時間きっかりに、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
と、涼子は返事をして、ドアを開けた。
「お迎えに参上しましたよ」
と、安東が軽く会釈して、「すてきだ」
「別に……」
涼子は少し照れた。何も特別に着るものは持って来ていない。えりもとに、バラを一輪さしただけである。
「トゲがあるから手を出すな、という意味かな」
と、安東は笑って、「中を覗《のぞ》かせてもらっても?」
「どうぞ。あなたが借りて下さってるんですもの」
と、涼子は後ろへ退《さ》がった。
「いや……。もちろん泊ったことはありますがね。この部屋は初めて入るな」
安東は、ドアを閉めて、ゆっくりとリビングスペースを見回した。
「こんな所で暮したら、すてきでしょうね」
と、涼子が言った。
「本気ですか」
「え?」
「本心からそう思っているのなら——」
「あ、いえ」
と、急いで、「私には合いません。私は……当り前の女の子です」
「分っていますよ」
安東は肯《うなず》いて、「当り前でない世界に生きる我々とは、しょせん交わることのない平行線、というわけだ」
「そういう意味では……」
と言いかけて、「でも——やっぱりその通りです」
安東は、ソファに腰をおろした。
「あなたは誠実な人だ。僕のような人間でも、平等に扱ってくれる」
「安東さん」
涼子は、ソファに並んで座ると、「その気になれば——きっとあなたも私たちの世界へ来られますわ」
安東はチラッと目を伏せ、
「その気になれば、ね」
と、言った。「しかし、僕は僕一人のものじゃない。厄介です」
「義理とか、仁義とかですか」
「それもあります」
安東は、何か考えている風だった。
「あの女の人……。和代さん、といいましたっけ。見付かったんですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「竜が見付けたようです。——どこにいるかは知りようがない」
「じゃあ……」
「今ごろ、竜はその女を殺しているでしょうな」
安東は淡々と言った。「止める方法がない。やむを得ません」
「そうですか」
涼子は、落胆した。「あなたが——その人を助けて下さるかと思っていました」
「できればね。——たぶん無理でしょうが」
「もし、殺されていたら?」
「竜は、命令を無視して、独断で行動したわけです。当然、その罰がある」
「殺すんですか」
「本人も覚悟の上です」
「やめて!」
涼子は叫ぶように言って、立ち上がった。「人を殺して、その罰にまた人を殺して……。狂ってる! 馬鹿だわ! そんなことを〓“仁義〓”だなんて格好つけても、同じことだわ。下らない!」
激しく言い切って、息をつく。
「——怒りましたね」
安東も、ゆっくり立ち上がると、「きれいだ。あなたが怒ると」
「安東さん……」
「食事はどうします」
涼子は、ちょっと間を置いて、
「予約を取り消すのは好みませんの」
「では——」
安東が、涼子の腕を取ろうとして、その手が一瞬止まる。そして、次の瞬間、涼子は安東の腕に抱かれて、唇を唇でふさがれていた。
小さく身震いして、涼子は、しかしじっとしていた。
「——行きましょう」
と、安東が言った。「時間だ」
辻山房夫と和代がロビーへ入ってくる。
「やあ、来たな」
と、いやに派手なスタイルの紳士が……。
「父さん!」
辻山は目を丸くして、「どうしたの、その格好?」
「似合わんか?」
辻山勇吉は少々照れていた。
「いいえ。凄《すご》くすてき!」
和代がずっと勇吉を眺め、「若々しく見えますわ」
「そうかね」
勇吉は嬉《うれ》しそうに、「洋子さんがそう言ってくれるとありがたい」
「山崎さんはまだかな?」
と、辻山はロビーを見回した。
「見えないわね。ロビーって言ったんでしょ? じゃ、遅れてるのよ。待ってましょう」
「うん」
辻山は、父と和代と三人で、ロビーのソファに腰をおろした。
ちょうどそのとき、エレベーターの扉が開いて、安東と涼子が降りて来たが、和代はロビーの入口の方へ向いて座っていて、お互い、全く見ていなかったのである。
「ちょっとトイレに」
と、辻山は立つと、ロビーの奥の化粧室へ行った。
化粧室も並の豪華さではない。手を洗う蛇口も金色。少々目が回りそうではあった。
辻山が化粧室を出て、戻ろうとすると、
「辻山さん」
と呼び止められた。
「何だ、邦也君か」
と、辻山は言った。「何してるんだ?」
「母と食事ですよ。そっちもでしょ」
と、邦也が小声で言った。
「うちは親父とさ。それと、女房とね」
辻山はウインクして見せた。
「おめでとう。良かったですね」
「おかげさまで?」
辻山は苦笑して、「しかしね、急いで見付けたのに、すてきな人なんだ」
