亭主は元気で留守がいい、とかよく言うものだが……。
この坂上家では、まだ幸いそこまで亭主は邪《じや》魔《ま》者《もの》扱いされてはいない。現にこの日も土曜日だったが、夫の勝之は出張中。
明日の夜にならないと帰って来ないので、妻のエリとしては、
「早く帰って来てくれないかしら……」
と、思わず呟《つぶや》いたのだった。「明日の夜には食べないと、あの煮物、いたんで捨てなきゃいけないのよね。もったいない……」
ま、理由はどうあれ、早く帰って来てほしいには違いないのだ。
もちろん、エリも、赤ん坊の亜紀と二人でテレビを見ていても、
「ねえ、私はあっちの男優の方が好みだけどな。亜紀ちゃんはどう?」
とか話し合うわけにはいかない。
至って退屈——といっては、夫に悪いような気もする。もちろん、亜紀ちゃんの世話だけだって結構忙しいのだ。
「明日あたり、おじいちゃんの所にでも遊びに行きましょうか」
このところ、エリが風邪を引いたり、亜紀子が鼻風邪を引いたりで、あんまり孫の顔を見せに行っていない。——遠回しではあるが、勝之の会社へ、
「亜紀ちゃんは元気か」
なんて電話が入っているのだという。
私も、亜紀ちゃんがお嫁に行って、孫が産まれたりしたら、
「たまには見せに連れてらっしゃい」
てな電話を入れたりするのかしら?
いささか気の早いことを考えていると、電話が鳴り出した。
「ワア」
亜紀子は、電話の音が大好きという、ちょっと変わった趣味(?)を持っている。
「パパからかな? パパなら、亜紀ちゃんの声を聞かせてあげなきゃね」
「ワア」
エリは受話器を取った。
「坂上です。——もしもし?」
少し間があってから、
「あの……美由紀」
勝之の妹の美由紀からである。
「あら、どうしたの? 声が近いわね」
「すぐ近くなの。——行ってもいい?」
「もちろんよ。勝之さん、いないけど」
「知ってる。じゃ、突然で悪いけど」
「何言ってるの。晩ご飯は? まだ? じゃ用意しとくわ」
——何だか変ね、様子が、とエリは思った。美由紀はいつも、もっと明るくてカラッとしているのだ。
何かあったのかしら。
まあ、いくらしっかりしているとはいえ、美由紀も一七歳の高校生だ。子供と大人の中間にいる。難しい年代である。
いつも、エリには力になってくれる、可《か》愛《わい》い義妹なのだ。
何でも困ったことがあったら、相談にのってあげよう、とエリは思った。
確かに、美由紀は悩みを抱えているらしかった。
しかし——エリが用意した晩ご飯をすっかりきれいに平らげてしまうその食欲は、悩みには影響されていない様子だった……。
ただエリとしては、美由紀に、
「どうしたの? 食欲ないじゃない」
とは訊けなくなってしまったのである。
「お義《ね》姉《え》さんに相談があって」
食事がすんだら、美由紀の方から言い出した。
「何なの?」
「子供のこと」
「子供って?」
「産もうかどうしようかって迷ってるの」
エリは、一瞬焦《あせ》った。
「あ、あの——美由紀ちゃん、じゃ、あなた今、その——」
「今の話じゃないわよ。将来のこと」
エリは、胸を撫《な》でおろした。
「ああびっくりした!——将来ったって、何か月後ってことはないんでしょうね」
「まさか」
と、美由紀は笑って言った。「それだったら、もっと深刻な顔してる」
「そうね……。じゃ、どうしてそんな先のことを悩んでるの?」
「うん」
と、美由紀はお茶を一口飲んで、「今、付合ってる子がいるの」
それは不自然ではない。何といっても、美由紀は可愛いのだ。
「それで?」
「その子がね、『僕は絶対に子供なんかいらない』って」
「へえ」
「いつもそれで喧《けん》嘩《か》になっちゃうの。このままじゃ、決裂だわ」
と、結構、美由紀にとっては深刻らしい。
「どうしてそんなことで喧嘩になるの?」
と、エリはまた心配になってきた。「あなたとその子、そんなことまで具体的に話し合ってるってことは……。やっぱりそういう仲なの?」
「え?」
美由紀は、しばしキョトンとした顔でエリを見ていたが、やがて、「ハハハ」
と、元気良く声を上げて笑い出した。
つられて亜紀子までが、手を叩《たた》きながら笑っている。
「——何がおかしいの?」
と、エリがややムッとすると、
「ごめん! だって——私の説明が悪かったわね。付合ってる、っていっても、私が、じゃなくて、友だちが、なの」
「ええ?」
「グループで会って、ハンバーガー食べたりしてるのよ。でもね、私の友だちと、その男の子は、割と本気で付合ってて、ちょっと特別って感じなのよね」
「何だ、美由紀ちゃんの話じゃないのか」
心臓に悪いわ、とエリは思った。
「私の恋人のことだったら、もっと前から、お義姉さんに紹介して見てもらうわよ」
「楽しみにしてるわ」
と、エリは言った。「で、その男の子は子供が嫌《きら》いなの?」
「何か馬鹿みたいでしょ? 高校生のくせに、そんなことで喧嘩するなんて」
「そうね。ま、大人になりゃ、意見も変わるかもしれないし」
「でも、凄《すご》く真面目な子なの、二人とも。だから、喧嘩になっちゃうのよ」
美由紀はため息をついて、「いつも、間に入ってなだめる役で、疲れちゃった! たまには入られる役回りになりたい」
と、言った。
「子供、好きだよ」
