ああしなきゃいけない、こうしなければ、と分っていて、何もできないことが——何をする気にもなれないことが、人間にはあるものである。
小《お》田《だ》切《ぎり》和《かず》代《よ》も、ちょうどそんな気分だった。はやらないスナックのカウンターの中にじっと突っ立って、その男が来るのを待っていた。
まるで、このカウンターの中にいれば、誰にも手は出せないと信じてでもいるかのように。ちょうど、子供がよくTVのSF物を見て言う……何といったっけ?
バリヤー。そう、「バリヤーだぞ!」ってわけだ。
目には見えない壁があって、自分を守っている。そんなものがあったら、どんなにいいだろう。
誰が来ても、ここから自分を連れ去ることはできない。目には見えても、手を触れることができなかったら……。
和代はちょっと笑った。
もちろん、そんなのは夢物語だ。いや、もしそんな「バリヤー」があるのだったら、あんな奴に殴られていなくてすんだのだから、こんなことにもならなかった……。
和代には、守ってくれる壁も、人もなかったのである。
結末は、ずっと前から分っていた。それを、あえて見ようとしなかったのは、自分が悪い。そう。それは認める。でも、だからといって、女を殴ったり蹴《け》ったりして、苛《いら》立《だ》ちを解消する権利は、どんな男にもないはずだ……。
外は明るかった。——五月の午後で、信じられないくらい穏やかな……。
あのレマルクの言葉を借りれば、「西部戦線異状なし」というところだ。——和代は文学少女だった。
その夢見がちな少女が、まだやっと二七歳だというのに、まるで四〇過ぎかと思えるほど老け、疲れて、そして——。
男の影が、店の入口のくすんだガラス戸越しに、シルエットで浮かんだ。
来たのか、やっと。——ホッとした。待たされるのは、もういやだ。
その男は店の中を覗《のぞ》き込むようにして、それから戸を押して入って来た。
「いらっしゃいませ」
と、和代は言っていた。
習慣みたいなものだ。
「いたのか」
と、その男は意外そうに言った。
「いけない? 私を捜しに来たんでしょ」
「ああ」
と、男は肯《うなず》いて、「お前がどこにいるか、心当りがないかと訊《き》こうと思って来た」
「目の前にいるわ。本物よ」
と、和代は言った。「ご注文は?」
「お前——」
「何か注文して下さい。話はそれから」
と、和代は言った。
「分った」
室《むろ》井《い》刑事は苦笑して、カウンターにもたれると、「ビールだ」
「ちゃんと払って下さいね」
コップにビールを注ぐ。泡がふくれ上がって、コップの外側にいくすじか、こぼれ落ちた。
こぼれ落ちる。私みたいに。
「——和代。お前だな、やったのは」
室井刑事は、コップ半分ほど一気に飲んでから、言った。
「他に誰がいるの」
「そうだな」
すっかり禿《は》げ上がって、苦労も多いのだろう。室井は和代を哀しげな目つきで見ていた。
「お前に言っといたぞ、島崎の奴と別れろってな。いつか、こんなことになると思ってた」
「すんだことよ」
と、和代は言って、「お代を」
「ああ……消費税つきか」
「お上《かみ》は、取りっぱぐれやしないのよ。弱い者からはね」
と、和代は言った。「誰が見付けたの?」
「家賃の催促に来た管理人さ」
「あのじいさん? さぞびっくりしたでしょうね」
と、和代は笑った。
「そりゃそうさ。中へ入ったら、島崎が血まみれで倒れてる。腰を抜かして、廊下へ這《は》って出たそうだぞ」
「見たかったわ!」
と、和代は楽しげに言った。
「しかし……奴はもう死んだが、お前はこれから罪を償わなきゃいけないんだ」
「罪ね。——男にだめにされたのも、私のせい? 何とかして、島崎を立ち直らせようとしたわ。それも罪になるの?」
「お前の気持はよく分ってる。しかしな、人を殺していいってわけじゃない」
和代はジロッと室井をにらんだ。
「私は馬鹿じゃないわ。それぐらいのこと、分ってるわよ」
「自首すりゃ良かったな。こうやって、逃げずに待ってるんだったら、やってすぐ自首すれば……。大分違ったかもしれないぞ」
「二十年が十五年になる? それとも十年? 大して違わないわ。どっちにしたって、私の人生はおしまい」
と、和代は言った……。
長い長い年月を思った。これから、灰色の壁の中で過す、気の遠くなるような数の日々のことを……。
分っていた。島崎を殺せばそうなることは。
でも、分ってはいても、納得したわけではない。
そう。あんな男のために、どうして刑務所へ行かなくちゃならないの?
この親切ごかした刑事が忠告してくれたところで、しょせん島崎から逃げ出すことなど、不可能だったのだ。島崎はヤクザの「兄貴分」でもあって、和代がどこかへ姿を消したところで、必ず追って来て、見つけただろう。
そのときには、どんな仕返しが待っているか。——和代の体が、よく知っていた。
だから、殺すしかなかったのだ。それしか、「島崎と別れる」方法はなかった。
しかし、裁判官に、そんな女の気持は通じまい。事件は、どこにもある「情痴による犯罪」で片付けられる……。
——突然、烈《はげ》しい怒りが、和代の中に燃え上がって来た。
島崎を殺したときの感触が、その右手によみがえって来たが、それは一種の昂《こう》揚《よう》した快感さえ、和代の中に呼び起した……。
「——さ、行くか」
ビールを飲み終えて、室井刑事は促した。
「ちょっと待って下さい」
と、和代は言った、「お店の主人に言ってかないと。お店、空にできませんからね」
「どこに行ったんだ?」
「その辺まで材料買いに。——あ、戻ったみたい」
室井が店の入口の方を振り向く。和代は、フライパンをつかみ、両手で高く振り上げると、力一杯、室井の禿げた頭に叩《たた》きつけた。ガーン、という音がして——和代の手がしびれたほどの、強烈な一撃だった。
うーっ、と呻《うめ》いて、室井がうずくまる。
和代はエプロンを投げ捨てると、カウンターの奥から飛び出し、店の外へ出た。
そして、人ごみへ向かって、駆けて行った。
——数秒後には、あの「大勢の中の一人」になっているだろう。
捕まるもんか! 絶対に、捕まってたまるか!
