「そう……」
と、小田切和代は肯《うなず》いた。「じゃ、あなたの所にも来たのね」
「ええ。頭に包帯巻いた刑事。何ていったかしら」
山崎聡子は、思い出そうとして、考え込んだ。
「室井さんね」
と、和代は笑って、「悪いことしちゃった。別にあの人に恨みがあったわけじゃないんだけどね」
——小田切和代と山崎聡子は、牛丼の店の近くにあるコーヒーショップで、入れたてのコーヒーを飲んでいた。
「ああ、おいしい」
と、和代は呟《つぶや》いた。「刑務所に入ったら、こんなもの飲めなくなるのね」
立ち飲みのスペースで、今は人がほとんどいない。
「何も、自首なんかすることない」
と、聡子は憤然として言った。「そんな奴、自業自得よ」
「そうね……」
と、和代は微《ほほ》笑《え》んで、「私もそう思ってるわ」
「私、もう社へ戻らないと」
と、聡子は時計を見た。
「ごめんなさい。私のことなら何とかするから」
「何言ってるの。友だちでしょ」
聡子はキーホルダーを取り出すと、中の鍵《カギ》を一つ外して、「うちのアパート、知ってたわよね」
「うん……」
「行ってて。電話にもチャイムにも出ないで休んでて」
「でも……」
和代はためらって、「あなたも罪になるわ」
「そのときは法廷で徹底的に戦うわよ」
と、聡子は和代の肩をつかんで、ギュッと力をこめた。「心配しないで、行ってて。——あ、これ、電車賃」
と、千円札を握らせる。
「聡子……恩に着るわ」
和代の目から涙がこぼれた。
「ほらほら。——人目につくわよ。しっかりして」
と、聡子が自分のハンカチで拭《ぬぐ》ってやる。
「ありがとう……」
「でも、あの室井って刑事が私のこと、目をつけてるかもしれない。用心してね」
「うん」
「ずっと私の所にいるのは危いわ。どこか、うまい場所を見付けるから。とりあえず二、三日は大丈夫でしょう」
「聡子」
和代は、旧友の手を握った。やっと、力をこめられるようになった、という感じだった。
「ありがとう。迷惑かけるわ」
「何言ってんの。よくノート見せてもらったでしょ」
「ずいぶん昔の話だ」
「それはそうだけど」
二人はちょっと笑った。
「——もう行って。会社、うるさいんでしょ?」
「うん。でも、一緒に仕事してる人が、とてもいい人なの」
「男の人?」
「そうよ」
「じゃ——もしかして?」
「残念ながら、奥さんがいるの」
と、聡子は笑って、「じゃ、夕ご飯のおかず買って、七時ごろには帰るから、ドアの外から声かけるようにするからね」
聡子は、そう言って、足早にコーヒーショップを出た。
——あの室井という刑事の言葉を、忘れたわけではない。
自首すれば大して重い罪にはならない。
人殺しは人殺し……。
分っている。しかし聡子には、女をいじめ、いたぶって、うっぷん晴らしをしているような男は許せないのだ。
そんな奴のために、たとえ短い間とはいえ和代が刑務所へ行くなんて、許せない!
そう。絶対に私が和代を守って見せる。と聡子はファイトを燃やしていたのである……。
辻山房夫は、待ち合せた喫茶店に入って、真田邦也がまだ来ていないのを見ると、
「僕はコーヒー」
と、注文しておいて、入口の見える席に座った。
そのとたんに自動扉が開いて、真田邦也が入って来る。
「やあ邦也君か。すっかり大人になったね」
と、辻山は手を上げて、「もう大学の……二年? 早いなあ」
「久しぶりですね」
と、邦也も座って、「僕はココア。——少し太りました?」
「え? そんなことないさ。何しろしがない宮仕えだ」
「でも、結婚すると太るんでしょ」
辻山はジロッと邦也を見て、
「そこだ」
と、言った。「うちの親父、君のお袋さん。二人して東京へ出て来たら……。困ったことになるんだよ」
「僕の方はね」
と、邦也が肯《うなず》いて、「でも、辻山さん、別に問題ないんじゃないですか。ま、あのアパートが少しボロすぎるってことを除けば」
辻山は顔をしかめて、
「言いにくいことをはっきり言うね」
何しろ、辻山が、今にも取り壊されそうなボロアパートに住んでいるのと対照的に、真田邦也の方はれっきとしたマンション住いだ。
邦也の母、真田伸子は、故郷の町でも指折りの旅館の持主である。未亡人で、ほとんど女手一つで邦也を育て、東京の大学へやっている。
真田伸子と辻山の父、辻山勇吉は昔からの顔なじみで、気心の知れた仲だが、こと収入の方は天と地ほどの差がある……。
「邦也君、君の方は何が困るんだい?」
「え? ああ……。まあ、ちょっと——」
と、邦也は言葉を濁して、「辻山さんはどうして?」
二人は、ちょっと黙って、それから笑い出した。
「ま、隠しても仕方ないな」
と、辻山はコーヒーを飲みながら、「実は僕には女房なんかいないんだ」
邦也が唖《あ》然《ぜん》とした。
「でも——挨《あい》拶《さつ》状、もらいましたよ! 確か……洋子さん、でしたっけ?」
「ありゃ『お化け』でね」
と、辻山は首を振った。「実在しない女なんだ」
「まさか!——でも、どうしてそんなことを?」
