辻山は、聡子と刑事の話をいつまでも聞いているのも、何だか悪いような気がして、席に戻った。
ちょうど、一時の始業のチャイムが鳴る。
資料の整理を続けようと、ファイルを開けたとき、電話が鳴った。
いつもなら、聡子がパッと手を伸ばして取るのだが、今は席にいない。辻山は受話器を取った。
「はい。もしもし」
少し間があった。
「あの——K事務機ですか」
少しかすれた女性の声。
「そうです」
「あの……山崎聡子さんは、いらっしゃいますか」
「山崎ですか。今ちょっと来客中でして」
辻山の返事にも、何となく向うはホッとした様子で、
「じゃ、まだいるんですね、そちらに」
と言った。
「いや、今、席にはいませんが——」
「いいんです。すぐ戻られます?」
「ええ、すぐ戻ると——思いますけど」
「じゃ、またかけ直します」
「あの、どちらさま——。もしもし?」
もう切れていた。
やれやれ。せっかちだな。辻山は、机の上を見回して、
「ここじゃ狭いな」
と、呟《つぶや》いた。「——あ、山崎君」
聡子が席に戻って来た。
「遅れてごめんなさい」
「いや——今、電話があったよ」
「電話? 誰から?」
「さあ、女の人だけど、名前は言わなかったよ。またかけるって」
「そう……」
と、聡子が肯《うなず》いた。
「あのね、このファイル、会議室で整理しよう。ここじゃ、どうしても並べ切れないよ」
「そうね。じゃ、手伝うわ」
と、聡子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「でも、いいの? 仕事あるだろ?」
「今は、何か機械的にやれることをしたいの」
辻山にも、聡子の言葉が理解できた。
「じゃ、行こう。どこか会議室が空いてるだろ」
「ファイル、運ぶわ」
「じゃ、半分頼むよ」
——三十近いファイルに、資料を順番通りとじ込まなくてはならないのだ。
比較的大きな会議室が空いていたので、そこの机の上にズラッと資料を並べ、ファイルにとじて行くことにした。
聡子は、
「ちょっと待って」
と出て行き、すぐ戻って来た。
「受付の子に頼んどいたわ。電話がかかったら、こっちへ回してくれって」
「ああ、そうだね」
聡子は、そういう点、実によく気が付くのである。
二人が資料を並べていると、会議室の中の電話が鳴り出した。
「きっと君だよ」
「出るわ」
聡子が急いで駆け寄る。「——もしもし。——あ、ちょっとお待ちください」
聡子が送話口を手で押えて、
「辻山さん。辻山さんから」
「え?」
「お父様だそうよ」
「親父から? 珍しいな」
辻山は、受話器を受け取った。「——もしもし」
「房夫か! 元気でやっとるのか?」
辻山勇《ゆう》吉《きち》の声が大きいのは、山の中に住んでいて、大声をいつも出し慣れているからかもしれなかった。
「父さん。どうしたんだい?」
と、辻山は言った。
「いや、このあいだ町へ出たとき、真田の伸《のぶ》子《こ》に会ってな」
「ああ、あのおばさん? 元気なのかな」
「三〇そこそこのいい女に見えるぞ」
と、辻山勇吉は笑って言った。「そのとき、話をしているうちにな、向うも大学生の邦也が、どんな所に住んどるか知らんと言うんだ。こっちも、お前の家や嫁さんも見たことがない。それで二人して、意見が一致してな」
「意見って?」
「一緒に東京へ出かけて行くことにしたんだ!」
辻山の顔から、血の気がひいた。
「そっちへ出てくんだ。構わんだろ?」
「まあ、そりゃ……。でも、突然で……」
「そう何か月も居候しようってんじゃない。ほんの二、三日おられりゃいいんだ。何も気をつかわんでいいぞ。二人ともいい年《と》齢《し》の大人だ。勝手に切符を買うから」
「父さん……。だけど——」
「一応な、あっちの都合もあって、この次の週末に行こうと決めた。みやげは何がいい?」
「みやげなんて、そんな——」
「じゃ、嫁さんの顔を見るのを楽しみにしとるぞ。仕事中に、悪かったな」
「いや、そんなことは……」
「じゃあな! 会うのが楽しみだぞ!」
相当遠くからかけているはずなのに、父親の声は、ビリビリと辻山の耳を打った。
そして——辻山がそれ以上何を言う間もなく、電話は切れてしまっていたのである。
「——辻山さん」
と、聡子が言った。「どうかした?」
辻山はハッと我に返って、
「え?——あ、いや、何でもない」
あわてて受話器を置く。
「お父様、何かご用だったの?」
「うん……。こっちに遊びに来るって」
「まあ、すてきじゃないの。もうずいぶん会ってないんでしょ?」
「そう……。何年もね」
「楽しみね」
「そうだね……」
辻山は、机の前に戻って、資料を拾い上げながら、「大変だ……」
と、呟《つぶや》いた。
今の父からの電話で頭が一杯になっていた辻山は、また電話が鳴って、聡子がそれに出たことにも気付かなかった。
「——もしもし。——あ、私……。——ええ。聞いたわ。——ええ」
聡子は、しっかりと受話器を握りしめて、話していた。
「今夜は何にしようかな……」
と、冷蔵庫を開けて、中を覗《のぞ》き込みながら、水野涼子は独り言を言った。
涼子は、一人住まいが長いので、自分で料理するのはちっとも苦にならない。特別、どこかで習ったというのではないが、そうメニューに苦労することもなかった。
それに、真田邦也の方も自分で多少料理ができて、よく二人は一緒に台所に立つ。
「——よし、今日はシチューだ」
と、涼子は決めて、体を起した。
いくつか買って来なくてはならないものがあるが、どうせスーパーへ行くつもりだったのだし……。
そろそろ邦也が帰って来るだろう。そしたら二人で出かけよう。二人の方が何といっても沢山買物ができる。
「そうそう。貯金の方、見とかないと」
自動引き落しの電気代やその他、つい念入りにチェックしてしまうのは、一人暮しのころからのくせである。
「——ええと、今月は、何の支払いが残ってたっけ」
と、台所のメモをめくる。
電話が鳴り出した。——邦也からだろう。少し遅くなるのかしら? だったら、一人でスーパーへ行かないと、閉まってしまう。
「——はい、もしもし」
と、気楽に出ると、
「もしもし」
と、けげんそうな女性の声がした。「あなた、誰?」
「え?」
一瞬、涼子はカチンと来た。「そっちこそどなた?」
と、訊《き》き返してやる。
「真田邦也の母ですよ」
涼子は息をのんだ。言葉が出て来ない。
「——もしもし? そこは真田邦也の部屋でしょ?」
と、向うが重ねて訊く。
どうしよう? どう返事をしたらいいんだろう?
