「こんなんで、ご機嫌とろうったって、だめよ」
と、涼子はそっぽを向いて言った。
「何もそうむくれなくたっていいじゃないか……。僕だって色々考えてるんだからさ。——ね、食事のときは楽しくやろうよ。そうしないと栄養にならない」
いかにも邦也らしい言い方に、つい涼子は笑ってしまった。
「——しょうがないから、食べてやるか」
と、メニューを広げる。
このところ、週刊誌とか若者向け雑誌でとり上げられて、いわば流行の「デートスポット」になっている、レストラン。
一応イタリア料理ということになっているが、実際は雑多なメニューがあって、しかも店は洒《しや》落《れ》ていて上品なインテリア。
値段も、そう格別に高いわけでもなく、邦也のように、「多少余裕のある」大学生なら、充分に払える。
これで混雑しなかったら、どうかしているというものである。
「——よくテーブルが取れたわね」
と、涼子が言うと、
「ここのマネージャー、大学の先輩なんだ。ちょっと知ってるんだよ」
と、邦也は言った。「さ、何にする?」
スパゲッティを始め、あれこれ取って、二人で分けて食べようとか、色々やっている間に、涼子の機嫌も直って来た。
オーダーをすませて、涼子は、
「で、どうすることになったの?」
と、訊《き》いた。
「うん。ちょっと困ったことになってね」
と、邦也は言った。「辻山さん、僕のマンションを、二、三日貸してくれないかっていうんだよ」
「どうして?」
邦也が、辻山から頼まれたことを話してやると、涼子は、
「呆《あき》れた。二人で何やってんの?」
「まあ、辻山さんの気持は分るんだけどね。僕の方だって、お袋が来て、あのマンションにいなかったら大変なことになるからな」
と、邦也はナプキンを取って膝《ひざ》の上に広げた。
「で——断ったの?」
「まあ……少し待ってくれって言ってある」
「そう。——でも、辻山さんって人、よく見付けたわね、『奥さん』を」
「訊いたんだけどね、どこで見付けたんですかって。でも、それは言えないんだ、って一人で照れてた」
もちろん、辻山の『臨時妻』が、逃亡中の殺人犯だなどと、邦也が知るはずもない……。
「でも、気の毒よね、その人も。何かうまい手があるといいけど」
と、涼子が考え込む。
前菜の皿が出て来た。
「今晩は」
と、邦也が言った。
皿を運んで来てくれたのが、例の「先輩」だったのである。
「やあ、すてきな彼女、連れてるじゃないか?」
と、冷やかして、「今日は大変だったんだ、テーブル取るのが」
「何かあったんですか」
「奥のテーブル、空いてるだろ?」
一番奥まったテーブルと、その両側。三つのテーブルが空いて、〈予約席〉の札が置かれている。
「誰か来るんですか」
「そう。——ちょっと気をつかう客がね」
ピシッとタキシードの決まった、そのマネージャーは、ため息をついた。
「マネージャー」
と、ウエイトレスの女の子が小走りに、「おいでになりました」
「そう」
急ぎ足で、マネージャーが行ってしまう。
「——よっぽど大切なお客なのね」
と、涼子が言った。「誰かしら?」
「さあね……」
邦也は首をかしげ、「ともかく食べようよ、僕らは」
「ええ」
食事を始めた二人だったが、すぐに手を休めることになった。
店の中が何となく静かになる。
白いスーツを着た、まだ三十代の半ばくらいと思える男が、テーブルの間をやって来る。
そのわきには、えらく派手なドレスの若い女。そして後ろに四人の男が従っていた。
「ね、あれ——」
と、涼子が小声で、「ヤクザ?」
「しっ」
と、邦也があわてて言った。「聞こえるよ!」
どう見ても、ついて来る男たちは、普通ではない。店の中の客たちに、ジロッと鋭い視線を投げかけ、客たちはあわてて目をそらしている。
しかし何といっても——トップを歩いて来る白いスーツの男が、その存在感で、周囲を圧倒していた。
涼子は、見てはいけないと思いつつ、その白いスーツの男から、目が離せなかった……。
「——おい」
と、後ろについていた男の一人が、スッと涼子の方へ寄って来た。「何を見てるんだよ?」
「いえ——別に」
涼子はあわてて首を振った。
「おい、よせ」
と、白いスーツの男が、一番奥のテーブルにゆったりとつく。「他のお客に迷惑かけに来たんじゃねえ」
「はあ」
「早く座れ」
四人の子分たち(だろう)は、両側のテーブルに分れて座る。
白いスーツの男は、涼子の方を見て、
「失礼しました」
と言った。
涼子は黙って会釈した。
「——見ない方がいいよ」
と、邦也が低い声で言う。
「ええ……。でも、凄《すご》い迫力」
涼子はホッと息をついた。何だか店の空気がピンと張りつめたようだ。
「いらっしゃいませ、安東様」
と、マネージャーが挨《あい》拶《さつ》に行く。「色々と特別メニューも用意させてありますので」
「私、お腹空《す》いちゃった!」
と、連れの女が甲高い声を上げる。「ね、スパゲッティ食べたい!」
「かしこまりました。ただ今メニューを——」
「落ちつけよ」
と、安東という男は、女の腕に手をのせると、「食いものは逃げやしないさ」
「だって、お腹ペコペコなんだもん」
