多田信子は、一体何があったんだろう、と不安を隠し切れなかった。
植田英子が殺されたというだけでもショックなのに……。
何か起ったことは確かだった。前方に人だかりが見え、TVの中継車もいる。
信子は、近付くにつれ、「まさか」という思いがふくれ上ってくるのを感じた。
まさか! ミキが?
しかし、信子より前を走っていたのはミキだけだし、あの様子は——。
そのとき、もっとショッキングなものが、信子の目に映った。——救急車だ。
サイレンが耳を刺し、信子を一気に追い抜いて行く。
ミキ……。どうしたのだろう?
そこ[#「そこ」に傍点]までの、ほんの数分がとんでもなく長く思えた。
人が集まっている。道を半ばふさぐ格好になっているので、係の人が立って、道の端の方を通れと合図を送っていた。
しかし、信子はとても素通りする気にはなれなかった。
「どうしたの?」
と、声をかける。
「突然倒れたんです!」
と、青ざめた顔で、係の男が言った。
「意識は?」
「ないみたいです」
信子は、担架に乗せられたミキが救急車へと運び込まれるのを、信じられない思いで見ていた。
「——信子、何してる!」
と、突然声が飛んで来た。
中里だ。車が停《とま》り、降りて来ると、
「早く走れ! 止るな!」
と、怒鳴った。
「でも、ミキさんが——」
「お前に何がしてやれるっていうんだ? レースだぞ! 早く行け!」
信子にも、中里の言う通りだということは分っている。しかし、すぐに走り出すには抵抗があった。
「信子——」
「行きます」
と、信子は遮って、「ちゃんと後で知らせて下さい」
「分った」
「植田さんが殺されたって、本当ですか」
信子の言葉に、中里は顔をこわばらせた。
そこへ、
「中里コーチ! プロデューサーが、お話ししたいと言ってます。電話に出て下さい!」
と、TV中継車の中から声がかかった。
「行け」
と、中里は信子に言った。「お前は、ただ走ればいいんだ」
振り向くと、次のランナーが迫って来ている。
信子は、救急車が再びサイレンを鳴らして走り出すと、その音に追い立てられるように、レースに戻った。
ミキが倒れた! あんなに元気そうで、張り切っていたのに。
一体何があったのだろう?
植田英子が殺され、ミキが倒れる。——とんでもないレースになったものだ。
信子は気を取り直した。
TVの中継車が、再び走り出した信子を正面から捉《とら》える。
そうだ。——今、大勢の人がTVの画面で信子を見ている。
迷っている暇はない。ひたすら走って、記録を、少しでも縮めることだ。
英子がくれたシューズは快適で、足も痛まなかった。
英子さん……。いい記録、出してみせるからね。
そう心の中で呼びかけると、信子はピッチを上げた。
「——市原ミキ選手は、途中で倒れ、意識不明の状態で、救急車で運ばれました」
アナウンスがスタジアムの中に流れると、観客席はどよめいた。
「まあ、可哀《かわい》そうに」
と、清美が言った。
「とんでもないことになりましたね」
と、谷山が客席に戻って来て言った。「殺人は起る、選手は倒れる……。木下さん、発狂するかもしれないな」
「何ごとも神の思《おぼ》し召しです」
と、塚川貞夫が言った。
「亜由美、大丈夫かしら?」
と、清美は言った。
「そろそろ音を上げると思うんですが」
と、谷山は妙な期待[#「期待」に傍点]をしていた。
清美は、少し考えていたが、
「——ねえ、救急車に乗せてもらって戻って来れば早いわね。ゴールの近くで降ろしてもらって。楽だわ」
とんでもないことを言っている。
「——一体どうなってるの?」
と、聡子とドン・ファンも席へ戻って来た。
「ともかく、亜由美は殺されてないようよ。——お弁当食べる?」
