「それで、結局、どういうことになったの?」
と、水野涼子は言った。「——おかわりは?」
「うん、いいよ。自分でやる」
真田邦也は、自分でご飯をよそった。——お米のご飯をたっぷり食べないと、食事した気がしないという体質である。
「——ま、辻山さんも困ってた」
と、邦也は言った。「ともかく、二、三日のことだからね。何とかうまくごまかして乗り切ろうってことで」
「そう……」
涼子は——正式に婚姻届を出しているから、「真田涼子」なのだが——冷淡な口調で言った。「簡単じゃないの、そんなこと」
「何が?」
と、邦也は目をパチクリさせる。
「問題ないわよ。辻山さんの所は、いるはずの奥さんがいない。こっちは、いないはずの妻がいる。——要は向うに奥さんがいて、こっちにいなきゃいいわけでしょ」
「そりゃまあ、そうだけど」
「私が、その三日くらいの間だけ、辻山さんの奥さんになりゃいいのよ」
「君が?」
邦也は面食らって、「まあそれも——一つのやり方だけど、君は若すぎるよ、辻山さんには」
「あら、いいじゃない。私、落ちついた年上の人って嫌いじゃないわ。その代り、その三日間で、私と辻山さんの間に何かあっても、怒らないでね」
「おいおい——」
邦也が情ない顔で、「そういじめないでくれよ」
「いじめるわよ」
ベェと舌を出して、「お母さんに、『結婚した』の一言も言えないの?」
「そりゃあ……、君はうちのお袋を知らないからそう言うんだ」
と、邦也は首を振って、「何しろ凄《すご》いんだ、お袋は」
涼子だって、邦也を困らせたいわけではなかった。
確かに、学費を送ってもらっている学生の身で、親に黙って結婚してしまったことには多少後ろめたさも感じている。しかし、法律上は二人とも二〇歳を過ぎていて、自由に結婚できるのだし、先のことも考えず、向う見ずに同棲してしまったというわけではなかった。
現に、こうして邦也と二人、ぜいたくもせずに、堅実に暮している。卒業するまでは子供も作らないように、と用心していたし。
涼子としては、ここで邦也が母親に対して、
「この子と結婚したんだ」
と、堂々と言ってほしいのである。
たとえ、邦也の母親と離れて住むにしても、曖《あい》昧《まい》なままの関係ではいやだ。涼子の性格に合わないのである。
涼子は何ごとも黒白をはっきりさせ、きちんとしておきたい。——邦也と一緒になったときも、邦也の母に会いに行こうと言ったのだが、邦也が、
「今はまだ早いよ」
と、止めて、それっきり。
あのとき、ちゃんと挨《あい》拶《さつ》に行っておけば、たとえそのときは大騒ぎになったとしても、今、こんなことで困らずにすんだのである。
まあ、今さら言っても始まらない。——確かに、邦也はすてきな男の子で、涼子も一《ひと》目《め》惚《ぼ》れだった。
しかし、そのやさしさは、裏を返すと、優柔不断。いざ、ってときをできるだけ後へのばそうとすることにもなる。
「——おいしかった」
と、邦也は言って、「な、涼子——何か考えるからさ、少し待ってくれよ」
その訴えるような目に、涼子は弱い。
「分ったわよ」
と、微《ほほ》笑《え》んで、「その代り、キスして」
二人の唇が軽く触れる。
「それから、お茶碗洗うの、手伝って」
と、涼子は言った。
サイレンが……。
サイレンが近付いて来る。——とうとうやって来たのだ。
和代は、眠りから完全に覚めない頭で、ぼんやりと考えていた。——いつまでも逃げられるものではないと分っていた。
そう。いつか、こうなると……。
ドアを叩《たた》く音。——表には警官がズラッと並んでいる。
トントン。——早く入って来たら?