涼子は切ってしまおうかと思った。でも、まさか——。
と、玄関で音がして、
「ただいま」
と邦也の声。
「良かった!」
と、送話口を押えて、「ねえ、電話よ!」
「僕に? 誰から?」
と、邦也が入って来る。
「お母様よ」
「お袋?」
邦也が目を見開いて、「君——何て言った?」
「何も! あっちが、『誰なんだ』って訊いてるの。どうしよう」
「ちょっと……。じゃ、出るよ」
と、邦也は咳《せき》払《ばら》いして、「——あ、もしもし、お母さんか」
「邦也なの?」
真田伸子の声は、不機嫌そうだった。「今出た女の人は誰? 礼儀知らずな子ね」
「え? ああ! 今のはね、このマンションの子だよ。回覧板持って来ててね」
「奥さん?」
「いや——。まだ若いんだ」
「独り者? あんたを狙《ねら》ってるんじゃないの?」
「そんな……」
と、邦也は笑って、「あの子、まだ中学生だよ。そんなわけないさ」
「ふーん。でもね、今どきは中学生でも結構……。ま、いいよ。むだ話しててもしょうがない」
「何か用だったの?」
「次の週末にね——」
電話で話している邦也を眺めながら、涼子は少々むくれていた。
「——分った。——じゃあ」
と、邦也が電話を切ると、
「誰が中学生ですって?」
と、涼子は文句を言った。「セーラー服でも着る?」
「それどころじゃない……」
と、邦也は青くなっている。
「——どうしたの?」
「お袋が出て来る!——そんなことするわけないと思ってたのに!」
「お母様が? いつ?」
「次の週末だって……。何てことだ。——どうしよう!」
邦也は、ダイニングの椅《い》子《す》に、ペタンと座り込んだ。
「そう……」
涼子は邦也の肩に手をかけて、「でも……仕方ないじゃない。正直に話すしかないわよ。もう結婚してるんだって」
「いや——そう言って、スンナリ納得するお袋じゃないよ」
邦也は頭を抱えた。「どうしよう。——参ったな!」
涼子は少し複雑な表情で邦也を見ていた。
「そうか。辻山さんとこの親父さんと出てくる、って言ってたな。電話してみよう」
邦也は手帳を取り出して、必死にめくり始めた……。
山崎聡子は、化粧室の入口まで来てチラッと左右へ目をやると、急いで階段を駆け下りた。
エレベーターでは、同じ会社の人間と会うかもしれないからだ。
ビルを出ると、聡子は急いで通りを渡って、少し先の牛丼の店に入った。
立ち食いのテーブルがいくつかあって、今は半端な時間なので空《す》いていた。
「牛丼二つ」
と、注文して代金を払う。
すぐにできて来た器を両手にして、隅のテーブルへ持って行くと、客が一人、店へ入って来て、聡子と一緒になった。
「カウンターへ背を向けて」
と、聡子は低い声で言った。「——二つとも食べて」
「ありがとう」
と、コートをはおり、えりを立てた女は言った。
「もっと普通に。かえって目立つわ。大丈夫よ、誰も気付かない」
「そうね……」
と、女はホッと息をついた。
もちろん、小田切和代である。
「悪いわね」
「さ、食べて。お茶、もらって来る」
聡子がお茶を二つ、紙パックで持って来ると、和代は一つの牛丼をほとんど食べ終わっていた。
「凄《すご》い食欲ね」
と、聡子は微《ほほ》笑《え》んで、「少し安心したわ」
和代はお茶をガブ飲みして、
「——迷惑かけないように、すぐ消えるから」
と言った。
「何言ってるの」
聡子は、和代の手に自分の手を重ねると、「力になるわ。信じて」
と、力強く言ったのだった。