いつもなら、もう少し早い時間にスーパーへやって来るのだった。
エリは乳母車を押しながら、スーパーの入口で、ちょっとためらった。それくらい中は混雑していたのである。
レジを全部開けているのに、凄《すご》い行列ができている。あれじゃ、並ぶだけで三十分はかかりそうだ。
でも、引き延すわけにはいかない。どうしても買わなきゃいけないものも、いくつかあるし……。
仕方なく、エリは乳母車を押して、混雑するスーパーの中へと入って行った。
この辺は、次々に新しいマンションができて、住民も増えているのだが、大きなスーパーマーケットはここしかない。
バスに乗れば、もっと大きなビルになったスーパーもあるが、やはり赤ちゃんなど連れていると、歩いて来られる所へ来てしまうのである。
「静かにしててよ。お願いだからね」
と、エリは、乳母車の中の亜紀子に言った。
「ワア」
分っているのかどうか、亜紀子は今のところは上機嫌である。
やはり赤ん坊だって、外出というのは楽しいものなのだ。色々、珍しいものが見られるし、色んな音や匂《にお》い、犬の鳴き声、車のクラクション……。
もちろん、外だから色々と危ないこともあって、ホコリが飛んで来て目に入ったりすることもあるし、車はビュンビュン飛ばしているし、すれ違ったよその子に物を投げつけられたりすることもあるし……。
でも、たまにギャーギャー泣いても、やっぱり外出する、ってのは楽しいことに違いない。
今日、出て来るのが遅くなったのは、義母が来ていたからである。
前もって分っていれば、昨日の内か、それとも午前中に買物をすませていたのだが、お昼近くになって、何か軽く食べてから買物に出ようかと思っているところへ、突然やって来たのだ。
エリは別に義母としっくりいっていないわけではないが、それでも、せっかく来てくれたのに、
「買物へ行くんで、またにしてください」
とは言えない。
上がり込んだ義母は、もうそれこそ亜紀子を見ていて何時間でも飽《あ》きない、という様子でのんびりしている。おかげで、エリは昼食も抜きで、やたらとお茶ばかりガブガブ飲むはめになってしまった。
孫を可愛がる気持ちというのは、エリにも分るし、ありがたいとも思うのだが、正直、困ってしまった。——結局、
「お義《か》母《あ》さん、すみませんけど、私、スーパーへ行かなきゃならないんで」
と、やっと言い出して、義母は帰ってくれたのだが、エリの言葉に多少ムッとしているのがよく分った。
「そんなこと言ったって……。仕方ないわよねえ」
エリは乳母車の中の亜紀子へ話しかけながら、棚の間を苦労して進んで行った。
何しろ混雑のピークである。しかも、みんな買物用のカゴを下げたり、カートを押しているから、それを縫って乳母車を進めて行くのはひと苦労だ。
「邪《じや》魔《ま》ねえ、もう!」
と、遠慮なく文句を言って、エリをにらむ人もいる。
エリは聞こえないふりをしておくことにした。
確かに、この時間には、小さい赤ん坊を連れての買物は避ける人が多い。エリだっていつもはそうなのだ。でも……。
仕方ない事情があることだってあるんだ。
義母たちと、赤ん坊をかかえたエリたちの生活時間というのは大分違っているのだが、それを分ってくれ、と言うのはなかなかむずかしいことである。
「ちょっと——すみません」
あのジュース……。亜紀ちゃんはあれが大好きだ。天然果汁で、あんまり甘くないし。
「こいつは甘党じゃないんだ。飲んべえになるかな」
なんて、いつもパパが言っている。
でも——棚の前が凄《すご》い人。
何とか人と人の隙《すき》間《ま》に体を横にして押し込もうとしたのだが、乳母車を引いていたのでは、とても無理だ。その棚の前は特に狭くなっていて、人が立っていると、とても乳母車が通れないのである。
困ったわ……。
いつまでもここで待っているわけにはいかないし、それに十分や二十分待ったところで空いて来やしないのである。
仕方ない。棚から必要な品だけ取って来るのに、何分もかかるわけじゃないんだから。
エリは、乳母車を売場の隅へと押して行って、ブレーキをかけておいて、
「ちょっと待っててね。ママ、すぐ戻るからね」
と、亜紀子の頬を、ちょっと指でつついた。
「ワア」
大丈夫。さっきたっぷり眠ったし、出て来る前にオムツもかえたし。
「じゃ、ちょっと持って来るからね」
エリは、急いで人の間を縫って、その棚へと歩いて行った。
「すみません。——ちょっと。失礼します」
手を伸ばして、小さなパックのジュースを取る。そう、それにパパ用のミルクも買っとくんだった。日付は?
古い日付のものほど、手前の方に並べてあるから、奥のものを取った方が。一日で全部飲んでしまうのなら、どれでもいいんだけれど……。
ところで、エリが乳母車を置いて来た所は、少し空いているのだが、商品を運ぶ台車をいつも置いておくところなのだった。
「——失礼します。ちょっと開けてください」
若い女店員が、汗を流しながら、空の台車をガラガラと押して来た。
「これでいいかな……」
両手に紙パックのミルクやら何やら、一杯にかかえて、エリは呟《つぶや》くと、乳母車の方へ急いで戻ろうとした。
ちょうどそのとき、女店員は、いつもの通り、そこが空いていると頭から疑いもしないまま、台車を押して来た。——乳母車? どうしてあんな所に乳母車が?