と、その男の子は真剣に言うのだった。「僕の兄のところにも姉のところにも子供がいるけど、うちの親《おや》父《じ》やお袋、つまり、おじいちゃん、おばあちゃんより、よっぽど僕の方になついているんだ」
「じゃ、面倒みることもあるの?」
「年中だよ。楽なもんだから、僕に押し付けちゃ、買物とかに出かけちゃうんだ」
「へえ」
と、美由紀は感心して、「じゃ、そんなに子供が好きなくせに、どうして自分の子供はいらないの?」
「今の世の中に産まれて、幸せになれると思うかい? 三つのころから幼稚園や学校の受験まで予備校があってさ、大学まで行ったって、別にどうってこともない。——世界は核兵器や原発の事故でいつ滅びるか分らない。世界からどんどん緑がなくなって、気象が変わり、食糧危機が来るかもしれない。大地震で日本の経済なんてたちまち崩壊しちゃうかもしれない。エイズの患者は増える一方だし、野菜は農薬で汚《お》染《せん》されている。しかも、こんな世の中に、政治家は何をしてるかっていえば、金集めと権力争いだよ。こんな世の中に子供を産んだら、それこそ子供に対して申し訳ないじゃないか」
「——なるほどね」
エリは感心した。「そういうことを真剣に考えてる高校生もいるのね」
「真剣すぎる、って私は思うんだけど」
と、美由紀は言った。
「そうねえ」
——確かに、エリも新聞だのテレビだの見ていて、亜紀ちゃんが大きくなるころ、世界は存在してるのかしら、なんて考えることがないではない。
特に高校生ぐらいのころには、そういう「危機意識」が先に立つ、ということもあるだろう。
「まあ、その子が間違ってる、とは言えないしね……。大人になれば、ものを見る目も変わるわよ」
「そうかなあ」
「しょうがない、と諦《あきら》めるんじゃなくて、だったら、どうしたらこの子を守れるかしら、っていう風に考えることもできるんじゃないの。本当に子供がいたら、そう考えると思うけどなあ」
と、エリは言った。
「ワア」
「ハハ、亜紀ちゃんも賛成してる」
と、美由紀は笑った。
次の日——日曜日のお昼ごろ、また美由紀から電話がかかって来た。
「お客を一人連れてっていい?」
「いいけど……。どなた?」
「すぐ行く」
と、美由紀は電話を切った。
亜紀子が眠っているので、起きてしまわないように、エリは玄関のドアを開けて待っていた。
「——ごめんね、突然。ほら、私のお義姉さん」
美由紀が紹介した男の子を見て、エリはすぐに昨日の話に出た「真面目すぎる子」だな、と思った。
居間へ通して、お茶など出してやると、
「いただきます」
と、礼儀正しい。
まあ、美由紀の好みじゃないとしても、女の子によってはこういうタイプに憧《あこが》れる子も少なくないだろうと思える。なかなか端正な美少年、という雰《ふん》囲《い》気《き》なのである。
「——ね、この子、お義姉さんのこと話したら、ぜひ亜紀ちゃんに会いたいんだって。一目惚《ぼ》れする恐れはあるけどさ、会わせてやってよ」
と、美由紀は愉快そうに言った。
「いいけど……。子供は慣れてるんでしょ?」
「そのつもりです」
と、少年は言った。
もちろん、背丈ももうエリより高いし、大人並みの体格だが、変にませた感じがしないので爽《さわ》やかだった。
「今、眠ってるの。そろそろ起きるかもしれないけど——」
と、言いかけると、いいタイミングで亜紀子が泣き出した。「やっぱりだわ」
エリが立って、亜紀子を寝かせた奥の部屋の方へ駆《か》けて行こうとしたが——。
エリは足を止めて、振り向くと、
「ねえ、あなた、亜紀ちゃんを抱っこしてあげてよ」
「僕がですか」
「ええ、慣れた人なら大丈夫でしょ」
少年は、エリについて奥へ入って行くと、布団の上で、顔を真っ赤にして泣いている亜紀子の方へそっとかがみ込んで覗《のぞ》いていた。
ヒョイと抱き上げ、腕の中にスッポリはめ込むように抱く、その手つきは、全く不安がない。亜紀子はすぐに泣きやんで、不思議そうにその少年を眺めていた。
「——可《か》愛《わい》いなあ」
と、少年がため息をついた。
「へえ、上手なんだ」
と、覗いた美由紀が目をみはっている。
「でもねえ」
と、エリは言った。「赤ん坊をそうやって抱っこしてる、って、とても不自由でしょ」
「不自由……ですか」
「そう。両手が使えないし、一人なら走って間に合うバスも、赤ちゃん抱いちゃ走れないものね。何かと不便だし、厄《やつ》介《かい》よ。——でも、抱いてる時はそんなこと感じないでしょ?」
「ええ」
少年は肯《うなず》いた。
それから、亜紀子をエリに渡して、
「ありがとうございました」
と、少年は頭を下げた。
「いいえ。——何かお役に立った?」
少年は、ちょっと照れたように、
「ええ」
と、微《ほほ》笑《え》んで言った。「厄介なことを抱えてるから、人間って大人になるんだな、と思ったんです。まるきり独《ひと》りで自由だったら、本当の難しさって分らないんじゃないかな、って……。失礼します、僕」
「そうあわてなくても——」
「あいつと仲直りしなきゃ」
そう言って、少年は帰って行った。
「——気持ちのいい子ね」
と、エリは言った。
「今時の若いのも、捨てたものじゃないでしょ?」
美由紀がそう言った時、電話が鳴った。「私、出る。——もしもし。——何だ、お兄さんか。——うん、分った。それじゃ」
「帰って来たって?」
と、エリは訊いた。
「今、東京駅ですって」
「厄介なものが、もう一つふえるわ」
そう言って、エリは笑ったのだった。