小田切和代は、こうして逃亡殺人犯の道を進んで行ったのである……。
「——小田切和代容疑者を全国に指名手配しました。殺された島崎文哉の内縁の妻で、犯行後もスナックで働いているところを、訪ねて行った刑事を殴り、逃走したものです……」
TVニュースをぼんやりと眺めていた辻山房夫は、画面に出た写真を見て、ちょっと意外な気がした。そこに映っているのは、大学出たてという感じの、若々しいOLの姿で、その笑顔はあくまで明るい。
二十……七といったかな?
ほんの何年かの間に、どんなことで人生が狂ってしまったのだろうか。
昼休みの喫茶店。——お昼にそばを食べて、コーヒーでも飲もうとフラリと入った店で、そのニュースを見たのである。
「ご注文は?」
と、ウエイトレスがやって来る。
「ブレンド」
いつもと同じだ。これが一番安い。ブルマンなど頼むと、千円もとられるのである。
「——お一人?」
と、山崎聡子が、ヒョイと向かいの席に座った。
「何だ。——君もコーヒー?」
「ええ。カフェオレね」
と、注文しておいて、「ちょっとショックなことがあって」
確かに、聡子の表情はいつになく硬い。
「どうしたんだい?」
「今、見てた? TVのニュース」
「うん」
「女が愛人の元暴力団員を殺して逃げたって……。小田切和代って人」
「ああ、見たよ。知ってるのかい?」
「ええ」
と、聡子は肯いた。「同じ高校の同級生だったの」
「そりゃまあ……」
何と言ったものやら、分らない。「大変だね」
「可《か》哀《わい》そうに……。学校でも評判の秀才で、美人だったの。それなのに……」
と、聡子は声を詰まらせた。
「うん、僕も写真見て、びっくりした。——どうして、そんなはめになったのかね」
「詳しいことは知らないけど……」
と、聡子は首を振って、「大学時代の恋人が、サラ金だかに借金をこしらえて、彼女は気がいい子だったから、それを返すのにせっせとアルバイトしたらしいの。そのときに、少し危いことをやって……。で、あの男と知り合ったとか」
「何が人生を変えるか、分らないもんだなあ」
と、辻山は言った。「逃亡中だって?」
「ええ。——どうせ捕まっちゃうんでしょうけどね」
と、聡子は言って、首を振った。
「可哀そうな和代……」
いつも冷静そのもののような聡子がこれほど動揺していることは珍しい。辻山は何とか慰めたかったが、もともと、そういう点、器用な辻山ではない。
結局、店を出るときに、
「あ、僕が払うよ……」
と言うだけが、精一杯の「親切」だった……。
一時五分前に、二人が社へ戻ると、
「あ、聡子さん」
と、受付の子が呼び止めた。「お客様よ」
「え? 私に?」
「ええ。そっちの方《かた》」
受付前のベンチ(とっくに捨ててもいい古い椅《い》子《す》だった)に、頭を包帯でグルグル巻きにした男が、座っていた。
見ればウトウトしている。
「知らないな、こんな人」
聡子は首をかしげたが、「——あの、ちょっと」
と、肩を叩くと、目を覚まして、
「うん?——ここは?」
と、キョロキョロしている。
「そちらがご用だったんでは?」
と、聡子は言った。
「や、こりゃ失礼」
男はあわてて立ち上がって、「いてて……」
と、頭を手で押えながら、
「山崎さん……というのは……」
「私ですけど」
「実は——こういう者で」
と、男は上《うわ》衣《ぎ》の内ポケットから、警察手帳を覗《のぞ》かせた。
「刑事さん?」
「室井といいます。実は——」
「あ、それじゃ」
と、立ち止まって聞いていた辻山が声を上げた。「あなたが殴られた刑事さんですか」
「すっかり有名になってしまいましたな」
室井という刑事、苦笑いして、「小田切和代をご存じですね」
と、聡子に訊《き》く。
「ええ」
聡子は厳しい顔で肯《うなず》いた。
「じゃ、ご存じですね、彼女が男を殺して逃げていることも」
「知っています」
と、聡子は肯いて、「でも、悪いのは男の方です!」
「よく分っています。私も、和代とは長い付合いで……。頭もいいし、しっかり者だ。どうしてあんな男にくっついているのか、不思議でした。しかし……やはり人殺しは人殺しだ」
室井の言葉には、あたたかいものが感じられた。聡子も、ホッと息をついて、
「分ってます」
と、言った。
「アパートに残してあった住所録に、あなたの名前と、この会社の名があったんでね。もしかして、あなたに連絡して来やしないかと思って」
「何もありません」
「そうですか。もし——何か連絡して来ることがあったら、伝えて下さい。事情を充分説明すれば、決して重い罪にはならない、と」
黙って肯く聡子の目には、光るものがあった。——それを見ていた辻山は、胸が熱くなるのを感じたのだった。