もうだめだ……。
ハイ、ここでおしまい。
亜由美は、少し前を行く生沢範子へ、
「私……もう……」
と声をかけた。
「え?」
と、範子が振り向く。
「もう……もう……」
牛じゃあるまいし、というところである。
でも、それで充分に言いたいことは通用するはずだ。
「でも、亜由美さん、せっかくここまで来たのに、もったいないですよ」
と、範子が言った。
「そんな……こと……言っても……」
さすがに、亜由美のペースは極度にダウンして来て、今やほとんど歩くのと変らなくなっていた。
少なくとも、途中で棄権した選手以外は、みんな亜由美たちを抜いて行ったので、事実上、亜由美は今ビリだった。
沿道も、もう終ったと思っているのか、ほとんど人の姿はない。
「もう……やめる」
と、亜由美は歩き出した。
「でも、三分の二も来たのに」
「三分の二?」
「ええ。三十五キロをさっき過ぎたでしょ?」
「三十……五キロ?」
体重じゃないのだ。体重なら四十二キロなんか軽くいってしまうが(?)、走る距離のキロ[#「キロ」に傍点]となると……。
「これからは、今までの五分の一ですよ。体も慣れて来て、段々楽になるし。本当ですよ」
「そう?」
「二人で、のんびり行きましょうよ」
「そうね……」
正直なところ、どうしようか、と考えるのも面倒くさかったのだ。
で、結局、亜由美はまた走り出したのだった。
走り出すと、確かに少し体が軽くなったような気がする。
「——亜由美!」
と、声がして、また聡子が車の窓から手を振っている。
「聡子……」
「頑張れ! ここまで来たら、ゴールまでひとっ走り!」
「気楽に言うな」
と、むくれる。「——事件は?」
「市原ミキの兄貴って言ってたのが、実は亭主でさ、ドン・ファンが大活躍でコーチの奥さんの命、助けた」
この説明じゃ、何だか分るまいが、
「そりゃ良かったね」
などと亜由美は笑顔を——見せたつもりで、しかめっつらにしかならなかった。
「市原ミキさん、大丈夫ですか?」
と、範子が訊《き》いた。
「病院で診たら、心臓に欠陥があったんだって!」
と、聡子が言った。「よく今まで走ってたね」
「じゃ……」
「もう、走るのは無理だって」
「可哀《かわい》そうに……」
と、範子は言った。
私だって可哀そうよ! ——亜由美は、そう訴えたかった。
「多田さんはもうゴールしたんですか?」
と、範子が訊いた。
「とっくに」
と、聡子は肯《うなず》いた。「新記録ってわけにはいかなかったけど、良かったみたいですよ」
「ご苦労さん」
と、木下が駆けて来て、信子の肩を叩《たた》く。「いや、助かったよ! 頑張ってくれて。とんでもないレースになるところだった」
「植田さんが殺されたって、どういうことなんですか?」
と、信子は訊かずにはいられなかった。
「まあ、そのことで、刑事さんが話したいと言ってる。少し休んでからにするかい?」
「いいえ、大丈夫」
肩を冷やさないように、タオルをかけて、「案内して下さい」
と、信子は言った。
——小部屋へ入って行くと、
「ああ、おめでとうございます」
と、その太った刑事が言った。
「ありがとうございます。でも——」
「植田英子さんと親しかったそうですね」
「はい」
と、信子は肯いた。
「お疲れでしょう。かけて下さい」
信子は椅子《いす》に腰をおろすと、
「犯人は?」
「今、市原という男がやったのではないかと思われているのですがね」
「市原……。ミキさんのお兄さんですね」
「実は夫だったのです」
信子は目を丸くした。
殿永の説明に、信じられない思いで聞き入っていたが、
「——じゃ、コーチの奥様、ご無事だったんですね。良かった!」
と、息をつく。
「ところで、そのコーチですがね。今、どこにいるのか分らんのですよ」
「中里さんが?」
「一度は、市原ミキが倒れた場所にいたそうですね?」
「はい」
「ところがその後、TVのインタビューに答えて、それきり……」
「市原さんの所は、中里コーチにお金を出していたはずです」
「加山さんが——。ああ、どうも」