清美は呑気《のんき》なものである。
「人は運命に逆らうことはできんのだ」
と、貞夫が言った。「亜由美がビリになっても、それは神のご意志だ」
「あ、亜由美!」
と、聡子がスクリーンを指さした。
〈折り返し地点〉を、亜由美と生沢範子が仲良く通過するところだった。
「——亜由美の後ろにも選手がいる!」
と、聡子は信じられない、という様子で、「へえ……。あの人たち、ショックだろうなあ、亜由美に負けたら」
「それは言える」
と、谷山が肯《うなず》いた。「ま、ゴールまではもたないさ」
「でも、頑張れ、亜由美!」
スクリーンに向って叫んでも聞こえるわけはないが……。
ともかくドン・ファンも一緒になって、
「ワン!」
と、力強く吠《ほ》えたのだった。
「——木下さん」
と、呼ばれて、S新聞の木下は苛々《いらいら》と振り向いて、
「今、忙しいんだ!」
と怒鳴ったが、「——ああ、奥さん」
中里コーチの妻、知香である。
「良かったわ。知ってる方がいなくて」
と、知香はグラウンドを見渡して、「あの……主人は?」
「中里さんは、車で選手の所へ行ってます。市原ミキが倒れましてね」
「知ってます。見てました」
と、知香はスクリーンの方へ目をやって、「同情する気にはなれません。主人のことを誘惑して」
「奥さん……」
木下は周囲を見回して、「こんな所で……。マスコミに聞かれたら厄介ですよ」
「困るのはあの人で、私じゃないわ」
と、知香は素直に言った。「今、信子さんがトップ?」
「ええ。市原ミキが断然引き離してたんですがね」
木下は、知香を見て、「しかし……ご主人は、多田信子とも……」
「ええ」
と、知香は肯いた。「でも、それは主人の方が悪かったと思います」
「多田君は被害者だと?」
「少なくとも、信子さんは私に対して申しわけないと思ってくれましたわ。でも、あの市原ミキは——」
「しっ」
と、木下が急いで声をひそめ、「ミキの兄です」
知香は、何だかぼんやりと歩いて来る市原を見ていた。
「木下さん……。妹がご迷惑かけて」
「いや、そんなことより、どんな具合だって?」
「今、検査を受けてます。とりあえず、意識はないが、すぐ命にかかわるということじゃないそうです」
「そりゃ、不幸中の幸いだね。——中里コーチの奥さんだ」
「どうも……」
と、市原は会釈した。「〈Nシューズ〉の市原です」
「市原さん? じゃ、ミキさんの——」
「兄です」
市原は、早々に行ってしまった。
知香は少しの間、何か考え込んでいたが、
「失礼します」
と木下に向ってひと言言って、市原の後を追って行った。
——階段に響く足音で、市原は足を止めて、振り返った。
「奥さん。何か僕にご用ですか」
市原の声には、表情がなかった。
「市原さん。私の主人とミキさんのこと、ご存知ね」
と、知香が言った。「そりゃそうよね、二人の泊るホテルだって、あなたが予約してるんですものね」
「奥さん……。謝れとおっしゃるなら謝ります。でも、今は勘弁して下さい」
市原は、真剣な顔で言った。「妹が入院して、どうなるか分らないんです」
「ええ、知ってるわ」
「そりゃ、奥さんから見れば、ミキがご主人を奪ったようで、腹が立つでしょうけどね。でも、お互い大人同士です。責めるのなら、ご主人の方も責めて下さい」
市原の声は少し上ずっていた。「うちの社の経費で、呑《の》み食いや、ホテル代まで。払うから悪いと言われりゃその通りですが」
「私、そんなこと言ってないわ」
と、知香は言った。
「じゃ、何です?」
「主人の女ぐせの悪いのは、大学の教師のころから。よく陸上部の女子学生に手を出してたものよ」
と、知香は言った。「でもね、私があなたに訊《き》きたいのは——」
