化粧室に入った涼子は、どこにも小田切和代の姿が見えないのを知って、すぐに出て来た。
「いないわ」
と、涼子は言った。「どこへ行ったのかしら」
邦也は、まだ状況がよくのみ込めずにいる。すると、マネージャーが電話を終えて、
「何かご用ですか?」
と、声をかけて来た。
「あの——女の人が出て行きませんでしたか? あの奥の、さっきテーブルをつけていただいた、あそこに座ってた女の人ですけど」
と、涼子が訊《き》くと、マネージャーはちょっと考えていたが、
「ああ、そういえば。私が電話をしているときに後ろを通って行かれたような気がしますね。たぶんお電話されに出られたんじゃありませんか?」
涼子は、何も言わずに、レストランから出た。——電話ボックス。曇りガラスの扉がついたボックスが四つ並んでいる。
その一つの扉が開いて、安東が出て来た。
「やあ。——どうしたんです?」
と、安東が涼子と邦也を見て言った。
「あの人がいません」
「あの人?」
「トイレにもいません。安東さん、まさか——」
「僕が殺して来た、とでも?」
と、安東は両手を広げて、「そんな時間があるわけないでしょう」
それはそうだ。涼子は、邦也に言った。
「辻山さんを呼んで来て」
「分った」
邦也は大《おお》股《また》にレストランの中へ戻って行く。
「僕を見て逃げたのかもしれない」
と、安東は言った。
「今……どこへ電話を?」
涼子の問いに、安東は返事をせずに、逆に、
「どこへかけたと思いますか?」
と訊いて来たのだった。
ロビーは静かで、人の姿もまばらである。珍しいことだ。都心のホテルは、泊り客でなく、単なる待ち合せの客でたいてい混雑している。しかし、ここは泊り客か、食事に来る客以外、ほとんどロビーへ入って来ないのである。
和代は、名も知らない男にぴったりと身を寄せて、ロビーを横切って行った。フロントの前を通る。
「にこやかに挨《あい》拶《さつ》しな」
と、男が囁《ささや》いた。
「ありがとうございました」
フロントの男性が、出て行こうとする二人に声をかけ、和代も笑顔で会釈した。
「いいぞ」
と、男は言った。「さあ外へ出よう」
しかし——その瞬間、ホテルの正面に、パトカーが着いたのである。
男が舌打ちした。
「何ごとだ?——止まれ」
と、命令して、「回れ右だな」
言われた通りにする他はない。和代は、フロントの向かい側に店を開けているドラッグストアの方へと歩いて行く。フロントの男が、何ごとかとカウンターから出て、正面玄関へと急いだ。
チラッと振り向いた和代は、目を見開いた。——あの刑事、和代が頭を殴りつけた室井が入って来たのである。
「厄介だな」
と、男が呟《つぶや》くと、「ともかく店に入ろう。何気なく見て歩くようなふりをしてろ」
和代は、ドラッグストアへ入った。
たいていどのホテルにもある、薬の他に本や文具などの雑貨を売っている店だ。
「いらっしゃいませ」
と、女店員が言った。「何かお捜しですか?」
「いや、見てるだけだ」
と、男が言った。
和代は、雑誌の棚を眺めながら、どうしたらいいのか迷っていた。
「これはこれは」
と、安東が言った。「ずいぶん手回しがいいじゃないか」
室井刑事が、若い刑事を二人従えてレストランの方へやって来ると、安東と涼子を見て足を止めた。
「安東……。和代はどこだ」
「さあね」
と、安東は肩をすくめた。
「とぼけるな! 誰かが和代を捜しにここに来てるはずだ」
室井は安東をにらんでいる。「あの女にひどいことをしたのは、竜の独断か」
