「私、かげのある男が好きなの」
常々、そう宣言していたことを、小泉玲子は、今になって後悔していた。
なぜといって……。今の若い男たちの明るいことと来たら!
どこかに影を置き忘れて来たんじゃないのと、つい足下を覗《のぞ》いてみたくなるくらいだ。
同じ「かげ」でも、意味は違うとはいえ、本当に「影はあれども、かげはなし」という男ばっかり。
よくしゃべる。よく笑う。芸達者といえば聞こえはいいが、要するに「目立ちたがり」で、子供っぽい。
といって「芸」を磨いてプロの世界に、なんてことは、とてもじゃないが、
「面倒くさい!」
それに、TVでも何でも、「素《しろ》人《うと》っぽさ」の受ける時代で、それこそ、歌番組を見ればその辺のカラオケバーでの平均水準よりはるかに低い歌唱力の歌手はいくらも出ているのだ。
黙々と、ひたすら努力するとか、苦しさに堪える、というのは、「もうはやらない」のである。
「ま、そう気を落とすなかれ」
と、小泉玲子の肩をポンと叩《たた》いたのは、同じ会社の同僚で、これは本人も明るい、丸山祐子。
「別にがっかりしちゃいないわよ」
玲子は、強がりを言って、ネオンがまぶしい夜の街をぶらぶらと歩いている。
「分ってんのよ、玲子の気持ちは」
すでに大分アルコールの入った丸山祐子は、少し舌足らずな声で、「今夜の、あの彼のはしゃぎぶりに、がっかりしたんでしょ」
「はしゃぎぶり? あそこまで行くと異常よ!」
つい、口調もきつくなる。
「ま、いいじゃないの。営業向きの人間なのよ、彼は」
「仕事ならいいわよ、いくら明るくたって。でも——真《ま》面《じ》目《め》な話がまるっきりできないってのは、行き過ぎだわ」
腹を立てているのは事実である。
何を言ってもダジャレにして一人で笑っている、彼氏に対しても腹が立ったが、そんな男に、一度は「かげのある男」のイメージを重ねた自分にも、もっと腹が立っていたのだ。
「その内、めぐり会うわよ。玲子の理想の男性にも」
と、祐子は言って、「あ、ここから私、左へ行くんだ。じゃあね」
「ちょっと! 祐子、そっちは地下鉄の方じゃないわよ!」
てっきり、酔って分らないんだと思って、玲子は呼びかけた。
「いいの」
と、歩きかけた祐子は振り向いて、ウインクすると、「この先のホテルで待ち合せ。へへ……。じゃ、気を付けてね!」
鼻歌なんか歌いながら、祐子はバッグを振り回しつつ、歩いて行ってしまう。
——取り残された玲子、何だか一人で馬鹿みたい……。
「勝手にしろって!」
と、呟《つぶや》いて、またぶらぶらと歩きだす。
小泉玲子は二七歳。OL生活も六年目に入った。
断っておかなければならないが、玲子に、恋人ができないわけじゃない。その気になれば、付合いたがっている男性の十人や二十人——は、少しオーバーか。二人や三人、いないことはない。
しかし、いずれも、玲子の、「かげのある男」という基準には遠く外れて、明るい男ばかりなのだ。
ずっと年上の男では、やはり「かげ」だけじゃなくて、「とし」という問題もあるし、といって年下の方は、ひたすらまぶしいほど明るい男の子ばかり。
大体、今の新入社員は、男も女も、入社前から、ちゃんと決まった恋人のいることが多いのである。
「焦《あせ》ることないや」
と、玲子は独り言。「そう! まだ若いんだ! じっくり構えてよう」
その内、きっと……。
今に、いつか……。でも、何年も前からこう言ってんのよね、と心の声が玲子に囁《ささや》きかけるのである。
フラリと見知らぬスナックへ入った時には、もちろん何の予感も、期待もなかった。
アルコールも、明日の仕事のことを考えると、もう控えなきゃ、という気分。ただ、終電までの時間潰《つぶ》しだった。
「コーラちょうだい」
と、カウンターに向って、玲子は言った。
静かな店で、他には二人しか客がいない。
それぞればらばらで、一人はテーブルの席にいて、ウォークマンで何やら聞いている。
ひげをはやした芸術家風で、目をつぶっているのは、聞き惚《ほ》れているのか、眠っているのか、どっちとも判断できなかった。
もう一人は——。
カウンター席の一番奥に、ポツンと座っている。
三十そこそこ、だろうか。少なくとも横顔だけで見れば、なかなかいい男だった。
白っぽいジャケットで、軽く背中を丸めて何を考えているのか、心はここにあらず。
時折、腕時計を見ては、軽くため息をつく。——誰かが来るのを待っているのかしら、と玲子は思った。
少しぬるいコーラで、氷が溶けるのを待っていると、店の戸がカタンと音をたてて開いた。
玲子は、奥の男が、素早く入口の方へ顔を向けるのを見た。そして、すぐにがっかりした表情をあらわにして、視線を戻す……。
やはり、誰かを待っているのだ。
いつの間にか、玲子はその男の横顔から目が離せなくなっていた。そして、男の方も、やがて玲子の視線を感じたらしい。
ふと、男がこっちを見た。——その瞬間、玲子は、背筋がゾクゾクッとした。
こんなことは初めてだ!
いささか自信のある玲子の笑顔も、この時は大分こわばっていたに違いない。
男も、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで見せた。しかし、目は寂《さび》しげで、笑っていない。
玲子はグラスを手に席を下りると、その男の隣の席へと歩いていった。図《ずう》々《ずう》しいと思われるかしら?