「何です? 早く言って下さい」
と、市原は苛々している。
「私、主人を尾行したり、見張ったり、何度かしたの。ずいぶん探偵業も上達しましたよ。——ホテルで、主人は何か急用ができて、帰ってしまったことがある。バーで飲んでてね。私、ミキさんの顔をよく知らなかったので、しっかり見ておこうと思ったの。待ってると、バーからミキさんが出て来た。あなたも[#「あなたも」に傍点]一緒にね」
「そりゃ、送っていきますしね」
「でも、あなたは送っていかなかったわ」
「どういう意味です?」
「私、見てたのよ、あなたがミキさんと、しっかり肩を抱いて、エレベーターへ乗るところを。エレベーターは上に[#「上に」に傍点]行くところだった。他にお客がいないと思っていたんでしょうね。扉が閉る寸前、私は見てたのよ。あなたとミキさんがしっかり抱き合ってキスするのをね」
市原は青ざめた。
「あれは、どう見ても男と女。恋人同士のキスだわ。本当に兄と妹だったら、ああはしないでしょ」
市原はじっと知香を見つめていたが、
「——まあ、確かに」
と、不意に投げやりな口調になって、「だからどうだっていうんです? ミキと私は夫婦[#「夫婦」に傍点]ですよ」
「奥さん? じゃあ——奥さんがうちの主人と泊るのを——」
「平気じゃありません。平気なわけはないでしょう? でもね、そんなこと言っちゃいられないんです。何としても、中里コーチに、うちのシューズを認めてもらわないとね」
市原は、冷ややかに笑った。「あんたなんかに、何が分るんだ? 俺《おれ》たち営業の人間はね、自分の身を削らなきゃ、やっていけないのさ」
「馬鹿《ばか》げてるわ!」
「もちろんさ。馬鹿げてる。だがね、ミキにとっちゃ、多田さんを徹底的にやっつけておいて、それからK食品をコーチと一緒に出る。——それが夢だったんですよ」
「そういうことなの。でも、私は主人に教えてやるわ。ミキさんとあなたが、兄妹じゃなくて、夫婦だってことを」
知香は階段を上って行こうとした。
「待ちなさい!」
市原は一気に階段を駆け上り、知香の前に回った。
「——何よ」
「しゃべられてたまるかって。——俺の今までの苦労を水の泡にしようってのか?」
「どいて!」
「いやだ」
市原は、手を伸ばすと、知香をいきなりドンと突いた。
知香は、転落しかけるのを、手すりにしがみついて、何とかこらえた。
「何するの!」
「ちっとは、奥さんにも『痛み』ってもんが分ると思ってね」
市原は、階段を下りて行く。
「近寄らないで、大声出すわよ!」
「どうぞ。こんな所で叫んでも、誰《だれ》が聞くと思います?」
市原は低い声で笑って、「さて、足の一本も折ってもらいますか。首の骨でもいいですよ」
「やめて!」
「おとなしくしろ!」
市原がつかみかかろうとした。
そのとき、
「ワン!」
と、鋭いひと声。
ハッと市原が振り仰ぐと、階段の上から、茶色く長いもの——むろんドン・ファンである——が、タタッと駆け下りて来て、市原の顔めがけて飛びかかる。
「ワッ!」
思わず両手で防ごうとした市原は、体のバランスを失った。
足を踏み外したまま、階段の下まで一気に転がり落ちる。——ドン・ファンも危うく転落するところだったが、知香が手を伸ばし、ドン・ファンの後ろ肢《あし》をつかんだ。
おかげで、ペタッと貼《は》りつくような格好になって、あまりいいスタイルとは言えなかったが、ともかく転落はまぬがれたのである。
「——ドン・ファン。よくやった」
聡子が上から見下ろして、「殿永さんを呼んでくるからね! 見張ってるのよ!」
「ワン!」
体勢を立て直し、ドン・ファンは力強く吠えた。
しかし、見張るまでもなく、市原は完全にのびているようだった。