「——困ったわ」
と、涼子はため息をついた。「どうしたらいい、これ?」
そう訊《き》かれても、邦也の方だっていい考えなどあるわけがない。
例の安東の子分が置いていった「シャネルのスーツ」の袋を前に、二人とも、途方にくれるばかりである。
「リカだって、どういうことか説明しろってうるさくて。いつまでも逃げてられないわ。おまけにあんなことがあって、大学中の評判になってるし……」
涼子と真田邦也は、大学から少し離れたレストランで夕食をとっていた。
できるだけ外食はしないようにしている二人だが、何かと忙しいと、ついそうなる。特に今夜の涼子は、食事の仕度なんかする気分ではなかった。
もちろん、ごく普通のレストランで、決して高級店というわけじゃない。
「僕の方も困ってるんだ」
と、邦也が言った。「何しろ辻山さんの頼みも、そうむげに断れないしね。いい人なんだ」
「分るけど……。あのマンション、辻山さんに貸したら、私たち、どこへ行きゃいいのよ?」
「うん……。そこなんだ」
と、邦也はため息をついた。
涼子も、邦也と毎日暮しているのだ。邦也が考えていることぐらい、見当がつく。
辻山という男にマンションを貸すなんてわけにはいかない。上京して来た母親が何と言い出すか——。
それに、結婚していることも、今はまだ母親に知られたくない。だから、母親が来ている間、涼子にどこかへ行っていてほしい……。
それが、おそらく邦也の本音である。しかし、そう言えば涼子が怒るに決まっているから、口に出せない。
「凄く高いんだろ、このスーツ」
と、邦也が言った。
「そうね。安く見ても三十万かな」
と、涼子は言った。「でも、返すっていってもね……」
「それで怒らせたりしたら、怖いしな。もらっとくしかないんじゃないか?」
「そうね」
と、涼子は言った。「リカに何て説明するかなあ」
「それより——」
と、邦也は言いかけて、ためらった。
「なに?」
「いや……。差し迫った問題があるからさ、その……」
「私のことね」
「僕らのことだ」
「同じでしょ」
と、涼子は言った。「でも、難しい問題じゃないわ。私と結婚してるって、お母さんに話す。それしかないじゃない」
「うん……。それはそうなんだけど……」
「じゃあ、何なの?」
分っていても、つい意地悪く訊《き》いてみる。
「つまり、その……話はするけど、いきなり二人で住んでるってのを見たら、きっと、お袋、カッとなると思うんだ。だから、順序立てて、僕が君のことを話し、それから君を紹介して——」
「妻です、って? 同じことよ。どっちにしろ、お母さんを一度は怒らせることになる。そうでしょ?」
「そう……だね」
と、邦也は煮え切らない。
涼子は苛《いら》々《いら》して来た。
「はっきり言ったら? 私に出てってほしいのね」
「いや、そんな……」
「じゃ、何なの?」
「つまり、その……一時的にマンションを留守にして……」
「同じことでしょ。私がいちゃまずいってことに変わりはないわ」
涼子の言葉に、邦也も何とも言い返せない。
「もし、私がお母さんのいる間、マンションを出てたとする。そしたらあなた、お母さんに、結婚してるってこと、隠し通すつもりでしょ」
「いや、ちゃんと話すよ」
とは言ったが、いかにも自信なげである。
「当てにならないわ」
涼子は、カッカしていた。「いいわよ。いくらでも、あなたの好きなだけ、マンションを出ててあげる! その代り、二度と戻らないかもしれないから、そのつもりでいてよね!」
叩《たた》きつけるように言うと、涼子は立ち上がってさっさとレストランを出て行く。
残った邦也が、ため息をついて、頭をかかえる。
一人の男が、涼子の後から急いでレストランを出て行ったことに、邦也はまるで気付かなかった……。
トントン。
ドアを叩く音で、それが辻山だと見当がつく。
しかし、一応は用心しなくてはならない。
小田切和代は、そっと玄関の方へと近寄って行った。すると、
「辻山です。いますか?」
と、タイミングを見はからって、声をかけて来る。
和代はチェーンを外した。
「——どうも」
と、辻山は中へ入って来て、「あれ? 山崎さんは?」
「まだです」
と、和代は言った。「たぶん、途中で買物して来るんじゃないですか? 上がって下さい」
「はあ」
辻山は、上がり込んで、「毎晩、悪いですねえ」
と言った。
「いいえ」
——山崎聡子の提案で、少しでも「本物の夫婦」らしく見せるために、夕食は毎晩ここへ寄って取っているのである。
「もう仕度、できますから、座ってて下さいな」
「はあ」
二人は、ちょっと顔を見合せて笑った。
「——山崎さんに叱《しか》られちまうな」
「そうですね。でも、何だか照れくさいわ、やっぱり」
と、和代は再び台所に立つ。
聡子は、
「ちゃんと夫婦らしい口をきかなきゃだめじゃないの!」
と、いつも二人に文句を言っているのだが、人間、そう突然に、親しげな口がきけるものではない。
「慣れとかないと、いざってとき、困るわよ」