「竜が?——こっちへ来たのか」
「知らんのか。竜は死んだ」
安東の顔がこわばった。
「死んだ……。そうか」
「その誰かがやったんだ。そしてそいつは、和代を見付けにここへ来たはずだ」
「刑事さん」
と、涼子が言った。「和代さん、ここにはいません。姿が見えないんです」
「安東。どういうことだ」
安東が黙っている内に、邦也が辻山を連れて出て来た。
「あ、刑事さん」
と、辻山がギクリとして、「あの——山崎君は大丈夫ですか。ここへ来るはずが……」
「かなりひどい目に遭わされましたがね、大丈夫。和代をかくまってたんですね」
「あの……」
と、辻山が語る。
「今はそんなことはいい。和代がどこにいるかです」
と、室井が言ったときだった。
「誰か!」
と、甲高い女の声が、ロビーに響き渡った。
室井が二人の部下と一緒に駆け出す。涼子たちも、後を追った。
「——止まれ!」
と、男の声がロビーに響く。「こいつの喉《のど》をかっ切るぞ!」
ロビーの床を這《は》うようにして、売店の女性が逃げてくる。
そして、小田切和代を楯《たて》のように前にして、左腕でしっかりかかえ込んだ男は、右手の鋭いナイフを、和代の白い喉にピタリと当てていた。
「——私が、棚を整理しようとして、ぶつかったんです。そしたら……」
と、売店の女性が真青になっている。「ナイフが見えて……。もう怖くて」
「分った。退《さ》がっていなさい」
と、室井が言った。「おい。——その女を離せ」
相手は落ちついていた。
「残念だが、そうはいかないね」
「そのまま逃げる気か」
「悪いかね。表にゃタクシーもある。そうだろう?」
男はジリジリとロビーを玄関の方へ移動していた。
「——和代」
と、辻山が進み出た。
「来ないで」
和代が切迫した口調で、「危いわ、近付かないで」
「何ごとなの?」
騒ぎを聞きつけて、真田伸子がやって来る。「まあ!」
「おい、房夫!」
と、辻山勇吉もやって来ると、「どうしたんだ! あれは洋子さんじゃないか」
「父さん。彼女の名は本当は和代というんだ」
と、辻山は言った。「後で説明する」
——「サメ」は呆《あつ》気《け》にとられていた。
女一人、連れ出せばすむはずだったのに……。何だ、この連中は?
「お願い」
と、和代が言った。「手を出さないで、私だけが死ねばすむことなんです」
「和代……」
辻山は固く拳《こぶし》を握りしめた。
「房夫。あの人は、お前の嫁さんじゃないのか?」
と、辻山勇吉が言った。
「僕の女房さ」
と、辻山は言った。「間違いなく、僕の女房だ」
「そうか」
勇吉は肯《うなず》くと、「サメ」と和代の方へ歩き出したのである。
「父さん!」
「お前は引っ込んどれ」
と、勇吉は言った。「おい、刃物を持ってる兄ちゃん。若いもんを殺しちゃいかん。俺がその女と代ってやる」
「何だと?」
「要は誰か人質がいりゃいいんだろ? じゃ俺がなろうじゃないか」
「やめて下さい」
と、和代が言った。「この人の目当ては私です。危いですから。お義《と》父《う》さん、来ないで下さい」
それを聞いて、勇吉はニヤリと笑った。
「『お義父さん』と呼んでくれたな。それなら、あんたは私の娘だ。娘のために命を賭《か》けるのは親のつとめさ」
勇吉がスタスタ歩いて行く。——室井刑事も、あまりに思いがけない成り行きに、呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「サメ」は、何だか分らない内に、あっさりと女を離してしまっていた。——こいつら、何だ? 狂ってる!
