「どうぞ、入って下さい」
と、殿永が言うと、その男はおっかなびっくり、ドアを開けた。
「——〈Nシューズ〉の市原さんですな」
「そうです」
「かけて下さい」
市原和樹は、古びたロッカーの並んだ部屋の中を見回して、
「何の取り調べですか?」
と訊《き》いた。
「殺人事件と見られる死体が発見されましてね」
「死体?」
「〈Gスポーツ〉の植田英子さん。ご存知ですか?」
市原和樹は唖然《あぜん》とした。
「植田さんが殺された?」
「何か心当りは?」
「そんな……。知りませんよ!」
市原の言い方には、どこか不必要にむきになっているところがあった。
殿永のようなベテランの目はごまかせない。
しかし、もちろん殿永はそんな気配をおくびにも出さず、
「今日、この競技場で、植田さんに会いましたか」
と訊いた。
「ええと……。そうですね。ええ、スタートの前にチラッと」
「何か話は?」
「いや、よく憶《おぼ》えてません。こっちも妹のことで手一杯ですから」
と、市原は言った。
殿永の他に、部屋には木下がいた。
主催者側の責任者として、レースがどうなるか、気が気でない様子。
「木下さん、どうです?」
と、殿永が言った。「〈Gスポーツ〉と〈Nシューズ〉の間で、何かあったんじゃありませんか?」
「ああ……。そりゃもちろん、業界じゃ有名です」
と、木下は肯《うなず》いた。「〈Nシューズ〉は後発ですからね。こういう世界で、後発メーカーが売り込むのは凄《すご》く難しい。よほどのことがないとね」
「だからって——」
と、市原が言いかける。
「いや、植田君は良識のある人だったし、選手に不要なプレッシャーをかけるのを何よりも嫌った。だから市原ミキが急に〈Nシューズ〉の靴をはくと言っても、黙っていたんだ」
「問題があったんですか?」
「契約というわけじゃないが、覚書のようなものは交わしていたはずですよ。他のメーカーのシューズははかない、と。それを黙って破られたんだから——」
「僕は、何も知りません」
と、市原は言い張った。「妹が『大丈夫』と言うので信じただけです」
「それは妙ですな」
と、殿永が微笑《ほほえ》んで、「同じ業界にいて、いくらミキさんがそう言ったといっても、あなたが事情を知らんはずはない」
市原は、青くなったり赤くなったりしていたが、
「——確かに、知ってはいました」
と、渋々《しぶしぶ》言った。「でもね、上司からは『何が何でもうちの靴を使わせろ!』って怒鳴られて、こっちは『いやです』なんて言えますか? これぐらいのこと、仕方ないじゃありませんか」
「しかし、内心植田さんは怒っていたでしょうな」
「そりゃまあ……」
「そこで、たまたま更衣室の前で会ったとき、口論になり……。つい、カッとなって——」
「とんでもない!」
市原は真赤になって立ち上ると、「誰がそんなことするもんか! 馬鹿なことを言わないでくれ!」
殿永は至って穏やかに、
「たとえば、の話ですよ。——ま、落ちついて」
と言った。「ちゃんとレースが終るまではグラウンドの辺りにおられますね?」
「——むろんです。妹がトップでゴールインするのを見届けないと」
「なるほど。では、何かあれば呼出しをします。耳を澄ましていて下さい」
市原はせかせかと出て行った。
「忙しい奴《やつ》だ」
と、木下が言った。「ちょっと私も失礼して……。展開が気になるので」
「どうぞ。塚川さんがまだ走っておられるかどうか、確かめておいて下さい」
と、殿永も呑気《のんき》なことを言っている。
「分りました」
木下がドアを開けると、目の前に谷山が立っていた。