という聡子の言葉は正しいと思うのだが、二人きりだと、ついていねいな口をきいてしまう。
「お部屋の方のめど、つきまして?」
と、和代が鍋《なべ》の様子を見ながら言った。
「捜してるんですがね。なかなか適当なのが見付からなくて」
と、辻山は首を振って、「邦也君の所が借りられるといいんですけどね」
「でも、あんまり無理は言えないでしょ」
と、和代は言った。「あちらにも都合のあることですし……。あ、ちょっと味を見て下さい」
「はあ」
辻山は立って、台所へ行った。「——うん、旨《うま》い! おいしいですよ」
「そう?」
和代は嬉《うれ》しそうに言った。「自信なくて。——あなたのお父様に何を出したらいいのかしら」
「親父は何でも食べます。それに、この味なら本当に——」
「そう」
和代は、ちょっと間を置いて、「——島崎は、何を食べても『おいしい』なんて言ったこと、なかったわ」
と言った。
「もう忘れることですよ」
と、辻山は言った。
「ええ……」
和代は、ちょっと肯《うなず》いて、「そう思うんですけどね……。もちろん死んで悲しいなんて思いません。あの男は、どうしたってまともな死に方はしない人だったんです」
「あなたが罪を犯したわけじゃない。奴は自殺したんです。そうですよ」
辻山の言葉が、和代の胸にしみた。
「ありがとう……」
と、和代は辻山を見て言った。
ガステーブルの前で、二人はじっと立っていた。
たぶん、二人がこんなに間近に、向き合っていたことはなかっただろう……。
「——ただいま!」
と、ドアが開いて、山崎聡子が大きな包みをかかえて入って来た。
「僕が持つよ」
辻山があわてて玄関へと駆けて行った。
「お願い。——冷凍食品があるの」
「冷凍庫ね。分った」
袋を開けて、中のものをせっせととり出している辻山を、和代は眺めていた。
いい風景をぼんやりと見ているときのような、快い感覚がある。
恋だの愛だのと、互いを縛るのでなく、「他人である」ことを前提にして、こうして男を見ていられる……。
それは何という安心感だったろう!
こんな人もいるのだ。世の中には。
和代にとって、この平凡な勤め人は、大きな驚きだった……。
「どう? ちっとは夫婦らしくやってる?」
と、聡子が言うと、
「ああ。——やってるよ。なあ、和代」
「ええ、あなた」
と答えて、和代は微《ほほ》笑《え》んだ。
カッカしながら夜の道を歩いていて……涼子は、足を止めた。
手にボストンバッグ。——身近なものだけ詰めて来たが、洋服だの下着だの、マンションに残したままだ。
邦也が何とか片付けるだろう。そこまでやってやることはない。そうよ!
とはいえ……。
もう一度、邦也と話し合えば良かっただろうか?
しかし、涼子は邦也と決定的にケンカしてしまうのがいやだったのだ。やっぱり邦也のことは好きである。
しかし、結婚となると——どうなんだろう? やっぱり、邦也はまだ若すぎたのだろうか。
——今ごろ、きっとマンションへ戻って、邦也は涼子がいないので、焦っていることだろう。それとも、ホッとしているかしら。
いやいや、そこまで言っては可《か》哀《わい》そうだ。邦也は、涼子を愛している。それは確かなのだから……。
すると——車が近付いて来て、スッと涼子のわきに停《と》まった。涼子はびっくりして退《さ》がった。
車といっても——目を丸くするような、長い車体のリムジン。とてつもなく大きく見える。
スーッと窓が下りると、
「乗りませんか」
と、その男が言った。
「え?」
「命を助けてもらった男です」
サングラスを外すと、安東の顔が現われた。
「あ——どうも」
と、涼子は言った。
「どうぞ」
ドアが開く。——しかし、涼子はためらった。
「ご心配なく」
と、安東は言った。「いくらヤクザでも、命の恩人に妙な真《ま》似《ね》はしませんよ。信じて下さい」
「はあ……」
涼子は、何だか自分でもよく分らない内に、そのリムジンに乗り込んでいた。
向かい合って座れる座席。——間にちゃんとテーブルもある。
「凄《すご》い車」
と、素直に驚くと、
「不便なもんですよ」
と、安東は言った。「見栄で乗ってるが、こうでかくちゃ、狭い道には入れない。急なカーブは曲がれない。全く、日本向きじゃないです」
その言い方がおかしくて、涼子は笑った。
「おや、笑ってくれましたね」
と、安東は愉《たの》しげに言った。「あの室井という刑事から何か聞いていますか」
「いえ……」
「まあいい」
と、安東は肯《うなず》いて、「あなたのお役に立ちたい。それだけです」
「役に?」
「そう。——結婚はしたものの、彼の母親が上京して来る。それで二人は冷い戦争。そうでしょう?」
「どうしてそんなこと——」
と、涼子は唖《あ》然《ぜん》とした。
「情報集めは得意でしてね」
と、安東はニヤッと笑って、手もとのボタンを押した。
パソコンのディスプレイがスッと現われる。
「あなたがどうしたらいいか、一緒に考えましょう」
と、安東は言った。