「ないんじゃないですか」
亜由美は、適当に手近なのを一つつかんで、二口三口飲んだ。——なかなかいける。
「あんまり飲んでもだめですよ」
と、範子も少し飲んで、やめている。
「これ、どこに返すの?」
「セルフサービスじゃないんですから、投げときゃいいんです。その辺に落ちてるでしょ」
「投げる? ——だめよ! ハイジがそんなこと許さないわ!」
「え?」
亜由美は、沿道で見物している人たちの方へ駆け寄って、
「これ、捨てといて下さい」
と、中年のおじさんに渡す。「〈燃えないゴミ〉の方ですよ」
呆気《あつけ》に取られているおじさんを後に、また亜由美は走り出した。
「——面白い人ですね、塚川さんって」
と、範子が言った。
「馬鹿《ばか》なの。そうはっきり言って」
「とんでもない! 常識があるって、とってもいいことですよ」
賞《ほ》められてるのかどうか……。
しかし、亜由美にはそんなことを考えている余裕などなくなった。
「亜由美! ——亜由美!」
と呼ぶ声に顔を向け、
「聡子! 何よ、ずるい!」
と、亜由美は喚《わめ》いた。
聡子が、併走する車の窓から顔を出していたのである。
「ワン」
ドン・ファンも並んで前肢《まえあし》を窓にかけ、吠《ほ》えた。
「一緒に走れって」
「でも、凄い! じき十五キロだよ!」
「どうも……」
「ゴールしたら、亜由美の大好きなもんが待ってるからね」
「何よ? ギョーザ?」
「安上りだね、亜由美は」
「谷山先生の月給じゃね」
「ハハ。——殺人事件」
「嘘《うそ》ばっかり!」
「ところが本当! 多田信子の靴を納めてる〈Gスポーツ〉の女の人が、更衣室の前で殺されてたのよ」
「——本当なの? で、犯人は?」
「今、殿永さんが現場にいる。亜由美が後で聞いたら怒るだろうと思って」
「わざわざ知らせに来たの? 物好きね!」
でも、気にはなる。
あの多田信子のシューズを納めたメーカーの女性。
「植田さんのことですか?」
と、範子が言った。
むろん走りながらである。
「知ってるの?」
「今朝、グラウンドに来たとき、会いました。——凄く真面目《まじめ》そうな、いい人だったわ」
「可哀《かわい》そうにね」
と、亜由美は言った。
聡子が、
「じゃあね!」
と、手を振って、「頑張って!」
「ワン!」
「ちょっと! 聡子! ——それだけ言って、逃げちゃうの? ひどいよ! 待て!」
亜由美が車を追いかけようとして、思わず足を速めたが、無茶なことに決っている。
「アッ!」
と、声を上げたときは、もうバランスを崩して転んでいた。
「亜由美さん! 大丈夫?」
と、範子が駆け寄って来た。
「膝《ひざ》を……」
大体、こんな格好で転べば膝を打つに決っている。左の膝頭《ひざがしら》をすりむいて、血が出ていた。
痛い……。もうだめだ。こんな馬鹿なこと、しなきゃ良かったんだわ。
亜由美は、道路に座り込んで、もう二度と立ち上れないだろうという気がした。
「出血多量で死ぬかも……」
と、亜由美は言った。「そのときは、谷山先生に、『愛してました』って伝えてね」
膝をすりむいたくらいで死ぬわけがない。
「立てる? 手当してもらわないと——」
と、範子が亜由美を抱き起し、立たせようとしていると、
「何してるんだ!」
と、怒鳴られて、亜由美も範子もギョッとした。
「あ、加山さん!」
範子の恋人、加山が駆けつけて来たのである。
「早く走れ!」
「でも——亜由美さんがけがして——」
「いちいち、けがしたランナーの面倒なんかみなくていいんだ! これは競走なんだぞ!」
加山は、手にドリンクのボトルを一本持っていた。
「加山さん——」
「早く行け! 君もこのレースに出場してるんだぞ! 出たくても出られなかった選手が大勢いるんだ! その人たちのためにも、走れるだけ走れ!」
「加山さん——」
と、範子は言いかけたが、「分ったわ。後はよろしく」
そう言って、範子はまた走り出した。
「——あの人、無理に出させられたんでしょ?」
と、亜由美は呆《あき》れて、「本気なの?」
「出ると言ったのは自分だ」
加山の方も、やはり短距離とはいえ、ランナーである。いざとなると頭に血が上ってしまっているのだ。
「そんなこと言っても……」
と、亜由美は文句を言いかけたが、やめた。
生沢範子だって、倒れるまで走るって気はないだろう。
「けがは? 見せて」
と、加山が、亜由美の、傷を押えていた手を外した。
「痛いの。おぶってってくれる?」
加山は、手にしていたドリンクのボトルのふたを開けると、いきなり中身を亜由美の膝の傷にドバドバとかけた。
「痛い! 何すんのよ!」
亜由美は仰天して、思わず立ち上った。「私を殺す気?」
「そんなもん、けがなんて言わない」
と、加山は冷たく言った。「さあ走れ!」
「私——」
「TVに泣き顔が映ってもいいのか!」
加山は、すっかりレースの雰囲気にはまって[#「はまって」に傍点]しまっている。
頭に来た亜由美は、
「走りゃいいんでしょ!」
と、言い返してやった。「走ってやるわよ! あと——たった[#「たった」に傍点]三十キロぐらいのもんでしょ!」
「そうだ!」
「後で、憶《おぼ》えてらっしゃい!」
と言い捨てて、亜由美もまた走り出したのである……。
そのころ、先頭集団は折り返し点をとっくに通過していた。
折り返し点の少し手前から、市原ミキがじりじりと間をつめて来て、折り返し点、TVカメラの前を通り過ぎる瞬間、信子を抜いて行った。
信子の前を走っていた選手は途中でダウンしてしまっていたので、そこまで一位は信子だった。
それを、ミキは一気に抜いた。——明らかに、TVカメラの前で抜こうと待っていたのだ。
いつもなら、ミキは後半三分の二ぐらいの所でスパートする。それが今日はいやに早い。信子も少しペースを上げたが、とてもかなわなかった。
ミキはドンドン信子との間を空けて行って、ついに視界に入らないほど離れてしまった。
信子は、とても勝てない、と諦《あきら》めた。
もう、私の時代は終ったんだ。ミキの時代が来たんだわ……。
TV画面には、今ごろミキの姿が大きく映し出されているだろう。得意げな表情で走るミキ……。想像の中に、その顔ははっきりと浮んでいた。
それでも、二位といえば、やはりTVの中継車が絶えず捉《とら》えている。頑張ろう。ともかく、精一杯走ることだ。
沿道には見物の人たちも出ている。手を振ったり、声をかけてくれる人もいる。
もちろん、たいていの人は、誰《だれ》でも通って行く選手に手を振っているだけだが、中には、
「多田、頑張れ!」
と、名前を呼んでくれる人もいた。
そのこと自体がどうというわけでなくても、素直に、期待されていることを喜ぼうと信子は思った。
「多田さん!」
と、呼ぶ声がした。
見ると、〈Gスポーツ〉の社員である。
たちまち前を素通りしてしまうと、その若い男の社員は、あわてて駆け出した。
「多田さん! これを——」
と、何やらメモらしいものを振っている。
信子は、歩道の方に寄って、そのメモを素早く受け取った。
——何ごとだろう?
走るペースを落とさずに、メモを開いて読む。
〈植田英子が殺されました〉
目を疑った。
英子さんが? 殺された?
愕然《がくぜん》とした信子は、そのとき、前方で何かが起っているらしいことに気付いた