それは、何だか奇妙な光景だった。
床には倒れたワゴン、そして料理が散らばった中に、黒光りする拳銃が落ちている。
警察がやって来るまで、そのままにしてあるのだ。
そして、そこをよけてデザートのワゴンがテーブルのわきへやって来ると、
「デザートはどういたしますか?」
——そう訊《き》かれたってね。
涼子と邦也は、顔を見合せた。およそ、のんびりとケーキだのシャーベットだの選んでいる雰囲気ではない。
「君——どうする?」
「そうね……。コーヒーだけいただこうかな」
と、涼子が言うと、マネージャーがやって来た。
「——どうも騒がせて」
と、マネージャーが低い声で言った。
「別にいいですけど……。大変ですね」
と、邦也も小声で言った。
「このテーブルの支払い、安東さんが持つからってことで……」
「安東さん?」
「あの人さ」
二人は、あの白いスーツの男の方へ目をやった。——落ちついた様子で、食事を続けている。隣の女は、
「私、デザート三つ食べようかな。ねえ、どう思う?」
なんて呑《のん》気《き》に話しかけていた。
「とんでもない」
と、邦也は言った。「ちゃんと僕が払いますよ」
しかし、邦也の先輩に当るマネージャーは、
「払ってくれると言ってるんだ。その通りにしてもらえ」
と、かがみ込んで、「あの人には逆らわない方がいい」
涼子は、ついまたあの白いスーツの男——安東の方を見てしまった。同時に、安東が顔を上げて涼子を見る。
「——どうぞ、デザートも、お好きなだけ」
と、安東が言った。「ほんのお礼の気持ですから」
邦也が、小声で、
「何か頼んだ方が良さそうだね」
「そうね……」
と、涼子も肯《うなず》いたのだった。「じゃあ……このムースと、フルーツケーキ」
オーダーをすませて、ホッと息をつく。
こんなに緊張してデザートを注文したのは初めてのことである……。
そこへ、警官が何人か入って来た。マネージャーの説明を聞いているのは、なぜか頭に包帯を巻いた中年男である。
マネージャーの話に肯くと、
「——皆さん」
と、店内の客に向かって言った。「ご迷惑かと思いますが、これは殺人未遂事件と考えられます。ぜひ捜査にご協力を」
「そんな必要はないんじゃないか」
と、奥のテーブルで言ったのは、もちろん安東である。「やあ、室井さん」
その刑事は、ゆっくりと店の奥の方へとやって来た。
「悪運が強いようだね」
と、その刑事は言った。
「天は正直者を助けてくれるのさ」
と、安東は言い返し、「そこのお嬢さんを通してね」
涼子は、刑事に見られて、あわてて目を伏せた。
「——室井さん」
と、安東は言った。「俺を殺《や》ろうとした奴の顔なら、こいつらが見てる。何も、店のお客たちの手を煩わせることもないだろうさ」
「ちゃんと教えてくれるかな」
「話すとも。好きなのを連れてってくれ」
室井という刑事は、ちょっと苦々しく笑って、
「こっちが見付けたときにゃ、そいつはもう息の根が止まってるってことにならなきゃいいがね」
「そいつは俺にも分らねえな。何ごとも天の配剤さ」
と、安東は言ってからニヤリと笑い、「ところで、どうだね、女にフライパンで殴られたご感想は」
涼子は、邦也と顔を見合せ、改めてその刑事へ目をやった。——これが、「あの刑事」か!
「小田切和代も、可《か》哀《わい》そうな女さ」
と、室井は言った。「今ごろ、もう海の底ってことはないだろうな」
「あの女は殺人犯だぜ。捜してるのは、そっちだろ」
「今の言葉、憶《おぼ》えとくぞ」
室井の口調が、ふと厳しくなる。「あの女は殺させんぞ。島崎の奴は自業自得だ。和代はちゃんと罪を償ってやり直せる女だ」
室井の言葉に、安東の子分の一人が、
「島崎の兄貴のことを——」
と、真赤になって立ち上がる。
「やめろ」
安東の鋭い声が飛んだ。
子分が渋々椅《い》子《す》に腰を落す。——室井は安東へ、
「いいな。あの女は殺すな」
と、念を押した。
「くどいね。一度聞きゃ分る」
室井が合図すると、警官たちが、倒れたワゴンや、落ちている拳《けん》銃《じゆう》の写真をとったりし始めた。
何となくホッと息をついて、運ばれて来たデザートに涼子が手をつけると、
「失礼」
と、室井刑事が声をかけて来た。「どんな様子だったのか、聞かせて下さい」
涼子が、起ったことを説明すると、室井は肯いて、
「分りました。——安東は命拾いしたわけだ。四人もついてて、一人もそのウエイトレスを怪しいと思わなかった」
子分たちが、いやな顔でジロッと室井を見る。
「いや、どうも」
と、室井は立ち上がった。
「あの——」
涼子は我知らず、声をかけていた。「あなたを殴った女の人って……。どんな人だったんですか」
室井は、ちょっと面食らった様子だったが、
「——いい女ですよ。どんな奴でも、必ず心を入れかえてくれると信じていた。それが結局、あんな悲劇を招いたんですがね」
室井は、軽く会釈して、「そうそう。——連絡先とお名前を一応」
と、手帳をとり出した。