「親父から送金してもらうためさ」
と、辻山は言った。「何しろ、今の給料じゃ、結婚どころか、自分一人食べていくのもやっと。ところが、アパートの家主が何と家賃を五割も上げて来た。それで困ってね。ちょうど会社からは旅行の費用を借りたばかりだったし……。それで親父へ頼んだんだ」
「じゃ、そのときに結婚するから、と言って?」
「うん。親父は面倒な手続きとかにはこだわらない人間なんだ。『もう一緒に暮してるんだ』と言ってね。『そりゃ良かったな』てなもんさ」
「で、毎月援助を?」
「うん。——会社の方にも届けを出して、手当をもらっている。雀の涙だけどね」
「びっくりだなあ! じゃ、どうするんですか?」
「それで困ってるんじゃないか。何かいい手はないかと思ってさ。——親父は、あの町を出るのが嫌いだった。『嫁さんのご両親によろしく言っといてくれ』で終わりだ。こっちも安心してた。ところが……」
「気が変わった、ってわけですね」
「そういうことだね。——ま、こっちも色々苦労してる。特に会社内では、結婚したってことにしてあるから、みんなと話を合わさなくちゃならない。つい忘れそうになるんだよ。もともと僕はそう付合いのいい方じゃないから、同僚を家へ招かなくても、誰も不思議には思わないんだがね」
辻山はため息をついて、「親父にゃ、東京で暮してくのが、どんなに金のかかるもんか、見当もつかないだろうな。——ところで、君の方は?」
「え?」
「いや、君も何か困ったことがあるんだろう?」
「ええ……。まあそうなんですけど……」
と、邦也は曖《あい》昧《まい》に言って、「これ、内緒ですよ」
「当り前だろ。こっちだって、ばらされちゃ困るよ」
「そうですね。まあ——辻山さんに比べると大したことじゃないんです」
「何だよ、それ」
「ええ。——ただ、結婚しちゃったってことなんです、お袋に黙って」
コーヒーを飲みかけた辻山が、むせ返った……。
そのころ、成田空港の到着ロビーに一人の男が降り立った。
いや、もちろん、ここには毎日何万人もの男女が降り立っているのだが、この男は一見して目立った。
白のスーツ、黒のワイシャツ、赤いネクタイ。サングラス。
まるで——いや、もろ、ヤクザそのものという格好である。
そして、この男、安《あん》東《どう》一《はじめ》は本当にヤクザであった。
子分を四人引き連れている。そして出口では、十人の出迎えの子分たちが一列に並んで、安東を待ちうけていた。
他の客たちが、チラチラ見ながら、避けて通り過ぎていく。
自動扉が開いて、安東が姿を現わすと、
「お帰りなさいませ」
十人の男が一斉に頭を下げた。
「ママ、何してんの?」
と、見ていた小さな女の子が不思議そうに訊《き》いて、あわてた母親に手を引張られて行く。
「ご苦労」
と、安東は言って、「車は?」
「はい、正面に」
「行こうか」
と、安東は肯《うなず》いて言った。
安東はまだ三十代の半ば。——年齢は若いが、この世界では恐れられている。
大胆で、凶暴。一方では計算に強く、事務所にコンピューターを入れて、自らいじるのが好きである。
大きなリムジンが、正面につけて待っている。——バスの邪魔になるが、職員も文句は言わなかった。
リムジンが安東を乗せて走り出すと、他の子分たちは、三台の車に分乗して、その後に従った。
もう夜である。——空港から離れると、周囲は暗い闇《やみ》が広がるばかり。
「——日本はいいな」
と、安東は言った。「おい、一杯くれ」
「はい」
子分が、リムジンの中のポットから、熱いミソ汁をカップへ注ぐ。
ミソ汁を飲まないと、日本へ帰った気がしない、という安東である。
「——旨《うま》い」
と、一口すすって、ため息をつくと、「白ミソに限るぜ、ミソ汁は」
「そうですか」
子分の竜《たつ》が、何やら重苦しい顔で、「実は……親分……」
「何かあったのか」
と、安東は言った。
「はあ。お留守の間に……」
竜は、五〇歳ぐらい。目つきは鋭く、頭は禿《は》げ上がっているが、一見したところ、普通のビジネスマンである。
「言ってみろ」
「はあ。——島崎の兄貴のことなんです」
「島崎の?」
「同《どう》棲《せい》していた女が……」
「ああ、知ってる。いい女だ。何てったかな……。和代か」
「その和代が、島崎の兄貴を殺したんです」
安東はしばらく黙っていた。静かにミソ汁を飲み干すと、
「旨かった」
と、カップを返し、「——殺された? 兄貴が」
「はい」
「そうか……。なんてことだ」
安東は、そう言ったきり目を閉じていたが——。「で、女は?」
「室井って刑事を——」
「知ってる」
「あいつをぶん殴って、逃げてるんです。まだ見つかっていません」
「逃げた?」
安東の目がキラリと光って、「好都合だ。こっちでけりをつけてやれよ」
「はあ」
「おい。腕のいいのを選んで、女を捜させるんだ。見つけたら、生かして連れて来い。俺が兄貴の敵《かたき》をとってやる」
安東は、淡々とした口調でそう言うと、じっと窓の外の暗がりを見つめていた……。