逃げも隠れもしないわよ。私はここにいるわ……。
「和代。——私よ」
え? 和代はゆっくりと起き上がった。
暗い部屋。もう夜なのだ。
「待って」
と、和代は言った。でも、どこで明かりを点《つ》ければいいのか分らない。
手さぐりで玄関へ下りると、ドアを開けた。
「眠ってた?」
と、聡子が入って来て、「真っ暗じゃないの!」
「気が付いたら、夜だったの」
聡子が明かりを点ける。——和代の目にはまぶしかった。
「カーテン、引いてあるわね。体、楽になった?」
「うん」
和代は肯《うなず》いて、「ありがとう。もう何日も眠ってなかったような気がする」
「いくらでも寝てちょうだい」
と、聡子は微笑んで、「でも何か食べてからね」
「そうね。——手伝うわ」
「じゃ一緒に。といっても、簡単なものばっかりよ」
——二人は、まるで長いこと一緒に暮しているルームメイトのように、手ぎわ良く、夕食の仕度をした。
「サイレン、聞こえなかった?」
と、台所に立って、和代は言った。
「ああ、救急車ね。途中で追い越して行ったわ」
「パトカーかと思った」
「私が裏切ったとでも?」
「まさか」
二人は笑った。——和代は、もう一生、笑うことなんかないような気がしていたのだ。
——食事は大いに、盛り上がった。
学生時代の友人のことや、聡子の会社の上役の悪口(いつも、悪口が出ると話は面白くなる)、結婚した友人のグチの話など——。
話は尽きなかった。
「——もう満腹!」
と、和代は息をついて、「太っちゃって、手配写真と全然別人みたいになるかもしれないわね」
「和代……」
聡子は、少し間を置いて言った。「私はいつまであなたがいても、一向に構わないのよ。でも、ずっと一歩も外へ出ないってわけにもいかないでしょ?」
「そうね」
「どこか身を隠せる所、ある? 心当りがあれば、私、お膳《ぜん》立《だ》てするから」
「聡子」
和代は、真顔になった。「聡子の気持は、本当に嬉《うれ》しい。でもね、いつまでも私と係り合ってちゃいけないわ」
「和代、私、平気よ。たとえ刑務所へ入れられたって——」
「そうじゃないの」
と、和代は首を振った。「警察なら、まだいいわ。少なくとも裁判にかけてくれる。でもね、私が殺した島崎は、ヤクザなのよ」
「知ってる」
「しかも、兄貴分で、大勢、弟分がいるわ。——その島崎を殺した。当然、今ごろその弟分たちが、私を捜し回っているはずよ」
「でも……」
「連中はしつこいわ。諦《あきら》めないし、大勢の人間を動かせる。鉄道の駅、長距離バスのターミナル、どこも見張ってるはず」
「そんなに?」
と、聡子は目を丸くした。
和代は、ちょっと微笑んで、
「ああいう連中が、どんなに凄《すご》い網を張りめぐらすか、あなたには分らないわ」
と、言った。「警察と違って、捕まえたら裁判も何もない。生きてはいられない」
「和代……」
「あなたに、そんなことの巻き添えを食わせたくないの。一人や二人、余計に殺したりするのは平気な連中よ」
聡子は、緊張した面持ちで、
「じゃあ……どうするの?」
「考えてないけど……。ともかく、ここに長くはいられないわ」
「だけど、どこへも行けないのなら、却《かえ》ってここにいた方がいいじゃないの。外へ出ないようにして。——アパートの人には、親《しん》戚《せき》が来てるとか、適当に言っとく。それが一番安全よ」
「ええ……。ただ、万一のときにね、聡子まで——」
「何言ってるの」
と、聡子はきっぱりと言った。「危険は承知でやってるのよ。子供じゃないもの。人のせいにして恨んだりしないわ」
「聡子……」
和代は、涙のたまった目で、旧友を見つめた。
「ほら、すぐ湿っぽくなって。——ビールでも飲む?」
「いいわね」
二人は一緒に笑った。
そのとき、電話が鳴り出して、一瞬、二人は沈黙した。
「——ただの電話よ」
と、聡子は息をついて、「私にだって、電話くらいかかるのよ。——もしもし」
「山崎さん? こんな時間にすまない。辻山だけど」
聡子は面食らった。
送話口を押えて、
「会社の人。——もしもし。何ごと?」
「実はね、ちょっと相談にのってほしいんだけど……。アパートへ行ってもいいんだけどね」
「あの——ちょっと今は……。それより、どこにいるの?」
「駅前。君のとこの近くの」
「まあ……。どうしたの? 奥さんと喧《けん》嘩《か》でも?」
「——女房のことには違いないんだがね」
と、辻山は言った。「ちょっと困ってるんだ。知恵を借りたくて」
「待ってね。——じゃ、そこの近くに『P』っていうスナックが……分る?——そうそう、看板、見えるでしょ? そこにいてくれる?」
「分った。悪いね」
「いいのよ。じゃ……十分くらいで行けると思うわ」
聡子は電話を切って、「——ちょっと出て来るわ。隣の机の人なの」
「とってもいい人だと言ってた人?」
「そう。——何かしら」
聡子は、財布を持って、薄いコートをはおった。「じゃ、ちょっと出て来る。疲れてたら、先にお風《ふ》呂《ろ》にでも入ってて」
「うん、ありがとう」
聡子は、アパートを出た。
もちろん、辻山の話というのがどんなことなのか、見当もついていなかったのである……。
「兄貴」
ドアの外から声がした。
「何だ」
と、安東は起き上がって、「忙しいんだ」
「あの——例の奴を呼んでありますが」
安東は少し考えて、
「〈サメ〉か?」
「そうです」
「三十分したら会う。何か飲んでてくれと言え」
「分りました」
——安東は、ベッドにまた横になった。
「邪魔が入ったわ」
と、ミキが口を尖《とが》らして、裸の体をすり寄せてくる。「三十分? 物足りない。何日放っとかれたと思ってんの?」
「そう言うな」
と、安東は笑って、「島崎の兄貴のためだ」
「あの殺された人? 私、嫌いだったわ」
と、ミキは言った。「すぐ女を殴るの。怖かった」
「ああ……。俺も好きじゃなかったさ」
と、安東は言った。
「じゃ、どうして気にするの? もう組を離れてたんでしょ?」
「色々事情があったんだ。それに、組を離れても、兄貴は兄貴。殺されたとあっちゃ、放っとくわけにいかない」
「嫌いでも?」
「面《メン》子《ツ》ってもんがある」
安東はミキを抱き寄せて、「三十分ですませよう」
「いやよ……」
と言いつつ、ミキは安東にすがりつくように抱きついて行った……。