「——変な夜だったわね」
と、涼子は暗い部屋の中で言った。
「うん……」
手探りでベッドへ潜り込むと、涼子は、大きく体を伸した。
「あの刑事……。なかなか貫《かん》禄《ろく》あったじゃないか」
「そうね。でも、小田切和代って殺人犯のこと、本当に心配してるのね。私、感激したわ」
「あの殺された男が、安東って奴の『兄貴分』だったんだな」
「そうらしいわね。ああいう世界って、必ず仕返しするんでしょ?」
「よく知らないけど……。そうだろうな。だからあの刑事も、あんなに念を押してたんだ」
「でも——」
「あの安東って奴、見るからに人殺しなんて、何とも思ってないって感じだ。きっと、その女も……」
「——もうやめましょ」
と、涼子は寝返りを打った。
女——小田切和代という女のことが、何となく、他人でないように感じられる。
いや、男と暮していても、自分のように楽しく日々を送っている「二人」と、憎み合い、ついには殺し合う「二人」——しかも、そうなるまで、一緒にいずにはいられなかったという「二人」……。
色んな「二人」が、この世の中にはいるのだ。
「——邦也」
と、涼子は言った。「もう寝た?」
「いや……」
涼子は、邦也のベッドへと滑り込んで行った。
「抱いて」
と囁《ささや》くと、邦也の唇に、そっと自分の唇を押し当てる。「——明日、寝不足になっても、我慢してね」
「ああ」
邦也は、涼子を抱きしめた……。
涼子は、大欠伸《あくび》した。
「——涼子」
と、隣へやって来たのは、リカ。
「あ、リカか」
と、涼子は言って、「ちょっと寝不足なの」
「そりゃ、新婚さんじゃね」
と、リカが冷やかす。
午後の講義。——さぼる学生も多いので、教室はガラ空きだが、それでも、涼子は周囲を見て、
「リカ。しゃべってないでしょうね」
と、小声で言った。
「大丈夫。——しゃべりたくても、もっと詳しいこと聞かないと、しゃべりようがない」
「ちょっと……」
「信用してよ。こっちは、久仁子のことでも涼子に頼ってるしさ」
妊娠したという一年生だ。
「そうね。——あっちはどうなってるの?」
「うん。涼子の口ききで、ずいぶんお金、集まってるの。もう少しよ」
「そう……」
もちろん——堕《お》ろしてしまえればいいというものではない。
女の体と心には、消しがたい傷が残るのである。それを「不道徳」と非難しても始まらないだろう。
「今日はちゃんと話してね」
と、リカが肘《ひじ》でつつく。
「うん……」
涼子は、口をすべらしたことを後悔していた。——何と説明しよう?
真田邦也と結婚している、と正直に話せば、一日の内に大学中に知れ渡るだろう。
「——あ、先生よ」
と、涼子は少しホッとして言った。
中年の、いかにもくたびれた感じの講師は、ガランとした教室を見回して、
「今日も静かでいいですね」
と、皮肉を言った。「テストのとき、悔むことになるんですけどね」
「——陰険」
と、リカが呟《つぶや》く。
「じゃ、始めます」
と、本を開いて、「ええと……。この前の続きで——」
バタン、と教室のドアが開いた。講師は腹立たしげに、
「遅れて来て、何だね! もう少し静かに——」
と、言いかけて……。
どう見ても学生ではない。
涼子は青くなった。ゆうべのレストランにいた、安東の子分の一人である。
何やら大きな紙袋をさげていて、教室の中を見回していたが、
「——いたいた」
ドタドタ足音をたてて、涼子のそばへやって来ると、「ゆうべはどうも」
と、頭を下げる。
「あ、いえ……」
と、あわてて頭を下げ返す。
「ゆうべ汚れたお洋服の代りを、と、親分がおっしゃいまして」
「は?」
「親分のご指示通りに買って来ましたんで。もしお気に召さなけりゃ、とっかえてくれるってこってす」
机の上に、紙袋が置かれる。
「あの……結構です、そんな……。クリーニングに出せば、落ちる汚れですから」
「いや、受け取っていただかないと困りますんで。持って帰ったりしたら、親分に殺されちまいます」
涼子は一瞬ドキッとした。
「では、これで。——お邪魔しやした」
「いいえ……」
ドタドタと足音をたてて、出て行く男——どう見てもヤクザ。
教室の中が、しばし静まり返っていたのは当然だろう。
「——見て! シャネルのスーツ!」
と、袋を覗《のぞ》いて、リカが声を上げた。「凄《すご》いじゃない! 何十万よ」
「リカ……。やめて」
と、涼子はあわてて紙袋を手にすると、「先生——すみません」
と言って、教科書を引っつかみ、教室から、駆けるように出て行った。
唖《あ》然《ぜん》として見送っていた講師は、
「——近ごろの大学は、色々変わったことがありますね」
と、ため息をついて、「では……」
「先生、私もちょっと——」
と、リカも立ち上がって、「用を思い出したんで」
学生が「用を思い出した」もないものだが、リカも教室を出て行き、やる気の失せた講師も、
「じゃ、僕も失礼」
と、出て行ってしまったのだった……。