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ハ長調のポートレート05

时间: 2018-06-29    进入日语论坛
核心提示:無口な男 勝之が、台所へ入って来た。「おい、大丈夫か?」 と、妻のエリへ声をかける。「ええ、大丈夫よ」 と、エリは微《ほ
(单词翻译:双击或拖选)
 無口な男
 
 
 勝之が、台所へ入って来た。
 
「おい、大丈夫か?」
 
 と、妻のエリへ声をかける。
 
「ええ、大丈夫よ」
 
 と、エリは微《ほほ》笑《え》んで、「あなた、いいわよ、あっちにいて」
 
「うん……。もう帰ると思うけどな」
 
 と、勝之は少し低い声になって言った。「悪いな。今日だけだから」
 
「平気よ。——あ、それじゃ、これ、持って行ってくれる?」
 
「うん」
 
「ちょっと亜紀ちゃんの様子をみてくるわ」
 
「分った」
 
 勝之は、おつまみの皿を手に、リビングへ戻って行った。
 
「やあ! ちょうど何かほしかったところだ!」
 
「お前のかみさん、気がきくな」
 
「うちなんか、全然だめだ。さっさと寝ちまうよ」
 
「こっちだってそうさ……」
 
 誰が何をしゃべっているのやら……。
 
 何だか勝之にもよく分らなかった。
 
 ともかく、もう十一時をとっくに回っていて、しかも宴会は一向に終わりそうもなかったのである。
 
「——一度、うちへ遊びに来いよ」
 
 と、会社での昼休み、勝之が言ったのが、ことの始まり。
 
 亜紀子が生まれてからはもちろんのこと、結婚して、新居を構えてから、一度も同僚を呼んだことがない。
 
 それはまあ、たまたまそうなっただけのことで、別に勝之が特に付合いの悪い人間というわけではなかった。
 
「じゃ、週末にでも邪魔するか」
 
「いいとも。歓迎するぜ」
 
「じゃ、俺も」
 
 ——たまたま昼食の席に、同年代か、少し年上の人間がやたら大勢いた。
 
 俺も、俺も、というわけで……。何とこの狭いリビング(といっても、マンションとしてはごく普通の広さだが)に七人も客が入って、身動きもとれない、という感じだった。
 
 せいぜい三人ぐらいのつもりでいた勝之は、さすがにいささか焦《あせ》って、帰ってからエリに恐る恐る、
 
「実はね……」
 
 と、話をしたのだが、
 
「いいじゃないの」
 
 と、エリは明るく笑って、「たまには会社の方もお呼びしないと。私は大丈夫よ。三人でも七人でも同じよ」
 
 
 
 でも、やっぱり——三人と七人じゃ、大分違っていた。
 
 飲む酒の量、ビールの数、おつまみの量……。
 
 エリは、夫がゾロゾロと客を連れて帰って来た七時から——いや、鍋《なべ》物《もの》を軽く食べることにしていたので、その一時間前からずっと台所に立ちっ放しだったのだ。
 
