ふと、誰かに大切な秘密を打ち明けたくなるときというものがある。
その日のお昼休みの涼子が、ちょうどそんな気分だった。
「涼子!」
と、相変わらず元気なリカがやって来ると、少し空《す》き始めた学食の空気を全部吸い込んでしまいそうな勢いで、「——ああ、お腹空いた!」
「何か食べたら?」
と、涼子は言った。
「うん……。涼子は?」
「食欲ないの」
涼子の前には、プラスチックの器に入ったスープのみ。
「どうかしたの? 病気? 食べ過ぎ? 失恋?」
「あのね——『〇×テスト』じゃないのよ。大丈夫、ちょっと落ち込んでるだけ」
実は、このスープの前にラーメンを一杯食べているのだ。しかし、リカの心配ぶりに、そうは言えなくなってしまった。
まあ、確かにいつもよりは、食べていないから、まるきり嘘ってわけでもない。
「あ、真田君」
と、リカが言った。
涼子は、真田邦也が——自分の夫が——やって来るのを見た。そう、落ち込んでるのは、あいつのせいだ。
「やあ」
と、邦也が笑顔で言った。「掲示板見たかい? また本を買わなきゃいけないな」
「安くないもんね」
と、リカが肯《うなず》く。「ね、一冊買って、回して使う? コピーとると高いからさ」
「それも手だね」
邦也は、昼食の盆を手にしていたが、「あ、国友の奴だ。——じゃ、また」
と、同じクラブの男子学生の方へ行ってしまう。
「ふん……」
と、涼子は言った。
「え?」
リカが不思議そうに涼子を見る。
「何か言った?」
「何でもない」
掲示板の本の話は、今朝、マンションを出るときに、話していたのだ。それをここでは全く知らないふりをしてしゃべらなくてはならない。
涼子はふっと虚《むな》しくなる。——私たち、どういう夫婦なんだろう?
リカが食べ終わると、涼子も一緒に学食を出た。——いいお天気で、キャンパスの中をぶらつくのも気持がいい。しかし……。
「涼子。——どうしたのよ」
と、リカが歩きながら、「ふさぎ込んじゃって」
「別に」
「別に、じゃないでしょうが! 夫婦喧《げん》嘩《か》でもしたか」
もちろん、リカは冗談で言ったのである。だが、涼子はしごく真《ま》面《じ》目《め》な顔で、
「そうなの」
と、答えた。
リカが目をパチクリさせて、
「そうなの、って……。何が?」
「自分で言ったでしょ」
「夫婦喧嘩って言ったのよ。涼子、まだ結婚してないじゃない」
「そうよね。ハハハ」
と、涼子がわざとらしく笑う。
リカがピタリと足を止めた。
「涼子……。本当に? 結婚したの?」
冗談よ。そう言って笑い飛ばせばいい。——そう。リカにしゃべるなんて、とんでもないことだ。
涼子には分っていた。それでも涼子は、ニコリともせずに、
「そうよ」
と、答えていたのだ。「結婚してるの、私」
どうして言ってしまったんだろう?
涼子自身、よく分らなかった。ただ、邦也があくまで母親に、結婚していることを隠し通そうとしているのが、面白くなかったのは事実である。
「涼子!——心臓が止まるかと思った!」
リカが本当に胸を押えて見せる。
「大げさね。もう二〇歳すぎてるんだから、構やしないでしょ」
「だって……。涼子、そんなそぶりも……。ね、相手は誰なの?」
リカの目の輝きを見て、涼子は初めて、しまった、と思った。黙っていれば良かったのだ。
もし大学中にこのことが広まったら、邦也は、涼子がわざとしゃべったと思うだろう。——涼子は邦也と本当に「夫婦喧嘩」をしたいわけではなかった。
「ね、涼子、そこまで言って黙っちゃうなんて、ひどいよ! 私の口が固いの、知ってるでしょ」
壊れたガマ口くらいには固いわよね、と涼子は思った。
「あのね……」
と、涼子は周囲を見回して、「みんなのいる所じゃちょっと……。ね、今日帰りに話してあげるから。絶対にしゃべらないでよね」
「うん! 神かけて誓う!」
何の「神」に誓っているのやら。
「お願いよ。——リカのためなの。しゃべると危いのよ」
「危い?」
「そう。命にかかわるの。——くれぐれも、口をつぐんでいてね」
涼子のわけの分らない話に(当人もよく分っていない)、リカは狐につままれたような顔で、コックリと肯いたのだった……。
ハッと起き上がって、小田切和代は深く息をついた。
今のは?——夢か。
手首を思わず見下ろす。そこには手錠などかかっていなかった。
——そう。夢なのだ。
山崎聡子のアパートの中を見回して、やっと少し気持が落ちついて来る。
聡子にも、とんでもない迷惑をかけてしまっている。和代も気にしてはいるのだが、何しろ聡子の方がどんどん積極的に動いてくれているので、やめてくれとも言いにくいのである。
夕方——やがて六時になるところだ。
まだ外は明るく、レースのカーテンからは柔らかい光が射し入って来ている。
まだ、昼夜の感覚がおかしい。こんな風に、昼間、横になってふっと眠り込んだりすることがあった。
それにしても……。考えてみれば、あの島崎との日々は何だったのか。
こうして逃げていて、もう島崎のことを思い出すことは、全くといっていいほど、ないのだ。
一度は愛したつもりだった。この体も、あの男のものだった。しかし——今、和代の心には、「島崎」のかけらすら残っていない。
