「殺さないでくれ、と?」
その男は、少し意外そうな口調で言った。
安東と話を始めてから、その男が感情らしいものを見せたのは、そのときだけだった。
「そうだ」
安東は、シルクのガウンをはおった姿で、革ばりの背もたれの高い椅《い》子《す》に座っていた。右手はパソコンのキーボードをほとんど無意識に叩《たた》いている。
目の前に座っているのは、〈サメ〉というニックネームで呼ばれている、一匹狼の殺し屋である。
もちろん、安東自身も自分で手を下して殺しをやってきた人間だが、今は大物になりすぎてしまった。自分で動けば、警察が目をつける。
まあ、警察も少々のことには目をつぶってくれるが、やはり「殺し」となると、そうもいかないのだ。特にあの刑事——室井という奴は、何だかボーッとして捉《とら》えどころがないくせに、どこか油断できない。
島崎を殺した和代が、室井をフライパンでぶん殴って逃げたという話は、安東を大いに面白がらせたものだ……。
それはともかく——今、目の前にいるのは、どう見てもパッとしないくたびれたサラリーマン。
着ているスーツも、量販店で〈二着で一着分のお値段!〉といって売っている類のものだろう。これが裏の世界で知られた〈殺し屋〉だとは、とても思えない。
安東のように、一見して辺りを払うような迫力を身につけることは、組織の中にいる限りは必要だ。しかし、この〈サメ〉のような人間には、目立つことは禁物。
できるだけ、すぐ人に忘れられる存在でいた方が、都合がいいのである。
「——お話がよく分りませんね」
と、〈サメ〉は神経質そうに両手を組み合せたり離したりしながら、言った。「私は殺すのが仕事です。生かして捕まえて来い、とおっしゃるのなら、そちらには充分人手がおありでしょう」
「確かに」
と、安東は肯《うなず》いた。「しかし、今回はあの連中は動かしていない」
「どうしてまた……」
「血の気の多い連中だ。それに、殺された島崎の兄貴を慕ってた奴も少なくない」
と、安東は言った。「奴らが、あの女を見付けたら、その場で殺すか、半殺しの目に遭わせるだろうからな。そうはさせたくない」
「つまり……自分の手でやりたい、と」
「そんなところだ」
安東の言い方は少し曖《あい》昧《まい》だった。「あんたにとっちゃ、迷惑な依頼かもしれん。しかし、殺す相手を見付け出すことにかけちゃ、右に出る者はないってことだし。——ぜひ、引き受けてほしい」
「——分りました」
少し考えてから、〈サメ〉は肯いた。「ただ、殺さないとしても、料金の方は変わりませんよ」
「もちろんだ」
と、安東は肯いた。「じゃ、やってくれるね」
「いいでしょう。しかし、無傷で連れて来るとなると、少々手間どるかもしれません」
「急がない」
と、安東は言った。「といって、いつまでも待てるわけじゃないがね」
「こちらも、仕事が詰まってますので」
と、〈サメ〉は立ち上がって言った。「では、これで」
「何かあったら、いつでも連絡してくれ」
〈サメ〉は、かすかに首を振って、
「この次は、女を連れてここへ現われます」
と言った。「では、失礼します」
ほとんど足音もたてずに消えて行く。
「変わった男だ」
と、安東は呟《つぶや》いた。
わきのドアが開いて、ミキが薄いネグリジェ一つで入って来る。
「もう帰ったの?」
「ああ。——何だよ。そんな格好で」
「ちゃんと着てるわよ」
「そういうのを『ちゃんと』っていうのならな」
と、安東が苦笑する。
そこへドアが開いて、竜が顔を出し、
「親分。組から使いが——」
と言いかけて、ミキの格好を見て真赤になる。「し、失礼しました!」
「おい待て。何だって?」
「あ、あの——使いの若いのが来てます」
と、ドアの向うへ出て、細い隙《すき》間《ま》から声を出す。
「分った。すぐ行く」
安東は、ドアが閉まると、ミキの方へ、「おい、竜の奴は気が小さいんだ。びっくりさせちゃ可《か》哀《わい》そうだぜ」
と笑いながら言った。
「可《か》愛《わい》いじゃない、照れちゃって。いい年《と》齢《し》なのに」
と、ミキは愉快そうに言った。「ね、夜、ディスコにでも連れてってよ」
「時差ボケでくたびれてるんだ。若いのと行って来な」
「フン」
ミキは口を尖《とが》らして、「じゃあ……竜ちゃんとでも行って来ようかな」
「奴がギックリ腰になっても知らねえぞ」
と、安東は言って、「さ、着がえるか」
ミキのお尻《しり》をポンと叩《たた》いて、自分の部屋へと戻って行く……。
山崎聡子は、しばし無言だった。
「——ま、こんなわけでね」
と、辻山房夫は言った。「何かいい知恵はないかと思ってさ」
「辻山さん……」
「うん?」
「夢じゃないわね、これ?」
辻山は、スナック〈P〉の中を見回して、
「夢なら、もうちょっと豪華な場所が出て来ると思うけど」
「でも——呆《あき》れた!」
と、山崎聡子はやっと首を振って、「よくごまかしてたもんね」
「そう言うなよ。こっちもドキドキものだったんだ」
「だけど……。わざわざ、隣の奥さんに電話をかけさせたりして! 手がこんでるわ」
「悪気じゃなかったんだよ」
「悪気があったら大変よ」
と、辻山をにらんで、「私、真《ま》面《じ》目《め》に電話に出ちゃって……。人を馬鹿にしてるわ」
と、段々腹が立って来る様子。
「怒らないでくれ。頼むよ」
と、辻山が拝むように両手を合わせた。