「のろけないで下さい」
と、邦也は笑って、「じゃ、そのままゴールイン?」
「いや……。それが色々あってね」
辻山はチラッとロビーへ目をやる。「君の方は? もう話したの?」
「母にですか? いいえ、とてもじゃないけど、そんなムードじゃなくて」
と、邦也は顔をしかめた。「それに……何だか、うちの母とそっちのおじさん、おかしくありません?」
「うん。今日も、君のお母さん、一緒じゃないしね。どうしたのかな」
「レストラン、同じでしょ? 様子を見ていましょうよ」
と、邦也が辻山の肩を叩《たた》く。「あ、うちの母だ。じゃ、後で」
真田伸子が、和服姿でエレベーターを出てくる。
「母さん、もう行く?」
「もちろんよ。今話してたのは?」
何しろ目ざといのだ。
「辻山さんだよ、ほら——」
「房夫さん? へえ。すっかりおっさんね」
と、口が悪い。「ここで食事? いやねえ」
「いいじゃないか。同じテーブルってわけでもないんだし」
「そりゃそうだけど……」
と肩をすくめ、「じゃ、行きましょ」
タッタッとレストランへと歩いて行く。邦也はあわてて母の後を追った。
「和代! 逃げて!」
と、聡子は叫んだ。
和代と辻山が手をとり合って駆け出す。
同時に、機関銃の弾丸が何十発も二人の体へ食い込む。和代と辻山が血だらけになって倒れた。
「辻山さん! 和代!」
と聡子は駆け寄って——。「死なないで!」
パッと起き上がる。
「大丈夫。——大丈夫ですよ」
と、がっしりした手が、聡子の肩を抱いていた。
夢か……。聡子は、汗をかいていた。
「刑事さん」
と、初めて室井刑事に気付く。「ここは、どこ……?」
「病院です」
「病院……。そう。私、あの男に——」
体を動かそうとして、顔をしかめる。
「痛いでしょう。ひどい目に遭ったもんだ」
と、室井は言った。「やったのは?」
「男……。竜、とかいいました」
「やはりね」
と、室井は肯《うなず》いた。
「でも……あの男、死んだんじゃありませんか。あれも夢だったのかしら」
「本当です。竜は殺されていた」
室井は厳しい表情で、「竜は腕ききです。それがアッサリやられている。犯人はよほどの男ですね。見ましたか」
「ええ……。よく憶《おぼ》えていませんけど」
と、聡子は首を振る。
「おそらく、その男も、小田切和代を捜しています。別のルートから頼まれたプロでしょう」
「でも——私を殺さなかったわ」
「だから、プロなんです。余計な殺しはしない」
と、室井は言って、「今、和代がどこか分りますか」
「今……ですか」
「隠すと、和代が危い。あなたは薬を射たれていたんですよ」
「薬?」
「おそらく自白薬。何でも知っていることをしゃべってしまう薬です。もし、和代の居場所をあなたが知っていれば、当然その男はそこへ向かっています」
聡子の顔から血の気がひいた。
「——しゃべった。そうだわ!」
と、叫ぶように、「どうしよう! 早く行って! 〈ホテルF〉です」
「〈ホテルF〉ですね。泊ってるんですか」
「いえ、夕食に。レストランにいるはずです! 〈辻山〉という人と」
「〈辻山〉ですね。ありがとう!」
室井は病室から飛び出して行った。
「ご予約のお名前は……」
と、マネージャーがノートを開く。
「真田です」
と、伸子が言った。
「真田様、お待ち申しておりました」
と、案内してくれる。
邦也はギクリとした。安東と涼子のテーブルのすぐ隣である。
安東がチラッと邦也を見て、笑みを浮かべたが、邦也の方は、笑顔で応えるほどのゆとりはなかった。
「どうぞ」
椅《い》子《す》を引いてくれて、伸子と邦也は、席についた。
「——遅いわね」
と、和代が辻山の方を見る。
「しかし、電話しても誰も出ない。もうこっちへ向かってるんだよ」
と、辻山は言った。
「そうね……」
和代は不安だった。もしも聡子の身に何かあったとしたら……。
辻山は、相手がどんなに怖い連中か、身をもって知っているわけではない。
まさか、とは思うが……。
ガラッと入口の扉が開いて、反射的に三人の目が向く。
「違うか」
と、辻山は言った。「——先に入っていようか。予約の時間をあんまり過ぎると良くないだろ」
「そうだな」
と、辻山勇吉が言った。「レストランも分っとるんだろ。それなら、ちゃんと来るさ」
「じゃ、行ってよう。——洋子。どうしたんだ?」
和代は我に返って、
「いいえ。——行きましょう」
と、立ち上がった。
今、入って来た男……。パッとしない、どうということのない男。
しかし、和代はその男にどこか〓“危険〓”なものをかぎとっていた。——あれは普通の男ではない。
考えすぎだろうか?
三人は、レストランへと歩いて行った。
「——いらっしゃいませ」
と、入口でマネージャーがにこやかに言った。「ご予約のお名前は……」