今、和代は「生きたい」と思っていた。
あの男のためにむだにした日々を、何とか取り戻し、やり直したかった。
そのためには、生きていなくてはならないのだ。
警察と、そして島崎につながる「組」の男たちが、今、必死になって和代を捜しているだろう。見付かったら、もうおしまいだ。
死にたくない! 和代は心から、そう思った。
落ちついて……。何も、そう自分を追いつめることはない。
お茶をいれて、飲んだ。
昨日会った、あの辻山という男を、思い出す。聡子も、とんでもないことを考えるものだ。
昔から、聡子は考えるより早く行動してしまう子だった。そういう性格は、一向に変わらないものらしい。
しかし、あの辻山という人……。あれも相当なお人善しというべきだろう。
逃亡中の殺人犯を前に、自分の方から頭を下げて、
「どうぞよろしく」
などと、なかなか言えるものじゃない。
聡子は、辻山と和代を「臨時の夫婦」ということにして、一《いつ》旦《たん》ここから出すつもりだ。もちろん、和代のことを考えての計画である。
あの室井刑事は、遠からずここにもやって来るだろう。
辻山のことを思い出すと、つい笑みがこぼれる。——外見はパッとしないし、大して度胸もなさそうだが、
「申し上げておきますが、その——夫婦ということではありますが、もちろん、これは『偽装』でありまして……。その……決して、そのような心配はありません、はい」
と言いながら、赤くなっていた。
要するに、夫婦として何日か過しても、絶対に和代に手は触れないということで、きっと聡子からもきつく言い渡されているのだろう。
たぶん……和代にしても、「男」を受け入れるような気持にはなれまい、逃げているからでなく、島崎との日々が、あまりに地獄そのものだったから……。
あんなものが「男」だという、肌にしみついた絶望は、頭だけで「そんなことはない」と思ってみても、決して消えるものではなかった。
辻山みたいな男も、世の中にはいる。
いや——もちろん、辻山にしたところで、一緒に生活してみれば、「違う顔」も持っているのかもしれないが、しかし基本的な生き方が、島崎のような男とは全く違うのである。
和代は辻山の、あのパッとしない外見と、たどたどしいしゃべり方に、心の和むのを覚えたのだった……。
和代は時計を見た。——電気釜《がま》のスイッチを入れておこう。聡子はちょうど、会社を出たころだろう……。
「——親分」
安東は、大分前から、ソファの後ろに竜《たつ》が立っているのを知っていた。
「——何だ」
安東の目はパソコンの画面にカラフルに表示された棒グラフを見ていた。
「お邪魔してすみません」
「いいさ。——話せ。ちゃんと聞いてる」
ソファに寛《くつろ》いでいても、安東は昔通りの鋭い勘を持っている。
「島崎の兄貴を殺した、あの女のことですが……」
「あの女がどうかしたか」
「あの……。俺にやらせてもらえませんか」
竜が、おずおずと言った。
安東の手が止まった。ゆっくりと振り向いて、
「やらせろ、ってのは、どういうことだ?」
と、訊《き》く。
「はあ……島崎の兄貴にゃ、若いころずいぶん世話になりました。その兄貴があんな死に方をして……。この手で、敵《かたき》をとってやりたいんです」
竜の声に力がこもった。「お願いします。あの女をぜひ、俺の手で——」
「竜」
と、安東はパソコンの方へ目を戻した。
「はい」
「俺は言ったぞ。あの女を無傷で連れて来させる、ってな」
「分ってます。そこを——」
「分ってりゃいい」
安東は遮《さえぎ》った。「他に何かあるか?」
少し間があって、竜は、
「いえ……。お邪魔しました」
と出て行った。
安東は、じっとパソコンの画面に見入っている。
竜の気持は分る。——他にも同じように考えている連中が何人もいるだろう。
しかし、正直なところ、安東は島崎が好きでなかった。気に入らないと暴力で言うことを聞かせる。
もちろん、安東も「力」は使う。しかし、島崎のように「趣味」で暴力を振うことはない。
島崎は、まともじゃなかった。これからは、あんなことではやって行けない。今求められているのは、クールで、知的な方法で事業を拡大して行く手腕だ。
どうしても必要なときには、思い切った手を使う。カッとなりやすい、古いタイプの組員たちには、その判断ができないのだ。
安東は、一方で、島崎のようなタイプの男が、「兄貴分」として慕われやすいことも知っていた。何といっても、「肩で風切って歩く」タイプは、一見、偉く見えるし、頭の中の軽めな連中には「カッコイイ」と映る。
しかし、安東は島崎が決してトップまで行くことはないと読んでいた。あの女に殺されなくても、いずれつまらない抗争で命を落していただろう。
時代は変わっているのだ。
安東はパソコンのキーボードに手をやった。——あの女はどこにいるのだろう?
「おい」
と、安東は言った。「食事に出る。ミキの奴を呼べ」
使い走りの若いのが、駆けて行く。
少し若向きの店にするか。——安東は立ち上がって、伸びをすると、パソコンのディスプレイを消した。