 勝之がいささか気にするのも、当然のことだった。
 
 しかし、酔えば酔うほど、人間は時間の方にも気が回らなくなる。
 
 勝之も飲んではいたが、あまり酔えなかった。
 
「——坂上」
 
 と、二年先輩の同僚が、「お前はいい奥さんを持って幸せだ」
 
 多少ろれつが回らなくなって、「幸せだ」が「しわわせだ」と聞こえたりしている。
 
「うん……」
 
 と、勝之は肯《うなず》いた。
 
 おつまみの皿が、たちまち半分近く空になる。
 
 これじゃ、いくらエリが頑張ってもキリがないな、と勝之は思った。
 
「おい、戸山。お前は飲むといやに静かになるな」
 
 と、誰かが言った。
 
「そうですか」
 
 戸山は、確かに話にもあまり加わらないで、一人、ポツリポツリと飲んでいる。
 
 ——戸山は、しかし、もともと無口な男なのである。
 
 アルコールが入っても、一向に変わらない、というだけだ。
 
 戸山は勝之より二つほど年上のはずで、二八かそこいら。エリと同年齢ぐらいだろう。
 
 しかし、いやに老け込んだ感じで、見た印象は三十代も後半だった。
 
 会社には必ず何人か、「変わり者」という定評のある人間がいて、何かと話の種になるものだが、戸山もその一人だった。
 
 昼休みもたいてい一人でポツンと本など読んでいるし、帰りに一杯、とか誘われても、あまり付合わない。
 
 それに、途中入社で、まだ三年もたたないくらいだった。
 
 今日、こうしてやって来たのは珍しいことだったが、勝之と仕事の上で関係が深い、というせいもあっただろう。
 
 ——勝之は、ふと亜紀子の泣き声を耳にして、
 
「ちょっと失礼」
 
 と、立ち上がった。
 
 ——寝室へ行くと、案の定で、
 
「あら、いいの?」
 
 エリが亜紀子を抱いている。
 
「うん。目を覚ましたのか? やかましいからな」
 
「仕方ないわよ。お酒が入ると、声も大きくなるし」
 
「僕が抱こうか。疲れるだろ」
 
「じゃ……。ちょっとお願い。おつまみは大丈夫?」
 
「うん。まだ充分だ」
 
 と、勝之は言った。
 
 エリは、ベッドに腰をかけて、
 
「ああ、やっと座れた!」
 
 と言って笑った。
 
「いや、大変だな! こんなに大勢来るなんて」
 
「お仕事よ、これも。——ね、一人、ほとんどしゃべらない人がいるのね」
 
「ああ、戸山だろ」
 
 と勝之は肯いた。
 
「戸山さん、っていうの?」
 
「君と同じくらいの年《と》齢《し》だ」
 
「へえ! 老けてる」
 
「だろ?」
 
「奥さんは?」
 
「いない。——いや、結婚して、子供もいたんだけど、病気で奥さんを亡くしてるんだ」
 
「まあ、その年齢で?」
 
「うちの会社へ来た時はもう、やもめで、両親の所から通ってるらしいよ」
 
 もちろん、その辺の話は、社の「情報担当」の女子社員から聞いたのである。
 
「じゃ、割と苦労してるんだ」
 
「そのせいで老けたのかもしれないな」
 
 ——リビングの方から、ワッハッハ、と豪快な笑い声が聞こえて来た。
 
「そろそろ何か用意した方が良さそうね」
 
「しかし、無理をしなくていいぜ」
 
「沢山買い込んどいてよかったわ」
 
 と、エリは言った。「さて、と——」
 
 ベッドから立ち上がったエリが、少しふらついた。勝之はびっくりして、
 
「おい、大丈夫か?」
 
「平気。——平気よ。ちょっとめまいがしただけ」
 
「もういいよ。横になってれば?」
 
「そうもいかないわ。おつまみを出したら、亜紀ちゃんを寝かしつけるから」
 
「うん……。しかし、寝るかな」
 
 と、勝之はリビングの騒ぎを聞いて、ため息をついた……。
 
 
 