「それに——分ってるの? 会社から手当までもらってる。違法行為よ。いくら安月給だって!」
「ああ……。弁解はしないよ」
と、辻山は小さくなっている。
聡子はちょっと肩をすくめて、
「あそこの月給自体が違法行為よね」
と笑った。「でも——どうするつもり?」
「それで困ってるんだ。親父が出て来る二、三日の間だけでも、何とか格好をつけないと」
「そんなこと……。どうせ、いずれはばれるわよ」
「うん。しかし、ともかく次の週末までに結婚するってわけにはいかないし。ここを何とかのり切れば、後でちゃんと始末はつけようと思ってる」
辻山もどうやら本気らしい。
「そう……。ま、あなたが悪いんだとは思わないけどね」
聡子も毎日机を並べて仕事をしている身である。辻山のこともよく分っていた。
「でも、何かいい知恵って言われてもね……」
「君ぐらいしかいなくてね、相談できる相手が。——何かうまい手はないかな」
辻山がため息をつく。
ふと——聡子は、辻山をまじまじと見つめて……。
「そう……。でも、いけないわ、やっぱり」
「え?」
「あなたと……。もし、それで何とかなったとしても……。やっぱりそんなこと——」
「何をブツブツ言ってるんだい?」
と、辻山は不思議そうに言ってから、「山崎君——もしかして、君が?」
「え?」
聡子は訊《き》き返してから、真赤になって、「何を考えてるのよ!」
「いや、ごめん。でも……」
「私が考えてたのはね。彼女をあなたの所へ置いてくれたら、ってことだったの」
「彼女?」
聡子は、じっと辻山を見つめて、
「小田切和代」
と、言った。
辻山は、それが誰のことか、少し考えていたが、やがて目を丸くして、
「もしかして……あの?」
「今、私のアパートにいるの」
と、聡子は言った。「私、あの人をかくまって、何とか逃がしてあげたい。男の暴力に堪《た》えかねて、殺すしかなかったのよ。そんなことで刑務所へ入るなんて、ひどいわ」
「でも、君まで——」
「分ってる。覚悟の上よ」
聡子のあっさりした言い方に、辻山は呆《あつ》気《け》にとられていたが、やがてちょっと笑うと、
「君らしいや。いや、立派なもんだ」
聡子も一緒に笑った。
辻山をそこまで信用しているということ。——言われるまでもなく、辻山にも、そのことはよく分っていた。
「警察に追われてるだけじゃない。殺したヤクザの身内も、彼女を捜してるわ」
「君も危いじゃないか」
「彼女を、『臨時の奥さん』として、置いてやってくれない?」
「うん……」
辻山もさすがに少し考えたが、「いや、むしろ、こっちからお願いしなきゃいけないね、それなら」
聡子はホッとしたように微《ほほ》笑《え》んで、
「ありがとう! 私のところは、あの刑事も目をつけるかもしれないし、危いな、と思ってたの。何日間かでも、あなたの所に置いてくれたら、私、彼女を逃がす手を考えるわ」
「分った」
辻山は肯《うなず》いて、「しかし、色々考えなきゃいけないな。今のアパートに突然彼女を連れて来るってのも……」
そうなのだ。適当な女性を、その何日間かだけ置いとけばすむというものでもない。
アパートの他の住人たちと父親がちょっとでも話をすれば、すぐにばれてしまうだろう。
特に、父、辻山勇吉はあまり細かいことを気にしない性格だが、一緒に来る真田伸子。——当然、彼女も辻山のアパートへやって来ると思わなくてはならない。
真田伸子は旅館の女主人らしく、至って細かい所に気の付く女性だ。辻山がごまかそうとしても、たちまち見抜いてしまいそうである。
「待ってくれよ……」
と、辻山は言った。
「何かうまい手が?」
と、聡子が身をのり出す。
「いや、実は同郷の子でね、真田邦也って大学生がいるんだ……」
辻山が、邦也の方の「困っている事情」を説明すると、聡子は呆《あき》れ、それから笑い出してしまった。
「笑いごとじゃないよ」
と、辻山は渋い顔。
「ごめんなさい……。でも、そんな話って——」
「嘘《うそ》みたいだろ。ところが本当なのさ」
「じゃ、本当はその子の奥さんを、あなたが借りりゃいいわけね」
「女子大生だよ。僕とどうしたって結びつかない」
辻山も、自分のことはよく分っているのである。
「その子はどうしようとしてるわけ?」
「さあ。——お互い、『困った』と言ってるだけさ」
と、辻山は言った。「ね、どうだろう。僕の今のアパートへ、その彼女を突然連れて来るのはまずい。二人で、全然別の所へ一時的に引っ越すってのは」
聡子は肯いて、
「それの方が疑われなくてすむわね」
「だろ? もともと引っ越し先を探してたってことにすりゃいいんだし。ほんの何日かだ。誰かの部屋をちょっと貸してもらって——」
「でも、秘密が守れる人でないと」
「だからさ、自分も人に知られちゃ困る秘密を抱えてる奴なら大丈夫」
「つまり——」
「邦也君のマンションを、ちょっと拝借するのさ」
「でも、その子たちはどうするの?」
「——あ、そうか」
「二世帯同居ってわけにもいかないでしょ」
と、聡子は言って、「ともかく、来て。彼女に紹介するわ」
と、立ち上がった。
二人はスナックを出た。
「それから、言っときますけどね」
と、聡子は言った。「彼女、とても傷ついてるのよ。同居するからって、妙な気を起さないでね」
「分ってる! 信じてくれよ」
「そうね。——信じてるわ」
と聡子は微笑んで、足早に歩き出した。