ドアが開いて加山が入って来た。
「加山さん。——あなたの彼女[#「彼女」に傍点]、まだ頑張ってるの?」
「うん……。信じられないよ」
「塚川さんも、走っています」
と、殿永はおっとりと言った。「あの人は、先天的名探偵でしてね」
「何ですの、それ?」
「自分では意識しない内に事件を解決してしまうという、希《まれ》な能力を持っているんです。——加山さん、ところでお話というのは……」
「ああ、実は今日、中里コーチから移籍しないかと持ちかけられ——」
「まあ、そんな話、全然知らないわ」
「うん。僕も初耳でね。断ったんだが、どうも話の様子じゃ、勝手によその会社に請け合ってるんじゃないかと思ってね」
「請け合ってる?」
「『誰と誰を連れて行く』ってさ。そうしないと、話が決らないだろ」
「そうね……。あり得るわ。コーチ、お金に困ってたみたいだから」
「もしかして、事件と係《かか》わりがあるかもしれないと思って、お話ししたんです」
と、加山は言った。
ドアが開いて、
「殿永さん!」
と、谷山が入って来た。
「どうかしましたか」
「中里コーチがいましたよ」
「どこに?」
「ちょっと来て下さい」
——殿永が急いで出て行くと、信子と加山もついて行った。
谷山は、グラウンドへ出ると、
「ほら」
と、掲示板の大スクリーンを指さした。
「——まあ」
と、信子が言った。
スタジアムの観客たちが、ほとんど席を立っていなかった。
選手が次々にゴールインして、普通なら、みんな腰を上げるところだ。
しかし——スクリーンには、最後の二人、亜由美と生沢範子の走る姿が映し出されているのである。
「最後に残りました、この二人。塚川亜由美と生沢範子という、無名の二人のランナーは、諦《あきら》めることなく、最後の力を振り絞って走っております!」
力強いアナウンスが流れ、観客もじっとスクリーンを見つめている。
「——そして、あの二人について励ましているのは、中里コーチであります!」
中里が、車から声援を送っている。
「あんな所にいたんですな」
と、殿永は言った。
「でも……凄《すご》いわ」
と、信子は唖然《あぜん》として、「走ったことのない人が……」
アーッという声が一斉に上った。
亜由美が転んだのだ。
「——亜由美さん!」
範子が駆け戻って来た。
亜由美は、ハアハアと喘《あえ》ぎつつ、両手を突いて起き上った。
「行って!」
「もうやめましょ。ね? ごめんなさい。私が無理させちゃったから……」
と、範子が亜由美の腕を取る。「ここから中里さんの車で——」
「走る」
と、亜由美は言った。
「でも——」
「あと、たった五、六キロでしょ」
「よし!」
中里が車から降りて来ると、「君は行け。レースはまだ終ってない」
と、範子へ言った。
「でも……」
「さ、行け! 少しでも早くゴールへ入るんだ」
中里は、亜由美の方へ、「けがはしてないな。——よし、走れるかね?」
亜由美は肯《うなず》いた。
範子が走り出す。
グラウンドに立ってスクリーンを見上げていた信子は、
「加山さん……」
と言った。
「うん」
言いたいことは、分っていた。
「あの人……初めてじゃないわよ」
「そうだな」
加山は、首を振って、「ショックだ」
「でも——」
「嘘《うそ》をついたんだ、僕に」
「言いにくかったのよ」
加山は、黙ってスクリーンを見上げている。
また観客がどよめいた。そして、次にワーッという歓声と拍手が大波のように盛り上った。
亜由美が走り出したのだ。そして、並んで中里も走り出したのである。
「——よし、そのリズムで」
と、中里が言った。
亜由美は、正直に言うと少しずつ体の方は楽になって来ていた。
ただ、足が思うように上らないことがあるので、つまずいて転びそうになるのである。
「大したもんだ。——いや、脱帽だよ」
と、中里は言った。
「どうも……」
「木下君に頼まれたんだろ?」
「ええ」
「しかし、こんなに走れるとはね。——君も思ってなかったんじゃないかね?」
「そうですね」
亜由美は笑みすら浮かべる余裕があった。