疲れていたせいで、真っ直ぐ台車を押して行けばどうなるのか、ということまで頭が回らなかったのだ。
エリは人をかき分けて、やっと——。
ガシャン、と音がした。台車は、乳母車に真横からぶつかった。
エリは、乳母車がゆっくりと横に倒れるのを、呆《ぼう》然《ぜん》として見ていた。
亜紀子が、床に投げ出される。
「亜紀ちゃん!」
両手にかかえていたものを全部放り出して、エリは駆け寄った。亜紀子が、スーパー中に響き渡るほどの声で泣き出した……。
エリは、眠っている亜紀子の顔に、自分の顔を、くっつきそうなくらいまでそっと寄せて行った。
——大丈夫。スー、スー、と小さな、でも確かな呼吸をしている。
もう何十回もこうして確かめている。
亜紀子のおでこには、日の丸みたいに消毒液がぬってあった。
夢中で駆け込んだ医者は、
「大したけがじゃない。大丈夫ですよ」
と、笑っていた。
ホッとしたが、でも、やっぱりちゃんと調べた方がいいんじゃないかしら、とかエリは思ったものだ。
でも、亜紀子もじきに泣きやんで、元気そうにしていたので、エリもやっと安心したのだった。
スーパーの方でも大分心配してくれて、台車を押していた若い女店員は、真っ青になって謝ってくれたが、何といっても乳母車を置いておいたのはエリがいけないのだし……。
「何でもなかったんですから」
と、エリはその女店員を慰めたりしてやった。
そして、家へ帰ってから、エリは義母の伝言もあったので、夫の会社へ電話をしたのだった。スーパーでのことも、話をして……。
——亜紀子のそばを離れて、エリは居間へ戻った。
勝之の姿はなかった。お風呂へ入ったらしい。
今夜は、傷口をぬらすといけない、というので、亜紀子をお風呂へ入れなかったのである。
ソファに腰をおろして、エリは考え込んでしまった。
「どうして、ちゃんとついてなかったんだ!」
電話口で怒鳴った勝之の声が、今でも耳の奥で響いていた。
——もちろん、勝之とエリだって、喧《けん》嘩《か》ぐらいしたことはあるが、大体がおっとりした勝之が、あんな風に怒鳴ったのは、初めてのことだった。
エリは、思いがけない勝之の言葉に、返事ができなかったのだ。
確かに、エリがちゃんと乳母車を押していれば、あんなことは起こらなかっただろう。しかし、エリは「そばについていなかった」のではなくて、「ついていられなかった」のだ、ということ——それを勝之は分ってくれると思っていたのだ。
いくら私が子を愛する母親だって、二十四時間、子供のそばにくっついているわけにはいかない。子供は時に思いがけないけがもする。そういうものなのだ。
「——寝てるかい?」
と、勝之がパジャマ姿で、バスタオルで頭を拭きながら、やって来た。
「ええ」
「そうか。検査してもらわなくて大丈夫かな。——いつもの先生に診《み》てもらった方がいいかもしれない」
「そうね」
「何だ。元気ないな」
「あなた」
「何だい?」
「その内、亜紀ちゃんは歩き出すのよ」
「分ってるさ。——何だい突然?」
「私はいつも亜紀ちゃんのことを心配してるわ。亜紀ちゃんがけがするぐらいなら、自分が代わりに痛みだけでももらってあげたいくらい。でも、それでもきっと、亜紀子ちゃんは、転んだり、すりむいたりやけどしたりするわ。いくら私がいても、それを止めるわけにいかないのよ」
勝之も、やっと分ったようだ。
「悪かったよ。——あんな風に怒鳴ったりして」
「いいのよ」
エリは立ち上がって、「お風呂へ入って来るわ」
と、言った。
——エリは、ゆっくりとお風呂に入った。
いつも亜紀子を入れるので、夫と二人で大騒ぎだ。今日は静かである。
ホッとしてもいたが、何だか物足りなくもあった。
——風呂から上がって、バスタオルを体に巻いて居間を覗《のぞ》くと、勝之はいない。
「やっぱり——」
勝之は、亜紀子の寝顔に、じっと見入っているのだった。
「ちゃんと寝てるでしょ」
と、エリは言った。
「うん」
勝之は肯いて、「今、お袋から電話があったんだ」
「お義《か》母《あ》さんから? 亜紀ちゃんのけがのこと——怒ってらしたでしょ」
「いや。悪いことした、って」
「え?」
「つい長居しちゃったから、そんな時間に買物に行くことになって、って。謝っといてくれ、とさ」
「そんなこと……。それまでお義母さんに分ってくれ、って言っても無理よ」
エリは、義母が来ていたせいで、あんな混んだスーパーで買物することになったのだということを、勝之には言わなかったのだ。
エリの方だって、もっとはっきり理由を説明して、早目に買物へ出ることができたかもしれないのだし。
「——別に何ともなさそうだ」
と、勝之は言った。「明日は風呂へ入れよう」
亜紀子はお風呂が大好きなのだ。
「そうね」
エリは微笑んだ。
「怒鳴った分のお詫《わ》びをしよう」
勝之が、エリを抱いてキスをした。
「ちょっと——バスタオルが落ちるじゃないの」
「構やしない」
「ワア」
エリと勝之は、亜紀子が愉快そうに手を振り回しながら、こっちを見ているのに気が付いて、あわてて離れたのだった……。