「——ど、どうも」
木下があわてて出て行くと、谷山が入れ替りに入って来て、
「何か分りましたか」
「市原和樹という靴屋さん[#「靴屋さん」に傍点]は、すぐカッとなるたちだということくらいですかな」
と、殿永は言った。「塚川さんはどうしました?」
「まだ走ってるようです。——そう頑張らなくてもいいのに」
と、腰をおろす。
「意地っ張りのところが、あの人を何度も危険から救ったのです」
「まあね……。そうそう、TV局の人間がコーチを捜し回ってましたよ」
「コーチ? 中里とかいいましたね」
「そうです。インタビューの約束があったのにいないと言って」
殿永は少し考え込んでいたが、
「——行ってみましょう。ともかく事件の後、姿を消したということだけでも問題です」
と、立ち上った。
二人が、グラウンドへ出て行くと、むくれっ放しという顔の男が腕組みをして、立っている。
「——TV局の方?」
「そうですよ」
「私は……」
と、殿永が警察手帳を見せると、
「何? 二時間ドラマのロケかい?」
谷山が、TV局の男の肩を叩《たた》いて、
「本物[#「本物」に傍点]の刑事さんに、その言い方は失礼だと思いますがね」
と言った。
「まさか……」
と、目を丸くすると、突然、ハハハと笑って、
「いや、失礼しました! あまりにスマートな二枚目なので、本物のわけがないと思いまして!」
「それは皮肉に聞こえますが」
と、巨体の刑事は言った。「ともかく、中里コーチのインタビューのことを聞かせて下さい」
「いや、参りましたよ」
と、TV局のプロデューサーだというその男はこぼした。「レース中、市原ミキがトップに立ったら、すかさず画面に出てもらうということで、話をしてあったのに……」
「もうトップなんですか?」
「ええ、二位が多田信子ですが、もう何百メートルか離されています」
「ほう」
殿永が、掲示板の大スクリーンへ目をやると、市原ミキの姿が一杯に映し出されている。
「——ちゃんと謝礼まで前金で払ったのに……」
と、プロデューサーが口を尖《とが》らす。
「前金で?」
「そうです。——どうやら借金がかさんでいたようでね。それで、インタビューの話にも飛びついて来たんですよ」
そこへ、神田聡子とドン・ファンがやって来た。
「先生!」
「やあ、どうした? 亜由美君に会えたかい?」
「ちゃんと走ってますよ、亜由美! あの生沢範子さんって人と一緒に。凄《すご》いなあ」
「ワン」
「ドン・ファンも賞《ほ》めてら」
と、聡子は笑った。
「中里コーチは、今どこです」
と、殿永が訊《き》くと、プロデューサーは肩をすくめて、
「知ってりゃ、首に縄つけてでも引張って来ますよ!」
「中里って、多田信子のとこのコーチでしょ!」
と、聡子が言った。「車で私たちが戻って来るとき、見ましたよ」
「ど、どこで?」
と、プロデューサーが勢い込んで訊く。
「ええと……。もう、先頭に追いつくくらいじゃないですか? 車だったから」
「車?」
「自分で運転して。——コーチだから、文句も言われなかったみたい」
「中継車に捜させよう!」
と、プロデューサーは駆け出して行く。
「何だか忙しい人ね」
と、聡子が言った。
「借金がかさんで、か……。怪しいですね」
と、谷山が言った。
「谷山先生、亜由美の影響? 口のきき方まで似て来た」
と、聡子がからかう。
「その辺のことは、K食品の人に当ってみましょう」
と、殿永が言って、一旦《いつたん》戻りかけた。
そのときだった。
場内がどよめいた。——何ごとだ?