生沢範子は何十メートルか先に行っている。
「あの足は走ったことのある足だ」
と、中里が言った。
「そうですね。——きっと、わざと加山さんに近付いたんですね」
中里は亜由美を見て、
「何のことだね?」
「加山って人を引き抜くために。——走らなきゃ、分らなかったのに」
中里は、少しの間無言で亜由美を見ていたが、
「——君の言う通りだ」
と、走りながら言った。「そこ、穴があるよ! 気を付けて。——走るってことは、単純だ。それだけに、正直に人間が出てしまうものなんだよ」
「あなたも?」
中里は、亜由美の言葉に苦笑して、
「かもしれない。しかし、正直[#「正直」に傍点]なんてものがもう俺とは無縁かもしれないよ」
と言った。「——さ、あと三キロだ。頑張れ!」
TVの中継車が、トップの選手並みに、亜由美を捉《とら》えている。
「——そんなことありませんよ」
と、亜由美は言った。「私と一緒に走ってるじゃありませんか。そんな正直[#「正直」に傍点]なことってないですよ」
中里は、じっと前方を見て走っていた。
「——気持いいですか」
と、亜由美は言った。「損得も名誉も、何もないのに、こうして一緒に走ってる、って、気持いいですか」
「——ああ」
と、中里が肯く。「選手たちにやかましいことは言うけど、自分でやってみることはほとんどない。それが楽しい、趣味としての走りなんて……何年ぶりかな」
「でも忘れてないんですから」
「うん……」
「頑張って[#「頑張って」に傍点]! 忘れないように」
亜由美の言葉に、中里は何と言っていいか、分らない様子だった……。
「今、スタジアムへ入って来ます! 最後のランナー、塚川亜由美、堂々のゴール!」
亜由美がスタジアムの中へ入って行くと、ワーッという大歓声が上った。
いやだ、恥ずかしい。
亜由美は、大げさなアナウンスが恥ずかしくて、逃げるように足を速めた。
「——ラストスパート! 疲れきった足で、ラストスパートであります!」
大げさなのよ! もう!
亜由美はグラウンドを一周した。
ゴールのテープ。わざわざ、張って待っててくれている。
範子が先に着いて、一緒に拍手していた。
聡子とドン・ファン、両親と谷山……。
みんながゴールの所で待っている。
やめてよ、みっともない!
亜由美は、ゴールした。
拍手と口笛。——スタジアムは今日の一番の興奮に包まれていた。
中里が少し後から駆けて来て、
「よくやったよ」
と、亜由美の肩を叩《たた》いた。「すぐ寝ないで、少し歩き回って。いいね」
「ええ……」
信子がやって来て、
「すばらしいわ!」
と、亜由美と握手した。
中里は、信子と並んで、亜由美を見送っていたが、
「——信子」
「コーチ。すてきでしたよ」
と、信子は言った。「走るのを、久しぶりに見ました」
木下が笑顔でやって来ると、
「中里さん! 良かった! 今日のイベントのしめくくりに、最高のプレゼントだ」
中里は、少し寂しげに、
「俺《おれ》は、そんな資格のない男だ」
と言った。
「中里さん……」
「木下さん。あんたもだ。今、道を誤ると、後はどんどん泥沼の中へはまっていく。俺の借金と同じにね」
「コーチ、それって——」
「二人で、警察の人に話そう」
「コーチ!」
「植田君と言い争った。バクチの借金がかさんでたんだ」
と、中里は言った。
「じゃ、コーチが?」
「俺は……彼女が信子にしゃべると言ったので、カッとして首をしめようと手をかけた。だが……できなかった」
中里は、ため息をついた。「そこへ、木下さんがやって来た。ともかく、この大会を成功させなきゃならなかった木下さんは、植田君を止めようとして……」
中里は首を振って、
「許してくれ。俺が彼女を怒らせなきゃ、こんなことには……」
「いや、私もどうかしてた。却《かえ》って会を台なしにすることぐらい、分ってるのに」
と、木下は言った。
「行こう。よく事情を話して、すべて打ち明ければ……きっと……」
中里が木下の肩に手をかけて、歩いて行った。
信子は、その後ろ姿に、どこか爽《さわ》やかなものを感じた……。