「こんな所だけど、仕方ないね」
と、辻山は言った。
「充分よ」
和代が部屋の中を見回す。「聡子のアパートにいると、やっぱり気になるの。もし、ここにあの連中が押しかけて来たら、って。聡子もひどい目に遭うに決まってるし。出て来て良かったのかもしれない」
小さなビジネスホテル。料金は安いが、それにふさわしく(?)部屋もベッドと小さな机があるだけで、体を動かす余地もないくらいのもの。
「ともかく、今夜はここで過して、明日は何とか部屋を見付けよう。もしどうしてもだめなら、僕のアパートへ来てもらうことにするよ」
「ええ」
と肯《うなず》いて、和代はベッドに腰をおろすと、深々と息をついた。
「いや……。とんでもない夜だったね」
と、辻山が言って、二人は顔を見合せ——一緒に笑った。
「——笑いごとじゃないのにね」
と、和代が首を振って、「でも、思い出すとおかしい!」
「そう。あの医者の呆《あつ》気《け》にとられた顔とかね」
辻山も、今になって笑いがこみ上げてくる。
救急車が、山崎聡子のアパートの前につけられると、和代を担架にのせて、辻山が付き添い、一緒に乗り込んだ。そして病院へ。
——うまく、あのヤクザたちの目をごまかして逃げ出すのに成功したのである。
病院へ着いて、当直の医師が診察しようとすると、
「あら、もう治っちゃった」
と、和代が突然元気になり、
「そりゃ良かった。どうもお騒がせして!」
と、辻山が和代の手を引張って、唖《あ》然《ぜん》とする医者や看護婦を後に逃げ出して来てしまったのである。
「お医者さんには悪いことしちゃった」
と、和代がまた笑いながら言った。
「仕方ないさ。事情が事情だ」
「そうね。でも——」
と、和代は真顔になり、「辻山さん。あなたに助けていただいたのね。本当にありがとう」
「毎晩、飯を食わしてくれてたんだ。これぐらいのお礼はしなきゃ」
辻山は、何となく和代から目をそらして、「じゃあ……ゆっくり眠るといいよ。明日、一度電話かけるから」
「待って。——聡子の所、無事にすんだか、不安だわ。電話してみましょうか」
辻山は少し考えて、
「もう少し待ってからの方がいいんじゃないかな。僕が後で様子を見に行って来てもいいよ」
「やめて! 危いわ」
と、和代が身をのり出す。
「分った。——じゃ、後で電話してみる」
「あの……。もう少しここにいてくれる? 私、お風《ふ》呂《ろ》に入りたいの。途中だったでしょ」
「ああ。——そうだったね」
「一人になるのが心細いの。ご迷惑でなかったら——」
「迷惑だなんて……。どうせ帰ってもすることもないんだ。ゆっくり入っておいで。といっても……」
何しろ小さい部屋だ。一応、ユニットのバストイレは付いているが、ドアを閉めたら湯気でのぼせてしまいそうである。
「少しドアを開けて入るわ」
「分った。じゃ、そっちへ背を向けて座ってるからね」
と、辻山は言った。
机の前の小さな椅《い》子《す》に腰をおろすと、和代が服を脱ぐ音が聞こえて来る。
やがてバスルームから、お湯をためる音が大きく聞こえて、辻山はホッとした。
やはり、振り向くこともできないというのは、窮屈なものである。
時計を見ると、もう真夜中といっていい時刻。確かに、山崎聡子のアパートのことも気にかかる。
もし、和代があそこにかくまわれていたと分ったら、聡子がどんなことになるか……。
ふと、辻山は薄汚れた鏡の中に映っている自分の姿を眺めた。汚れたところが、いかにも似合っている。
それにしても……。自分で言うのも何だが、よくやった!
思い出しても、あれが現実のことだったのかと、我ながら信じられないくらいなのである。
あんなヤクザたちの前を救急車で通り抜け、いかにも、苦しがる妻を心配する夫、という役をみごとにやってのけた。あんなことを、どうして思い付いたのだろう?
