「ねえ、見て、ほら」
と、友だちの一人がつっついた。
少しぼんやりしていた美由紀は、我に返って、
「え? なに?」
と、振り向く。
何しろ電車はかなりの混雑である。電車の中がこみあっていても、学生が多いと、そう殺《さつ》伐《ばつ》としたムードにならずにすむ。
しかし、この電車は勤め人が多いので、時にはあちこちで喧《けん》嘩《か》も始まる。ただ、今友だちが美由紀をつついたのは、喧嘩が始まったからではなかった。
「また乗ってるよ」
「本当だ。よくやるわねえ」
美由紀はいつも大体同じグループで、この電車に乗っている。五人か六人だから、おしゃべりを始めりゃ、いともにぎやかではあるのだ。
友だちが、「また乗ってる」と言ったのは、いつもではないが、まあ三日に一度くらいの割で、よくこの電車に乗って来る親子連れだった。——「親子連れ」といえば、別にどうってことはないようだが、この場合の取り合せは少々変わっていて、「父と子供」。それも、「赤ん坊」なのだった。
赤ん坊は、まあせいぜい一つかそこいら。父親は、サラリーマンらしく、ちゃんと背広にネクタイのスタイルである。それで、リュックみたいなのを前にかついで、子供を抱っこしているのだから、いやでも目立っている……。
「——何かいやねえ。もう、生活の疲れがにじみ出ていて」
と、一人の子が言った。
「奥さんに逃げられたのかね」
「そうよ、きっと」
なんて、勝手なことを言い合っている。
もちろん、みんな本気でそう思ったり、馬鹿にしているわけではなく、何もすることのない電車の中で、ただ時間潰《つぶ》しのおしゃべりの種にしているだけのことなのである。
美由紀は、あまりその話に加わらなかったが、確かにその男が人目をひくのはしょうがない、と思った。
よく見れば、せいぜい三十歳というところなのだろうが、印象は四十——それも四十代の後半といってもおかしくない。顔立ちや、体つきではなく、寝ぐせのついて、ピョコンと立った後頭部の髪の毛とか、しわになったまま、アイロンもかけていないズボンとか……。
そんなものが、「老けてる」という印象を与えているのだ。
「あれじゃ、逃げたくなるわよ」
と、一人の子が言った。
「逃げられたから、ああなったんじゃないの?」
「言えてる」
——その男は、もう人に見られることなんか、慣れっこなのだろう。ただ、吊《つ》り革につかまって、眠そうな目で窓の外を眺めている。
すると——何が原因だったのか、急にその赤ちゃんが、ワーッと凄《すご》い声で泣き出したのである。
「こんにちは」
ベランダで洗濯物を干していたエリは、いきなり義妹の美由紀がヒョイと顔を出したので、びっくりして、
「キャッ!」
と、声を上げてしまった。「ああ、びっくりした! 美由紀さん、いつ来たの?」
「ごめんなさい。チャイム鳴らしたんだけど、誰も出ないから勝手に入って来ちゃったの」
「あら、ごめんなさい。ここにいると聞こえないのよね」
と、エリは笑って言った。「すぐ終わるから何か冷蔵庫から出して飲んでて」
「いいわ、別に。手伝いましょうか」
「何言ってるのよ。——珍しいじゃない。学校、早く帰れたの?」
「今日はテストで半日」
「あら、ご苦労様。——これでよし、と」
軽く息をついて、エリは中へ入った。
「亜紀ちゃん、この間熱出したんですって?」
と、美由紀は居間に入って、言った。
「そうなの。夜中にね。大変だったわ。二人して、大騒ぎ」
エリは、台所へ入って行って、「——紅茶飲む?」
と、声をかけた……。
美由紀は一七歳。エリは二八だから、一回り近く離れている。しかし、もともと妹がいるエリは、美由紀のことが本当の妹のように思えるのだ。
カラッとして明るく、まあいかにも「別世代の人間」ではあるけれど、何となくエリとは気が合った。
「——亜紀ちゃんは?」
「今、寝てるわ」
と、エリは言った。「本当に、静かな時間なんて、ほとんどないんだから」
紅茶を飲みながら、美由紀は、
「はたで見てる方が可愛いね、赤ちゃんって」
と、言って笑った。
セーラー服の美由紀を見ていると、同じような制服だったエリは、つい昔のことを思い出す。まるで、ついこの間のことのようだ。
「——それで、結局、大丈夫だったの?」
と、美由紀が訊いた。
「ああ、熱出した時のこと? そうね。日曜日だし、夜中だし……。もう近くの先生に片っ端から電話をかけまくったわ。でも、今のお医者さんって、時間外には電話も出てくれない人が多いのよね」
「そんなもんなの?」
「もちろん、お医者さんの立場にしてみりゃ分るけど。——結局、やっと捕まえた女医さんにあれこれ説明してね」
「診《み》てくれたの?」
「それが——」
と、エリは思い出して笑ってしまった。「その女医さんがね、『ぐったりして元気がないようなら、連れて来てください』っておっしゃったの。で、『すぐに連れて行きます!』って、勝之さんが……。それで——ヒョイと見たら、いないじゃないの、亜紀ちゃんが。あれっと思って、居間を覗《のぞ》いたら……。あの子、マガジンラックの雑誌を次から次に引っ張り出してたの」
「へえ、面白い!」
「もう、勝之さんがあわてて、もう一度女医さんの所へ電話してね、『元気はいいようです』って。——汗かいちゃったわ」
「その女医さん、怒ってた?」