「さ、俺が人質だ」
と、勇吉は、和代を息子の方へ押しやって言った。「ちゃんと、約束は守るぞ」
「サメ」は苦笑した。それから声をあげて笑い出した。——ナイフを持つ右手を見下ろして、
「年寄りを殺す趣味はないんだ」
と言った。「それにしても——間抜けな結末だぜ」
「さ、ナイフを捨てろ」
と、室井が近付くと、「サメ」は、
「刑事に降参する趣味もないんだ」
と、言った。
「おい!」
室井が叫ぶと同時に、「サメ」は自らの喉にナイフの刃を的確に走らせたのである……。
辻山が和代を抱きしめた。——和代が辻山の胸に顔を埋める。
「おい、良かったじゃないか」
と、勇吉がニヤニヤ眺めていると——。
「ちょっと」
と、真田伸子が、勇吉の肩をつついた。
「うん?」
バシッ!——伸子の平手が勇吉の頬《ほお》に鳴った。勇吉が唖《あ》然《ぜん》として、
「何だよ……」
「あんな無茶して! もしあんた、本当に死んでたらどうすんの!」
と、伸子が凄《すご》い剣幕で怒鳴った。
「だって……若いもんよりゃ年寄りの方が——」
「あんたに死なれたら……私だって、困るのよ!」
「困る?」
「そうよ。あんたと再婚できなくなるでしょ! この……この……」
伸子も真赤になっている。そして——何と、勇吉を抱きしめて熱いキスをしたのである。
誰もが呆気に取られて、「中年同士」のラブシーンを見守っていた。そして、勇吉はその後、やや貧血気味になった。
一方、涼子は、ロビーの隅に立っていた安東を見て、歩み寄った。
「あの死んだ男の人は?」
「僕の雇った男です。可《か》哀《わい》そうなことをした」
と、安東は言って苦笑し、「腕ききの殺し屋なのに……。あなたたちには勝てなかった」
「和代さんをどうするんです?」
「さっき電話したんです。和代を狙《ねら》うのはもうやめだ。竜は死んだし、みんな多少不満があっても、納得するでしょう」
「ありがとう!」
涼子は、安東の手を握った。
「さて……。食事の途中だ。戻りますか」
涼子は、室井刑事が和代を促して、ロビーを出て行くのを見ていた。辻山もぴったりとついて行く。きっと、「本物の」夫婦が誕生することになるだろう、と涼子は思った。
邦也がやって来た。汗を拭《ふ》いて、
「どうなるかと思ったよ!」
「どうかな。この三人で食事を続けるというのは」
と、安東が明るい口調で言うと、レストランの方へ歩き出す。
「ね、お袋に僕らのことを話そうか」
と、邦也が言った。
「そうね。今ならいいタイミングかも」
と、涼子が笑ったときだった。
「ミキ!」
と、安東が足を止めた。「何してるんだ?」
「その女ね! 人の男に手を出して!——こうしてやる!」
ミキがパッとバッグを投げ捨て、手にガラスのびんを構えた。ふたをねじ取る。
「やめろ!」
涼子に向かって、硫酸が浴びせられる。よける間はなかった。しかし——とっさに、間に安東が立ちはだかったのだ。
涼子が声を上げた。
硫酸は、安東の右頬《ほお》から、首筋にかけて、白い煙と共に肌を焼いた。安東が呻《うめ》いて、よろける。悲鳴を上げたのは、ミキだった。
「ああ! どうしよう! ごめんなさい! ごめんなさい!」
と、泣き出す。
残っていた若い刑事が駆けつけてくると、ミキの腕をつかんだ。
「待て!」
安東が、叫ぶように言った。「何でもない……。水がかかっただけだ」
「しかし——」
「本人がそう言ってるんだ! 何でもない」
服も焼けただれている。下の肌もひどくなっているに違いない。
「安東さん……」
と、涼子は近寄ろうとして、足を止めた。
「何でもないんです。——ミキは、僕の女ですからね」
刑事が手を離した。ミキは泣きじゃくっている。安東は、ハンカチで顔の半分を覆うと、
「ミキ……。帰ろう」
と、震える肩を抱いた。「じゃ……涼子さん」
「さよなら。——色々と」
他に言葉もなかった。
安東は、泣いているミキの肩を抱いて、いつもの足どりで、ロビーから出て行く。
「——凄い奴だ」
と、邦也が圧倒されて言った。
「そうね……。でも、あなたも凄いわ。私たちのこと、ちゃんとお母さんに話せたら」
「ああ! 話すとも!」
邦也は、深呼吸すると、ロビーのソファで、辻山勇吉と手をとりあっている母親の方へと、力強く歩いて行ったのだった……。