「親分からの命令です。到着するまで絶対に手を出すなって」
「分ってる」
竜は肯《うなず》いた。「しかし、親分はまだ車の中だろ? こっちへ向かってるといっても、時間がかかる。ともかく俺があっちへ行ってる」
「分りました。今、至急人手を集めてます」
「その辺りを取り囲むんだ。いいな、アリ一匹、這《は》い出る隙《すき》間《ま》もないぐらいにしとくんだぞ」
「へえ」
竜は、大《おお》股《また》に組の事務所を出た。
聞き出すことはもう聞いちまった。ここにいてもすることはない。
竜は、表に出ると、待たせておいた車に乗り込んだ。——安東の子分の中では、竜は「大物」である。
「そこへやれ」
と言って、座席に身を沈めた。
——安東は、自分が着くまで小田切和代に手を出すな、と言っている。その点は、竜も聞いたし、分っている。
しかし、竜としては、いくら安東の命令とはいえ、自分の手で島崎の敵《かたき》を討ちたいという思いを捨て切れずにいる。安東を怒らせることになるかもしれないが、仕方ない。
——これは「俺の仕事」だ。
竜は、そっとポケットを上から触った。固いものが手に触れる。拳《けん》銃《じゆう》である。
あの女に弾丸を撃ち込んでやる。一発で死なせやしねえ。苦しんで、のたうち回るのを楽しんでから、殺してやるのだ。
安東も、同じ場所へ向かって急いでいることを、竜は知っていた。もし、安東が先にあっちへ着くことがあったら——。
「おい、急げよ」
と、竜は車を運転している子分へ言ってやった。
「——さあ、もう帰るかな」
と、辻山は時計を見て、腰を上げた。
「そうね」
と、聡子が伸びをして、「明日も会社が待っている、と」
「じゃあ……おやすみなさい」
と、辻山は何となく目をそらして和代に言った。
「気を付けて」
と、和代も立ち上がって、「明日もおいでになれるんでしょ?」
「ちょっと」
と、聡子が文句をつける。「夫婦でそういう口のきき方はないでしょ」
「勘弁してくれよ」
と、辻山が苦笑いして、「いざってときはちゃんとやるからさ」
「そう?——ま、大丈夫でしょ。何となく夫婦らしいほのぼのした感じが出て来たわ」
「そうかい?」
「この分なら何とかごまかせるかもね」
と、聡子は言って、「部屋の方、明日は私、用事で外出するから、ついでに少し捜してみる」
「山崎君の方が、そういう点は確かかもしれないね」
辻山は上着を着て、「ああ、こう毎日満腹でいられるなんて、夢みたいだ」
「はい、あなた」
和代が靴べらを渡し、「ネクタイ、曲がってる」
と、直してやる。
「ありがとう」
そんな簡単なことをしてもらうだけでも、ふっと胸が熱くなる。辻山は、長いこと一人でいたことの寂しさ——自分でも意外なほどに身にしみこんでいたらしい寂しさを、逆に教えられた気がした。
「じゃ、また明日」
と、辻山は靴をはいて、微《ほほ》笑《え》んだ。
「ええ。——行ってらっしゃい、あなた」
と、和代が送り出す。
「その調子」
眺めていた聡子が肯《うなず》く。「大分気分が出てるわよ」
辻山は少し照れたように、聡子に手を上げて見せると、廊下へと出た。
アパートを出て、夜道をのんびりと歩き出す。
急ぐまでもない。自分のアパートでは、誰も待っていないのである。急いだところで仕方ない……。
待たれているということ。——それがどんなにすばらしいことか、辻山はこの何日かの間で、痛いほど感じていた。
小田切和代が……。あんなにすてきな女性が、男を殺したのだ。もちろん、彼女が悪いわけではない。
しかし——彼女がずっと逃げ切れるとは思えない。たとえ逃げられたとしても、当り前の職業につき、家庭を持つことは無理なのだ。
いつも逃げ回り、人の目を気にしながら、暮さなくてはならない。それも、刑務所以上の「罰」かもしれない、と辻山は思った……。
「馬鹿野郎!」
突然、叱《しか》りつける声がして、辻山はギョッとして足を止めた。
しかし、どう考えても、こっちが叱られる理由はない。
「この間抜けめ! 何を見てやがったんだ!」
角を曲がって、男が二人、現われた。
どう見てもヤクザ。——反射的に辻山は暗がりの中へ身を寄せていた。幸い夜道は暗い。
「すいません」
と、もう一人が謝っている。「何しろ、連絡しなきゃ、と思って電話を捜し回ってたんですよ。あっちこっち曲がったもんで……。どこであいつを見たのか分んなくなっちまって……」
「ドジな野郎め」
と、一人はカンカンになって怒っている様子だ。「この辺だってことは間違いねえんだな」
「ええ……。こう暗いと、どこもかしこも同じみたいに見えて」
と言いわけしているが、確かに、この辺はややこしく道が入り組んでいて、分りにくいのである。
「畜生!」
と、怒っている男が舌打ちして、「見付けなきゃならねえんだ、何が何でも」
「でも……親分が来るまで待ってろって言われましたよ」
「分ってる」
と、素気なく言って、「今、何十人か集めて、この辺を固めてるはずだ。じっくり捜しゃ見付かるだろう。しかしな……」
「竜の兄貴」
「何だ?」
「兄貴……あの女のこと、自分の手でばらしたいんでしょ」
竜と呼ばれた男はジロッともう一人をにらんで、
「お前の知ったこっちゃねえ」
と、言った。「お前は和代を見かけた場所を、ちゃんと思い出しゃいいんだ」
「へえ。——アパートだったってことは確かなんです。前まで行きゃ分ると思うんですけど……」
「情けねえ奴だ、全く! こっちへ行ってみよう」
と、竜が促して、歩いて行く。
——辻山は、膝《ひざ》が震えているのを感じた。
「和代」。——「和代」と言った。
間違いない! 小田切和代を捜している連中だ。
おそらく、さっきゴミを出しに行ったところを、見られたのだ。
何十人もで固めてる?——大変だ!
