その日は珍しく、坂上勝之は、ほとんど一日中仕事で外出していた。
もちろん、外出が珍しいというわけではなかったが、こんな風に一日中ほとんど出っ放し、ということは珍しい。
昼食も外出の途中、レストランと喫茶を兼ねた、小さな店で済ませた。十二時ちょうどに昼食、というわけにはいかないが、少しぐらいのんびりしてもいいだろう。
次の訪問先まではすぐ近くだし、向こうはまだ昼休みだ。
勝之がコーヒーを頼んで、週刊誌などめくっていると、隣の席に親子連れが座った。
女の子で、たぶん三つぐらいか。母親が一緒だったが、こちらは少し老けて見える。
二人でスパゲッティを頼んで、いかにも楽しそうだった。
実際、自分に子供が産まれてからというもの、勝之は、町を歩いていても、小さな子供——特に女の子が目に付いて仕方がなかった。
三つ四つともなると、外出着は結構おしゃれで、大人並みに凝《こ》ったデザインの物も珍しくない。勝之も、デパートで子供服など見たりして、大人の服より高かったりするのに、目を丸くしていた。
今から、亜紀子の服のための貯金でもしておいた方がいいかもしれない。
もちろん、子供にそんな高い服を着せて、と顔をしかめる人もいるだろうが、父親として、我が娘に可《か》愛《わい》い格好をさせてやりたい、と思うのも、また当然の感情だろう。
隣の席の女の子も、なかなか可愛い顔をしていた。——ま、うちの亜紀子ほどじゃないけどな、なんて考えたりして……。
まだ一つにもならない子を比較したって意味がないだろうが、親ってのは、そんなものである。
コーヒーを飲み終えて、そろそろ出ようかと思っていると、その女の子の所に、アイスクリームが来た。
母親が言った。
「仕方ないわね。溶けちゃうから、先に食べなさい」
女の子が、ウンと肯いて、早速スプーンを手に取る。母親が、
「でも、ちゃんとスパゲッティも食べるのよ、分った?」
なんて言っても、耳には入らない。
その子の、アイスクリームの食べっぷりがあんまりみごとなので、勝之は思わず笑顔になって眺めていた。——すると、女の子が勝之の方を見た。
二人して笑顔を見交わすと、女の子が、
「少しあげようか?」
と、言った。
「まあ、何言ってるの!」
と、母親があわてて言った。「すみません、失礼なことを——」
「いえいえ」
勝之が笑いながら言った。「僕の方が、きっとものほしそうな顔をしてたんでしょう」
勝之は伝票を手に立ち上がって、
「バイバイ」
と、女の子に手を振った。
女の子は口のまわりをアイスクリームで真っ白にしながら、手を振って答えてくれた。
——勝之は、店を出ようとして、何となくエリの声が聞きたくなった。もちろん亜紀子の声も……。でも、まだ電話に出て話はしてくれない。
もちろん今の女の子を見たせいだろう。急いで店の公衆電話で家へかけてみた。
「——はい、坂上です」
「僕だよ」
「あら、どうしたの?」
「いや……。用事じゃないんだけど、今、外を歩いててね。ちょっと声を聞きたくなったもんだから」
「まあ、さぼってていいの? 私より、亜紀ちゃんの声を聞きたかったんじゃないの?」
と、エリは笑っている。
「両方だな」
「残念ながら、さっき眠ったところよ」
「そうか。——じゃ、うちのお姫様によろしく言ってくれ」
「はいはい。今夜は早く帰れるんでしょ?」
「たぶんね」
「あら、誰か来たみたい。それじゃあ」
向こうで、玄関のチャイムが鳴っているのが聞こえた。
「うん。じゃ——」
電話は切れた。勝之は、肩をすくめて受話器を置くと、さて仕事だ、と自分に向かって呟《つぶや》いた。
「——よく分ったわねえ」