人間、いざとなれば、大したことができるものだということ。——辻山は改めて痛感したのだった。
だが、たぶん辻山をつき動かしたのは、一人、あの連中に捕まって死ぬことを覚悟した和代が、思いを込めて辻山に与えてくれたキスだったのかもしれない……。
「——だめです」
と、子分の一人が息を切らして、戻って来た。
「見付けられないのか」
と、安東はリムジンの中から言った。
「申しわけありません」
と、子分が汗を拭《ふ》く。「この近くなのは確かなんですが」
「全く、何てざまだ!」
と、真赤になって怒っているのは、「竜」と呼ばれている男。
——涼子は、ずっとリムジンの中に、安東と一緒に乗っていた。そして、小田切和代が見付かるのかどうか、息をのむ思いで、見守っていたのである。
「そう怒るな、竜」
と、安東が言った。「急ぐことはない。時間はある」
「へえ……」
竜という男が、必死でその和代という女を見付けようとしていることは、涼子にも分った。それに対して、安東はどこかクールである。
「もう一度隅から隅まで当らせます」
と、竜が言った。「一軒一軒叩《たた》き起してでも——」
「すぐ一一〇番されるぞ」
と、安東は言った。「何人か、この辺を見張らしとけば、また必ず姿を見せる」
「ですが——」
「待て。サイレンだ」
「え?」
竜がギクリとする。
涼子も耳をすましたが、何も聞こえない。と思っていると、やがてかすかにサイレンが近付いて来た。
安東の耳の鋭さに、涼子はびっくりした。
「こことは関係ありませんよ」
と、竜は言ったが、
「いや、こっちへ来る」
と、安東が首を振る。「何台もだ」
その通りだった。
パトカーが四、五台、安東のリムジンを前後に挟むような形で停《と》まる。
その一台から、コートをはおった男が降りて来た。
涼子ももちろん憶《おぼ》えている。頭に包帯を巻いた、室井という刑事だ。
安東がドアを開けて、表に出た。
「——安東。こんな所で何してる」
と、室井が言った。
「夕涼みですよ。仲間同士の親《しん》睦《ぼく》を兼ねてね」
「ふざけるな」
と、室井はつっぱねるように、「和代だな。分ってるぞ」
「和代がこの辺にいるんですか。そりゃ偶然だ」
「とぼけてろ。お前らにゃ殺させん。そう言ったぞ」
「憶えてますよ。まだ若いんで、記憶力は衰えちゃいない」
「それなら引き上げろ。さっきからこの辺をうろついてるって、何件も通報があったんだ」
「俺たちは道も歩いちゃいけねえのかい」
と、竜が口を出す。
「お前は黙ってろ」
と、安東がたしなめた。
「おい、竜」
と、室井が言った。「お前にも『殺し』だけはやらせたくないんだ。おとなしくしてな」
「気をつかって下さってどうも」
と、安東が先回りして言った。「ご心配なく。もうそろそろ帰って寝ようって話してたところでね」
「そりゃ結構。一人残らず、ちゃんと帰るまで見送ってやろう。ついでに、戻って来ないように、パトカーを一台置いてく」
「ご苦労さんです」
と、安東は会釈した。「——おい、引き上げるぞ」
子分たちが黙って散って行く。
竜は一人、悔しそうに室井をにらみつけていたが、やがてクルッと背を向けて、歩き去った。
「竜には用心することだ」
と、室井が言った。「お前のやり方に不満らしい。寝首をかかれるぜ」
「子分にやられるほど、ぼけちゃいません。女に殴られるほどにもね」
室井は苦笑して、
「大きなお世話だ」
と、肩をそびやかし、パトカーの方へ戻って行った。
安東が、リムジンの中へ戻って来ると、
「おい、別荘へやれ」
と、運転手へ言った。
リムジンは再び走り出した。
「——夜ですからね。道は空《す》いてる。そうかからないでしょう」
と、安東は言った。
「あの……」
と、涼子が言いかけて、ためらう。
「何です?」
「どこかで——ハンバーガーか何か買いたいんですけど。お腹が空いて」
正直、ホッとしたら、お腹が空いて来たのである。安東はちょっと笑って、
「それもそうだ。——こっちも何か腹へ入れよう。おい、どこかレストランへつけろ」
と、言った。
「いえ、そんなんじゃなくても——」
「まあいい。どうせ夜の方が元気のいいのが若い人ってもんだ」
安東はむしろ楽しげで、そして(涼子の思い違いでなければ)ホッとしているようにも見えた。
ドアを開けると、聡子は、
「あら」
と、言った。「刑事さんですね」
「どうも」
と、室井は言った。
「何か?」
「ここに小田切和代が来ているんじゃないかと思いましてね」
と、室井の目が室内を素早く見回す。
「和代が? いいえ。お客はいましたけど。ご夫婦ですわ。さっき、気分が悪いというので、救急車を呼んで……」
「ほう」
「でも、何でもなかったようです。今、電話がありました」
「それは良かった」
と、室井は肯《うなず》いた。「この辺に、例の、殺された島崎の子分たちが集まってたんでね」
「まあ怖い」
「もう行っちまいました。しかし……」
と、室井は言いかけて、「——ともかく、何か連絡があったら、必ず知らせて下さい」
「分っていますわ」
「よろしく」
と、室井は言って、「遅いですな。これからお風呂ですか」
チラッと、ドアの開いた浴室の方へ目をやる。
「和代が入ってるのかもしれませんね。覗《のぞ》いてご覧になる?」
と聡子が言うと、室井は笑って、
「いやいや」
と、首を振った。「覗きで捕まっちゃみっともない。この年《と》齢《し》でね」
「じゃ、おやすみなさい」
「どうも」
室井の足音が遠ざかると、聡子はホッと息をついて、ロックをし、チェーンをかけた。
——辻山からの電話で、二人が無事に逃げたことは分っていたが、あの連中がここへ押しかけてくるのでは、という恐怖はあった。しかし、それも室井がやって来たから、もう大丈夫だろう。
奇跡のようなものだ。
そう。——本当に奇跡だ。
聡子は、きっと和代はうまく逃げられる、と思った。
こんなピンチを切り抜けたのだ。たとえ何があっても、きっと……。
聡子は、深呼吸をして、風呂にお湯を足そうと、歩いて行った。