 エリがリビングへ行くのに、勝之もついて行った。どうせ亜紀子もすっかり目が覚めてしまっている。
 
「——あら、すみません」
 
 と、エリが空の皿を手に取って、「すぐ何かお持ちしますね」
 
「や、奥さん、どうもすみませんね!」
 
「すっかり楽しんでおります!」
 
「どうぞごゆっくり」
 
 と、エリは笑顔で言った。
 
「じゃ、すみませんが、もう少し酒を——」
 
「はい。すぐに」
 
 と、エリが台所へ戻ろうとすると、
 
「奥さん」
 
 と、呼んだのは……戸山だった。
 
「はい。何か、お持ちします?」
 
 と、エリは振り向いて言った。
 
「いいえ、もうおやすみになって下さい。我々は失礼します」
 
 ちょっと戸惑いの様子で、他の面々が顔を見合わせた。
 
「でも——いいんですのよ。ゆっくりして下さって」
 
 と、エリは言った。
 
「いや、お顔を拝見すれば分ります。お疲れですよ、かなり。——みんな、もう失礼しよう」
 
「戸山。せっかくあちらが、ああおっしゃってるんだぞ」
 
「我々はここで座って飲んでるだけだ」
 
 と、戸山は言った。「しかし、奥さんは、夕方からずっと台所で立ちづめのはずだ。もうみんな充分飲んだじゃないか」
 
 何となく、しらっとした空気になる。
 
「じゃ、お前だけ帰ったらどうだ?」
 
 と、一人が言った。「俺たちはもう少し、この可愛い奥さんのそばで、楽しんで行く。なあ?」
 
 笑い声が起こった。
 
 すると——戸山が顔を真っ赤にして、突然、
 
「いい加減にしろ!」
 
 と、怒鳴ったのだ。
 
 みんな仰《ぎよう》天《てん》して、目を丸くした。
 
「遠慮ってものを知らないのか、君らは! 赤ちゃんのいる家に上がり込んで、真夜中まで大声で騒いで、それがどんなに迷惑なことか分らないのか!」
 
 誰も言葉が出ない。
 
 勝之も、リビングの入口で亜紀子を抱いて立ったまま、唖《あ》然《ぜん》としていた。
 
 戸山が、こんな風に怒るのを、初めて見たのだ。いや、およそ感情をむき出しにするということのない男なのである。
 
 それが突然こうして怒鳴り出したのだから、びっくりしてしまう。
 
「坂上さん」
 
 戸山は、少し落ち着いた口調になって、勝之の方へ言った。「あなたもあなただ。奥さんが疲れてることぐらい、分らないんですか」
 
「いや……。それはまあ……」
 
「会社の同僚との付合いと、奥さんの体と、どっちが大事なんです? どうして、『家内がもう疲れてるんで、引き取ってくれないか』と言えないんですか」
 
 そう言われると、勝之の方も、返す言葉がない。
 
「——お産の後、一年くらいは、用心しなきゃ。同僚の手前、亭主関白のふりをして見せるなんてことほど、馬鹿げたことはありませんよ。それで奥さんに寝込まれたら、どうするんです」
 
 戸山の言葉は、本心からのものだった。勝之にも、それはよく分った。
 
「——そうだな」
 
 と、勝之は肯いた。「じゃ、すまないけど、これでお開きにしてくれ」
 
 みんなが、何だか酔いも半ばさめてしまった様子で、モソモソと立ち上がった……。
 
 ——玄関へ見送りに出た勝之とエリは、最後に靴をはいている戸山を見ていた。
 
「いや……」
 
 戸山は、少し照れたように、「余計な口を出したようで」
 
「そんなことないです」
 
 と、エリは言った。「優しいんですね」
 
「とんでもない」
 
 戸山は首を振った。「前の会社で——僕は、それで家内を亡くしたんです」
 
「まあ」
 
「同僚の手前、見栄を張って。——お産の後、まだ一か月そこそこの時、大勢引き連れて帰って……。夜中までドンチャン騒ぎをやりましてね」
 
 戸山は目を伏せて、「家内は次の日から熱を出して寝込みました。でも、赤ん坊がいると、無理をして起きますからね。——結局、肺炎になって、呆《あつ》気《け》なく……」
 
「そうだったのか」
 
 勝之は亜紀子を抱いたまま、「——いや、ありがとう。僕の方が悪いことをしたね」
 
「いや、とんでもない。——あんなことで会社をやめるなんて、つまらないですよ。もっとつまらないのは、男の見栄なんてもののために奥さんを病気にすることですね」
 
「よく憶《おぼ》えとくよ」
 
「お気を付けて」
 
 と、エリは言った。
 
 ——みんなが帰って、リビングには、空のコップや使った皿が、山になっている。
 
「片付けるの、明日にするわ」
 
 と、エリは言った。
 
「そうだ。少しぐらい散らかってるのが何だ。病気するよりいい」
 
「じゃ、あなた、これ、全部洗ってくれる?」
 
 エリに言われて、勝之はギョッとした。
 
「ワア」
 
 亜紀子が元気よく手を振り回した。
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