「よくあるんですよ、って笑ってたって。——本当に、後になると笑い話だけど、その時は、大変な病気だったらどうしようとか、悪いことばっかり考えちゃうのよね」
美由紀は肯いて、
「なかなか大変なんだ、子育てって」
「そりゃそうよ。美由紀さんはまだ縁がないでしょうけどね」
「あったら大変。——でもね」
と、美由紀は立って、畳の部屋でスヤスヤ眠っている亜紀子を見に行きながら、言った。「あ、よく寝てる……」
「もう起こしてもいいわよ。大分眠ったから、ご機嫌悪くはならないと思うから」
と、エリは言った。
「そう? でも、可《か》哀《わい》そうじゃない。せっかくおやすみなのに、さ」
美由紀が、亜紀子の小っちゃな手にそっと人さし指の先を当てると、亜紀子がギュッとその指を握った。
「へえ、結構力もちだ」
「そうでしょ? そうやって、ギュッとしがみつかないと、生きていけないのかもしれないなあ、なんて思うことがあるわ」
「やっぱり不安なんだろうね」
美由紀は、まじまじと亜紀子の顔を見ながら、言った。「私——末っ子でしょ。だから、赤ちゃんって、苦手だったんだ」
「そう?」
「だって、見たことないじゃない。扱い方も分んないしね。それに、好きじゃなかった。うるさいし、言うこと聞かないし」
「そりゃそうね」
と、エリは笑って、「正直言えば、私もよ。あんまり子供好きじゃなかったの」
「へえ、そうなの」
「勝之さんと結婚しても、子供なしでやって行こうかな、と思ったりもしたけど……。でも、やっぱりできてみればね」
「可《か》愛《わい》い?」
と訊いて、美由紀は照れたように、「野《や》暮《ぼ》な質問だったか」
「そりゃ手間はかかるわよ。でも、お人形のように手のかからない子だったら——そんな子はいないでしょうけどね。きっと、こんなに可愛いと思わないでしょうね。手がかかるから可愛いの。それは何だってそうでしょう」
「そうね。——うちは犬や猫も飼ったことないし、私、何かを手間かけて育てたってこと、ないのよね」
と、美由紀は言った。
「じゃ、亜紀ちゃんで練習してちょうだい」
「そうね。——おい、練習台」
美由紀がちょっと頬《ほお》っぺたをつついてみると、たぶん偶然ではあったのだろうが、亜紀子がギャーッと泣き出した。
「わ! ごめん! ごめんね!」
と、美由紀はあわてて謝ったのだった……。
帰りの電車だった。
クラブのある日は、いつも遅くなる。美由紀は、うまい具合に空席を見付けて、座った。
もちろん朝の電車に比べりゃずっと楽なのだが、それでも座れることはめったにない。
今日はツイてる、と思った。いくら若くたって、疲れる時は疲れるんである。
何だかウトウトしそうになって……。
ワアワア。——赤ちゃんの声みたい。亜紀ちゃんの夢でも見てんのかな、私?
中途半端な気分で、そんなことを考えていると、コツンと、何かが頭に当たった。
「こらこら。だめじゃないか」
目をパチクリさせて、見上げると——あの、朝の電車の「親子連れ」が、立っている。
「ごめんね。この子がそれを投げちまって」
「あら」
膝《ひざ》の上に、おしゃぶりが落っこちていた。
「はい、どうぞ」
と、男の人へ渡して、美由紀は、「どうぞ、座ってください」
と立ち上がった。
「あ、いや、大丈夫。君も運動部で、疲れてるんだろ。座っててくれよ」
「いえ、少しウトウトしてたら、すっかり元気になりました」
とは、いささかオーバーだが、確かに大分楽にはなったので、立つのはいやじゃなかった。
「じゃ……。悪いね」
と、腰をおろすと、フーッと息をつく。
「——朝、よく同じ電車に乗ってますね」
と、美由紀が言うと、その男は顔を赤くして、
「じゃ、君、あの中に? そりゃ知らなかった」
と、照れ笑いをした。
「ここんとこ、見かけませんね」
「この間、これが凄《すご》い勢いで泣いた時、あそこにいた?——それじゃ、分るだろ。もうあの電車には乗りにくくてね。できるだけ、他の電車を使うようにしているんだよ」
「そんなこと、気にしなくていいのに。文句言う人には言わせときゃいいんだわ」
「いや、朝の満員電車の中で、苛《いら》々《いら》してる時に、ギャーギャー泣かれちゃね。そりゃ、いやな顔もしたくなるさ」
「あの時はどうしたんですか?」
「目にゴミか何か入ったらしいんだ。でも、あれだけ泣いたから、涙で流れちゃったんだけどね」
「赤ちゃんは、何か訴えようとしても、泣くしかないんですもの。泣かせてあげなきゃ。ねえ」
それを言うなら、私たちの方がよっぽどうるさいかもしれない、と美由紀は思った。
「君の所、赤ちゃんがいるの?」
「兄の子が、今やっと六か月ぐらい」
「そうか。やっぱり赤ちゃんが身近にいる人でないと、なかなか笑ってすませちゃくれないもんだよ」
みんな、昔は赤ちゃんだったのにね。
この人だって、きっと好きでこんな赤ん坊を、満員電車で連れ歩いているわけじゃないだろう。理由なんか、赤ちゃんにとっては関係ない。
「男の子?」
「うん。今、九か月だ。抱いてるだけでも疲れるよ」
と言いながら、その男は笑った。
いい笑顔だ、と美由紀は思った。
「また、あの電車に乗ったら、お姉ちゃんのこと、思い出して手を振ってよ」
と、美由紀が言うと、赤ちゃんは美由紀の顔を見て、笑った。
「やっぱり可愛い女の子には目がない」
と、男が言ったので、美由紀は吹き出してしまった。
——周囲の人が、何事かと不思議そうに眺めていた。