辻山は、あわてて山崎聡子のアパートへと戻って行った。今の二人は幸い、全く別の方へ向かっていた。
今のうちだ!
辻山は、走っていた。アパートの階段を駆け上がると、聡子の部屋のドアを叩《たた》く。
「僕だ! 山崎君!」
中からドアが開いて、
「何よ。そんなやかましい音たてて——」
と、聡子が顔をしかめる。
「彼女は?」
と、辻山は息を弾ませながら、玄関の中へ入った。
「今お風《ふ》呂《ろ》。——何なの?」
「そこで……男たちが捜してた。ヤクザだ」
「え? 本当?」
「『和代』と言ってた。間違いないよ」
「大変! どうしよう!」
と、聡子が青ざめる。
「逃げるんだ。急いで。今ならまだ——。何十人もが、この辺を取り囲むらしい」
「分ったわ!」
聡子が、お風呂場へと駆けて行く。
もちろん、小さなお風呂で、ドアも見えている。
聡子が話をし、ザバッとお湯の音がして、和代がタオルを裸身に当てて出て来た。辻山はあわてて背を向けると、
「急いで服を着て!」
と言った。「今なら間に合うかもしれない!」
「ありがとう」
と、和代が服を着る音。「男って、何人?」
「僕が見たのは二人。このアパートを捜して歩いてる。一人は『竜』とか呼ばれてたよ」
「竜?」
と、和代が声を上げた。
「知ってるの?」
「ええ。——島崎が可《か》愛《わい》がってた弟分だわ。もう年齢は五〇くらいだけど」
「今は見当違いの方を捜してる。まだ逃げられるかもしれない」
「ありがとう。——聡子。もう迷惑はかけられないわ」
「和代——」
「ここで見付かったら、あなたも殺される。——色々ありがとう」
和代は押入れから小さなバッグを出して、
「必要な物は入れてあるから。じゃあ」
「和代……」
「僕が一緒に行く」
と、辻山が言った。
「いけないわ。あなたまで、無事じゃすまないわよ」
「君一人行かせられるもんか。毎晩ご飯を食べさせてもらったんだ」
辻山は断固たる口調で言って、「さ一緒に!」
と、和代の腕をとった。
「もめている暇はない」
和代もそれ以上逆らわなかった。
二人は、アパートを出ると、夜道を小走りに急いだ。
しかし、角を曲がろうとして、ハッと足を止める。
「いいか、妙な奴が来たら、通すなよ」
と、声がしている。
そっと辻山が覗《のぞ》くと、ヤクザが三人、道をふさぐようにして、タバコをふかしている。
「だめだ。——違う道を」
二人は、アパートの裏手へ出た。
細い露地を抜けると、広い通りへ出る。
しかし——そこでも二人は息をのんで後ずさりすることになった。
やはり、どう見てもあの「竜」という男の仲間が、通りに四、五人、固まっていたのである。そして、その内の二人が、別の方向へと足早に立ち去る。
「——これじゃ、とても無理だ」
辻山と和代は、結局、聡子のアパートの前まで戻って来てしまった。
「もう少し早ければ……」
と、辻山は悔しそうに言った。
「辻山さん」
と、和代は言った。「ありがとう。本当にこの何日か……。楽しかったわ」
「和代」
と、ごく自然に辻山は呼んでいた。
「行って。私一人で、何とか逃げるわ。心配しないで」
「だめだよ。君は、死ぬつもりだろう」
「仕方ないわ。少し早いか遅いかの違いだけよ」
和代はそう言うと——素早く辻山の口に唇を押し当てた。「さよなら、辻山さん」
「いけない!」
辻山は和代の腕をぐっと握りしめた。「諦《あきら》めるな。何か方法がある」
「でも——」
「ともかく、山崎君の部屋へ戻るんだ!」
半ば強引に、和代を引張って戻ると、足音を聞いてか、すぐドアが開く。
「どうした?」
「囲まれてる。逃げられないんだ」
と、辻山は中へ和代を押し込んだ。
「私さえ出て行けば——」
「だめだ! そんなこと、できるもんか」
と、辻山は荒く息をしながら言った。「何とかして逃げるんだ!」
「いい方法、あるかしら」
と、聡子が頭をかかえる。
「待てよ。——山崎君、救急車だ!」
と、辻山が言った。
「え?」
「君が突然の腹痛で苦しんでる。救急車で病院へ運んでもらうんだ」
「分ったわ!」
「待て、僕が電話する。亭主だと言って。救急車に彼女を乗せて、僕も一緒に乗って行く」
「そうだわ! 救急車なら、あの連中も邪魔できないわよ」
と、聡子は目を輝かせた。
——和代は、バッグを手に、玄関に立っていた。そして辻山が、電話をかけて、
「女房が苦しんでるんです! すぐ救急車を!」
とやっているのを見ていて……。
涙が、和代の頬《ほお》を濡《ぬ》らしていた。