エリは、座《ざ》布《ぶ》団《とん》を出しながら言った。
夫の電話を切って出てみると、学校時代の友だちが訪ねて来たところだったのだ。
「この近くに来たの。住所で捜し当てるのは上《う》手《ま》いもんよ。仕事柄ね」
と、フリーのライターをしている古川恵子は言った。「これがエリのスイートホームか」
「大してスイートじゃないけれどね」
と、エリは笑って、「コーヒー?」
「お願い。——旦那は毎晩遅いの?」
「普通じゃない? たまには早く、たまには遅く……」
「——あ、それが亜紀子ちゃんか。亜紀子ちゃんだったわよね」
「そうよ」
「へえ。——エリとあんまり似てない。ま、こんなに小ちゃくちゃね。よく寝てるじゃないの」
「それが商売だもの」
ちょうどコーヒーを淹《い》れたところだった。カップへ注いで出し、
「元気そうね」
「そう? こっちは亜紀子ちゃんと違って、寝ないのが商売でしょ。応《こた》えるわよ、寝不足って。肌は荒れて来るし……」
古川恵子は独身で、一人住い。張り切り屋で、昔から、よくクラブの用事などで駆け回っていたものだ。
恵子がフリーのライターと聞くと、たいていの旧友が、あまりにイメージがぴったりすぎる、といって笑うのである。
「昨日も寝たのが朝の五時。八時から打合せが入ってるっていうのにさ」
「大変ねえ」
「ま、好きでやってんだから……。ね、灰皿ある?」
恵子はバッグからタバコとライターを出して、言った。
「あ、ごめんなさい。出して来るわ」
「悪いわね」
——エリも勝之もタバコを喫《す》わないので、つい灰皿を出すのを忘れてしまう。もちろん来客用に、用意はしてあるのだが、言われないと気付かないものである。
「はい。洒《しや》落《れ》たのはないけどね」
「どうも。——お宅、旦那も喫わないんだっけ?」
と、火を点《つ》けながら訊《き》く。
「うん」
「そうか。——いいね。やめたいんだけど、私も。でも、何となく間がもてなくってね」
「らしいわね」
よく、タバコの好きな人はそう言う。
エリはチラッと亜紀子の方へ目をやった。
奥の部屋へ寝かせとくんだったわ、と思った。タバコの煙や匂いに、亜紀子は慣れていないからだ。もちろん、それで目を覚ますってことはないだろうが……。
「ここんとこ、ひと月ばかり男と暮らしてんの」
と、恵子が言った。
「へえ。どんな人?」
まるで知らなかったエリは——もちろん知っているはずがないのだが——目を見開いて、身を乗り出した。
「——今から社へ戻る。——うん。何か電話は?——分った」
勝之は、用事を済ませて、会社へ電話を入れると、地下鉄の駅へと歩き出した。
やれやれ……。会社へ帰って、何か厄《やつ》介《かい》な仕事でもたまってなきゃいいけどな。
何となく、早く帰って、エリや亜紀子の顔を見たい、と思う日がある。特別な理由はなくても。
地下鉄の駅へ下りる階段のところで、勝之は、おや、と思った。
あの母親と女の子——さっきレストランで会った二人だ。
買物をした帰りらしい。母親の方は左手に紙袋を二つ下げ、右手に女の子の手をひいて、大分息を切らして、階段を下りて行くところだった。
女の子の方が勝之のことを憶《おぼ》えていたらしい。顔を見てニッコリ笑うと、手を振った。
勝之も思わず手を振って見せて——その親子から、少し遅れて、階段を下りて行く。
改札口まで、五十メートルほどの地下通路を通る。通勤時間帯というわけでもないのに、結構な人出だった。
勝之は、小銭を用意して、手の中で確かめながら歩いていた。すると——。
少し前を行く、あの女の子が、突然ワーッと泣き出したのだ。
母親がびっくりして、