「こういう場所にゃ、それなりのマナーがあるんだ。まあ、たっぷり食べろ。その代り、うるさく言うなよ」
安東という男の声はよく通り、相手に有無を言わせぬ「力」があった。
涼子は、「ヤクザ」といっても、あんな大物——若いが、そうとしか思えない——をそばで見たことはない。
何だか足もとからゾクゾクするような、奇妙な興奮を覚えるのだった。
「どうかした?」
と、邦也が訊《き》く。
「ううん、別に」
と、涼子は首を振った。
そう。——涼子の方だって、問題を抱えているのである。
つい、昼間、口をすべらして、池山リカに、
「結婚している」
と、しゃべってしまったこと。
念入りに口止めはしてあるものの、本当のことをしゃべらない限り、向うも納得しそうにない。
リカにしゃべったことを、もちろん邦也には言っていないのである。
今日、帰りに話してあげる、とリカに言っていたのを、「少し待って」と引きのばしたが、さて、どう説明したものか……。
——食事が進むと、涼子も、あの白いスーツのヤクザがあまり気にならなくなって来た。
少々ワインなども飲んでいたせいかもしれない。
店の中は、にぎやかで、話し声も少し大きくする必要があるくらいだった。
「——おいしい! ね、これ食べてみて?」
「俺はもう充分食べたよ」
と、白いスーツの男が言っている。
「お願い! 少し食べて!」
どうやら、可《か》愛《わい》くはあるが、頭の中身の方は少々幼い女らしい。
安東という男、苦笑いしながら、女の差し出したフォークを口に入れている。
四人の子分たちも、大いに食べていた。しかし、ボディガードとしてついて来ているからだろう、アルコールは安東と女だけが飲んでいた。
「——ずいぶん若いわよね、あの白のスーツの人」
と、涼子は言った。
「うん。何だか——怖いな。目つきとか、普通じゃないよ」
「そうね。ああいう世界があるのね」
と、涼子は言って、「ね、そういえば、この間、女の人がヤクザの愛人を刺して殺したって……」
「ああ、刑事をフライパンで殴って逃げたってやつだろ」
「そうそう。凄《すご》いわねえ。だって、ずっと一緒に暮してたわけでしょ? それが刃物で刺すって形で終わるなんて……」
涼子は、愛と憎しみ、どっちにしても、「殺意」にまで行きついてしまうということが信じられない。
「きっと、地獄みたいな毎日だったんでしょうね」
まさか、その当人が、辻山の『臨時妻』とは思いもしないのである。
「あ、ちょっとトイレに——」
と、涼子は、ナプキンをテーブルに置いて、立ち上がろうと椅《い》子《す》をずらした。
ちょうどその後ろを、料理のワゴンを押したウエイトレスが通りかかっていたのである。
ガタッ、と椅子がワゴンにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
と、涼子は体をひねって、後ろを向いた。
顔を伏せがちにしていたウエイトレスが、パッと涼子を見る。
涼子は——それが、ウエイトレスの格好をしているが、男だと知って、目をみはった。
「何なの!」
自分でもどうしてなのか——何を突然考えたのか、後になってもよく分らなかった。
「この人、男よ!」
と、涼子は我知らず叫んでいたのである。
「畜生!」
と、その男は叫ぶと、涼子を突きとばした。
「キャッ!」
涼子はテーブルの上にもろに引っくり返った。
同時に、あの四人の子分が立ち上がっていた。椅子が音をたてて倒れる。
ウエイトレスに変装した男は、靴を脱ぎ捨てると、かつらを投げ捨て、一目散にレストランの中を駆け抜けて行った。
ワゴンが、その弾みでゆっくりと倒れる。料理の皿が砕けたが——。同時に、布の下から、黒光りする拳《けん》銃《じゆう》が転《ころが》り出た。
「あの野郎!」
と、追いかけようとする子分へ、
「よせ」
と、安東が言った。「店の奴に任せるんだ」
「ハジキが——」
「触るな」
と、安東は言った。「警察が来る。そっちが拾うさ」
マネージャーが真青になってやって来た。
「おい! こいつはどういうことだよ」
と、子分の一人がマネージャーの胸ぐらをつかんだ。
「やめろ」
と、安東が厳しい声で言った。「この店のせいじゃねえ」
「へえ……」
「誰か、制服をとられたのか?」
と、安東がマネージャーに言った。
「はあ……。一人、更衣室で気を失っていました」
「けがは?」
「大丈夫です。薬をかがされたようで」
と、マネージャーが言った。
「病院へ連れてった方がいいぜ。後に何か遺《のこ》ると大変だ」
「はあ」
「一一〇番してくれ。その銃を渡すんだ」
「かしこまりました」
「食事がもうすぐ終わるところで良かった」
そう言うと、安東は立ち上がった。
そして、ぼんやりと突っ立っている涼子の方へやって来る。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
その鋭い目がじっと涼子を見る。
「は、はい……。何とも——」
「服が汚れましたね。ソースがついて」
「あ、でも——大したことは……」
「あなたのおかげで命拾いしました。これはちゃんと弁償させて下さい」
いやとは言えない雰囲気。——涼子は黙って、コックリと肯《うなず》いたのだった。