「——ここ、かけていい?」
「どうぞ」
と、男が言った。
顔から想像した通りの、よく通る低めの声だった。
玲子は、どう切り出したものかと思った。当り前のセリフじゃ、嫌われるかもしれない。でも、いきなり、
「あなたって、私の好みのタイプなの」
なんてやったら、びっくりしないかしら。
すると、男の方が言った。
「一人?」
ホッとした。月並みのセリフで始まるのが一番いいのかもしれない。
「ええ」
玲子は、そう答えて、相手には同じことを訊《き》かなかった。
彼が誰かを待っているのは、よく分っていたからだ。
「今、何時かな」
と、彼が言った。
「え?」
玲子は少し戸《と》惑《まど》ったが、「——今、十一時を少し過ぎたところよ。腕時計、持ってるのに」
「うん……。何だか時間のたつのが、いやに早かったり遅かったりでね。時計が壊れてるのかと思ったんだ」
と、自分の腕時計をまじまじと眺め、「疑ってごめんよ」
と、言った。
玲子は、ちょっと笑った。彼も、それにつられたように。しかし——彼の目は、再び、カウンターの上に、水で書かれた文字へと向いた。
何と書いてあるのだろう? その字はとぎれとぎれで、よく分らなかったが、しばらく眺めている内に、やっと分った。
〈女〉と書いてあるのだ……。
彼は、深い傷を抱いた者らしい、忍耐強い穏やかさで、
「終電待ちかい」
と、訊いて来た。
「ええ……。会社のお友だちと一緒だったんだけど、彼女はそこで別れて恋人と……。一人でぶらぶらしてたの」
「そうか」
「あなたは——待ってるんでしょ?」
「うん」
彼は肯《うなず》いた。
カウンターの奥で、電話が鳴った。彼はハッと息をのんだ。
「——はい、スナック〈R〉です。——ああ、久しぶりだね……」
違ったか。——彼は軽く息をついて、こわばった筋肉をほぐすように、首を左右にねじったりした。
「もうずいぶん待ってるの?」
「いや……。二時間……ぐらいかな」
二時間も!——そんなに待って来なければ、来るはずがないのに。
玲子は、その男の胸の痛みに反応するように、自分の胸の痛むのを感じた。頬《ほお》が熱くなる。
今、言わなきゃ!——あまりに唐突だろうか? でも、本当の気持ちなのだ。
私、あなたのような人をずっと待っていたの。
これじゃ、芝居じみてるだろうか?
一目見て分ったの。あなたこそ——だめ、これじゃ押しつけがましい。
だけど——嘘《うそ》じゃないんだから。真心から訴えれば、きっと分ってくれる。
言葉じゃないんだわ。心なんだから!
今、言わなかったら、一生悔やむことになるかもしれない。たとえ、
「僕には好きな人がいる」
と、断られたとしても、何も言わずに後悔するよりもいい。
玲子は、心を決めた。彼の方を向いて、
「ねえ——」
と、言いかけた時だった。
店の戸が凄《すご》い勢いで開くと、黒い弾丸みたいに、若い女の子が飛び込んで来た。
「どうした!」
と、男が席からはじけるように飛び下りる。
「お兄ちゃん!」
高校生ぐらいのその女の子は、甲《かん》高《だか》い声で叫んだ。「産まれたよ!」
「産まれた? 本当か! で、元気か?」
「母子、共に、すこぶる健康!」
「そうか! で——どっちだ? 男? 女?」
「お兄ちゃんのお望み通り、〈女〉!」
「やった!」
男が、まるで檻《おり》の中の猿みたいに飛びはねた。「やったぞ! 万歳! 女の子だ!」
「早く病院に。お義《ね》姉《え》さんが待ってるよ」
しかし、男の方は、そんな声など耳に入らない様子で、テーブルでウォークマンを聞いていた客を揺さぶり起こすと、
「いや、産まれたんだ! 良かった! ありがとう!——すばらしい!」
と、ギュウギュウ手を握って、相手を呆《あき》れさせた。
「お兄ちゃん!」
「分ってるとも! しかし——じっとしちゃいられないよ。——おい、ここの客、みんな俺《おれ》のおごりだ!」
ポンと千円札を何枚かカウンターに投げ出すと、玲子のことを思い出したのか、
「君! 待ったかいがあったよ。人生はすばらしい!」
と言ってから、玲子の頬にチュッとキスした。
「もう! お兄ちゃんたら、みっともないなあ! 少し落ち着いてよ」
妹に怒られて、やっと、
「今、行くよ。しかし——女の子か! 畜生、誰が嫁になんかやるもんか!」
「いいから早く……。お騒がせしました」
と、女の子は、男を先に押し出しながら頭を下げた。
男が高らかに歌う、『幸せなら手をたたこう』の調子外れな歌声が、しばらくは聞こえていた……。
「——明るい奴だな」
と、ウォークマンの男が、外れてしまったイヤホンを、また耳の中へ押し込みながら言った。
玲子は……。彼にキスされた頬に、そっと手を当てた。
何だか……夢から覚めて、まだ、半分まどろんでいるような気分だった。
かげのある男?——そんなもの、ただの幻なのかしら。
「どうかしましたか?」
と、店の男に訊かれて、玲子は我に返り、
「いいえ、別に」
お金を払おうとして、あの男がおごりだと言ったから、と断られ、そのまま店を出た。
——何て短い恋。
玲子はちょっと笑って、夜空を見上げた。
これが——坂上家に赤ちゃんが誕生した日に起こった、ちょっとしたドラマである。
もちろん、坂上家の人々は幸せに包まれていたのだが、そのかげには、わずかばかりの涙もあったのだ。
さて、それでは、坂上家の日々へと目を転ずることにしよう……。