「どうした?——何?——ほら、泣いてちゃ分らないでしょ!」
と、声をかけるが、女の子の方はただ泣き叫ぶばかり。
勝之は急いで駆けて行くと、
「どうしました?」
「あ——いえ、あの——何だか急に泣き出して」
と、母親の方はオロオロしている。
「目がどうかしたみたいだな。——どうしたの?」
かがみ込んだ勝之は、目を押さえて泣いている女の子の手を外させた。
目のふち、すれすれのところが、赤くなっている。
「ぶつけたの? でも、何も……」
母親は戸惑って、ハンカチでその赤いところを拭こうとした。女の子は、痛むのか、母親の手を振り払って泣いている。
勝之はハッとした。この親子と、ちょっと前にすれ違った男がいる。
「そうか。——ちょっと失礼」
勝之は、通路を駆け戻って行くと、階段を上りかけたその男の肩をつかんだ。
「ちょっと、君!」
「——何か?」
勝之より大分年上のサラリーマンだった。いぶかしげに勝之をジロッと眺める。
「そのタバコですよ」
男は、火のついたタバコを、だらりと下げた右手に持って歩いていたのだ。火のついた方を、外側へ突き出すようにして。
「これが何だよ。禁煙じゃないぜ、ここは」
「今、すれ違った子供の顔にタバコが当たったんですよ。危うく目をやられるところだ」
「そっちが気を付けてりゃいいんだ」
「何だって?」
相手の態度に、勝之は頭に来た。「子供は顔にやけどしたんだぞ。謝って来い!」
「うるせえな。そんなヒマ人じゃねえよ」
さっさと行ってしまおうとする、その男の手から、勝之は思わずタバコを叩《たた》き落としていた。
「何するんだ!」
と、相手は真っ赤になって勝之に詰め寄って来た。
「——ただいま」
勝之が帰ったのは、夜の九時過ぎだった。
「どうしたの?」
と、エリが急いで出て来る。「心配したわよ。電話もないし……」
「うん……。ちょっと」
勝之は、頭を振って、「変わりなかったか?」
「ええ……。タバコがね——」
「何だって?」
勝之はびっくりした。「僕もタバコのせいで遅くなったんだ」
二人はキョトンとして、顔を見合わせていた。
——寛《くつろ》いだ勝之が、地下鉄の駅での出来事を話すと、エリは肯いて、
「それで喧《けん》嘩《か》に? 警察へ連れて行かれたの?」
「いや、そこまではいかなかった。ただ、駅員が駆けつけて来たんで、却《かえ》ってややこしくなってね」
「私の方は昔の友だちが訪ねて来てくれたのよ」
と、エリは言った……。
話は楽しかった。しかし、恵子はエリの知っていたころからは想像もつかないほどの、チェーンスモーカーになっていた。
無意識なのだろうが、次から次へと灰皿へタバコを押し潰し、新しい一本に火を点ける。部屋は煙だらけになってしまった……。
「——どうりで匂うよ」
と、勝之は言った。
「恵子に悪いけど、おしまいには、もう話なんか聞いてられないの。亜紀ちゃんが喉《のど》をやられやしないかと思って。——オムツを見なきゃ、と言って連れ出しちゃったわ。そしたら目を覚まして泣き出したんで、恵子も帰ったんだけど……」
勝之は肯いた。
「あの男だって、喫わずにいられないのなら喫ったっていいさ。でも、火の点いた方を自分の方へ向けて持つとか、それぐらいのことはしなきゃな。——ちょうど子供の目の高さに来るんだから」
「私も、言おうかと思ったんだけど……。でも、なかなか言いにくいもんよ」
「分るよ」
勝之は息をついて、「腹が空いたな」
「今、お魚を焼くわ」
「その煙の匂いなら、いくらでも吸っていたいけどな」
と、勝之が言ったとたん、お腹《なか》の方がグーッと悲鳴を上げたのだった。