聡子が、掲示板のスクリーンへ目をやって、
「見て!」
と、叫んだ。「市原ミキが倒れてる!」
大画面には、意識を失ったのか、目を閉じてぐったりと倒れている市原ミキと、急いで駆け寄る救急隊員、そしてマスコミのカメラマンの姿が映し出されている。
「あんなに調子良く走ってたのに」
と、聡子は唖然《あぜん》として言った。
「クゥーン……」
ドン・ファンも心配そうに鳴いた。
「こんなこと、聞いてませんよ! どうするんですか!」
男の声は、ほとんどヒステリックなほどの怯《おび》えを示していた。
声が階段の辺りに響く。
「——分ってます。——もしもし? ——ええ、そうですね」
と、やや諦《あきら》めた調子で、「でも、相手は警察ですよ。——ええ、もちろん植田英子を殺す理由はありませんからね。でも、何しろライバルメーカーだし、ミキのことはあるし……。いざとなったら、本当のことをしゃべるしかありませんよ。そうでしょう?」
市原和樹である。——人気《ひとけ》のない階段で、携帯電話を使っていた。
「——分りました。ともかく今のところは……。ええ、レースが終るまで、ここを出るなと言われてるんです」
市原は、息をついて、「じゃあ、何かあったら、またかけます。——はい」
と、電話を切った。
そして、やけ気味に、
「やれやれ……。言うだけなら何とでも言えるさ。畜生め!」
と、呟《つぶや》く。
電話をポケットへ入れ、歩き出そうとして——。
目の前に立っていたのは、加山だった。
「ああ、短距離の加山さんですね」
と、市原は営業用の笑顔になって、「〈Nシューズ〉の市原と——」
「知ってる」
と、加山は言った。
厳しい表情で、市原をにらみ、
「今、君は何と言ってた?」
「え? 聞こえましたか?」
「『植田英子を殺す理由』がどうとか言わなかったか?』
「え、ええ……。言いました』
「植田英子って、〈Gスポーツ〉の? 多田さんや僕にシューズを提供してくれている……」
「ええ、そうです。でもね、〈Nシューズ〉でも、短距離用のシューズを用意してるんですよ。ぜひ今度はいてみて下さい」
加山は、しかし靴のことなど関心がなかった。
「植田さんが殺されたのか? どういうことなんだ!」
と、市原の胸ぐらをつかんだ。
「ちょっと! ——落ちついて下さい! お願いですから、カッカしないで下さい!」
「返事をしろ!」
「分りましたよ……。ええ、殺されたんです、ここの更衣室の前で」
「いつだ?」
「さあ……。知りませんよ。僕が殺したわけじゃないんですから」
市原はややふてくされている。
加山はやっと市原から手を放して、
「誰がやった?」
「今、警察が調べてますよ。——レースが始まって間もなくじゃないですか」
「何てことだ……」
加山は、やっと信じる気になったらしい。
「もちろん、僕もライバルではありましたけど、あの人のことを尊敬してました。業界の本当の意味でベテランでしたね」
加山は皮肉っぽい口調で言った。
「じゃ、どうして彼女に断らずに、ミキちゃんに君の所のシューズをはかせたんだ」
「それは——」
「ちゃんと話せば、植田君はだめとは言わなかった。そういう点、よくものの分った人だったからな」
「でも、相手は大ベテランですよ。とても、正面切って、そんなお願い、できませんよ!」
加山はなおも市原のことを信じていない風だったが、
「警察はどこに?」
「この先を左に行った小部屋です」
「分った」
と、加山が歩き出そうとすると、階段をドドッと駆け下りて来る足音が聞こえて、思わず足を止める。
ただごとでない勢いだった。
記者やカメラマンが何十人も階段を駆け下りて行く。
「——何ごとだ?」
と、加山が言うと、市原は首をかしげた。
「おい!」
加山は記者の一人を捕まえて、「何かあったのか?」
と訊いた。
「市原ミキが倒れたんだよ!」
相手は怒鳴るように言い返して駆けて行く。
「——ミキが?」
市原はよろけた。
「しっかりしろ!」
「そんな……。そんな馬鹿《ばか》なこと……」
市原は青ざめていた。「ミキ……」
「早く行って、どこで倒れたのか、確かめて来い!」
と、加山にどやしつけられて、市原はやっとの思い、という様子で、グラウンドの方へと歩いて行った。