「え? なあに?——パパが遅い、って? 本当にねえ。これで亜紀ちゃんが風邪でも引いちゃったら、どうするのかしら。——え? 何ですって?——きっと会社の可《か》愛《わい》い女の子にでもつかまって、ヘラヘラしてるんだ、って?——うーん、そうかもしれないわねえ……」
一人で「二人の対話」を演じているのは、おなじみの坂上エリである。ベビーカーをわきに置いて、亜紀子を抱っこし、なおかつ着替えだの何だのを詰め込んでパンパンにふくれ上がったボストンバッグを肩からさげているという、何とも大変な状態なのだった。
もちろん、亜紀子が、パパのことを、「会社の可愛い女の子……」なんて言ったりするわけもなく(言ったら、ホラー小説になってしまう!)あくまでこれはエリのグチなのである。
ま、大体この寒い時期に、いくら待ち合わせの場所を思い付かないからといって、ターミナル駅のホールの真ん中に突っ立っているのは馬鹿げた話だった。
しかし、今日は金曜日で、夫の勝之が、
「必ず五時に会社を出て、六時には待ってるから、ゆっくり来いよ」
なんて言うもんだから、ついエリも安心して、亜紀ちゃんかかえて喫茶店なんかで、他のお客に気がねしながら座っている必要もない、と思ってしまったのだった。
ところが、もう約束の六時はとっくに過ぎて、六時半になってしまったというのに、勝之の姿は一向に見えない。会社へ電話しようかとも思うが、亜紀子と荷物に、ベビーカー……。
電話の所まで行くのだって、一苦労である。
エリがグチっているのも、まあ無理からぬところであった。
——亜紀子を連れて、初めての旅行。温泉でのんびり三日ほど過ごそうという計画で、お風呂好きの亜紀子のことも考えて決めたのだ。
しかし——戸外というわけじゃないのに、ホールに立っていると、結構北風が吹いて来て寒い。冬だからしょうがないが、亜紀ちゃん、風邪引かないかしら、とエリは気が気ではなかった……。
「おい」
声がしたものの、勝之とは似ても似つかぬだみ声で、エリは面《めん》喰《くら》った。
「はあ?」
一目見て、足がすくんだ。——頭を刈り上げて、サングラス。白のスーツにエナメルの靴。
どう見たって、「ヤクザ」である。
「誰を待ってるんだ?」
と、その男は低い声で言った。
ごく普通の口調なのが却《かえ》って怖い。
「あ、あの——」
と言ったきり、後が続かない。
「誰を待ってるんだ、と訊《き》いてんだよ」
「あの——主人です」
と、エリはやっと言った。
「フン、名前は何てんだ?」
「この子のですか?」
「そんな赤ん坊の名前を訊いてどうするんだよ。亭主の名前を訊いてるんだ」
一体何だろう? エリは、夫が駆《か》けつけて来てくれないかしら、と思わず左右へ目をやった。
と、足早にやって来る男が一人。——これも、ヤクザにしか見えない男だった。
「おい、何やってんだ」
と、その男が、白いスーツの男に声をかけた。
「こいつが、もしかしたら、奴の女かと思って」
「馬鹿。奴の女は、まだ産まれてねえんだぞ。腹がでかいんだ」
「あ、そうなのか。だって、詳《くわ》しいこと、聞いてねえからよ」
「そんなので見付かると思ってるのか。——奥さん、どうも失礼」
と、エリの方に会《え》釈《しやく》する。
「ちょっとした勘違いでね」
と、白いスーツの男は、へへ、と笑って、行ってしまった。
もう一人の男は、ゆっくりと左右へ目をやりながら、反対の方向へ歩いて行く。エリは、ホッと息をついた。
「怖かったわねえ、亜紀ちゃん」
「ワア」
亜紀子は、一向に怖くないようで(当然のことながら)、寒い風にも負けずに手を振り回して、エリをあわてさせた……。
でも——何ごとなんだろう? あんなヤクザが何人もで、誰かを捜しているらしい。
きっと、何かまずいことをやって、追われているんだ。女を連れて。しかも妊《にん》娠《しん》しているという……。
駅って、色んなことがあるもんなのね、とエリは思った。
「それにしても、パパ、遅いわねえ」
と、エリが駅の入口の方へ目をやると、急に誰かがすぐ後ろに立った。
「あなたー」
と、振り向くと、
「静かにしてろ」
と、押し殺した声。
「え?」
「静かにしてりゃ、何もしねえよ」
脇腹に何か固いものが押しつけられた。
「あなたは……」
「銃が狙《ねら》ってるぜ」
銃。——銃が?
エリはゾッとした。
「あの——お金なら、バッグに——」
と、言いかけると、
「そのベビーカーを押してやる。いいか、俺と一緒に歩け」
「でも——」
「夫婦みたいなふりをして。いいな、楽しそうにしてろ」
無茶な注文である。
しかし、亜紀子を抱いているエリとしては、言われる通りにする他はない。
「ど、どこへ行くんですか」
「黙って歩け」
仕方ない。エリは亜紀子をかかえ、バッグをさげたまま、その男と、ロッカールームの方へ歩いて行った。
コインロッカーがズラッと並んでいて、人の出入りも結構ある。
「中に入れ」
と、男が低く囁《ささや》いた。
ロッカーが並んでいる列の間を抜けて行くと、奥にドアがあって、〈出入り禁止〉となっている。
どうやら、駅の作業員用の出入口らしい。
「よし」
と、男がやっとエリから少し離れた。「おとなしくしてろよ」
「どうするんですか」
エリは、しっかりと亜紀子を抱きしめていた。
「いいから、黙ってろ」
と、男は言った。
思っていたより、ずっと若い。たぶん、まだ二四、五歳ぐらいではないだろうか。
かなり緊張しているのは確かなようで、この寒いのに額に汗を浮かべている。
「——畜生。何してるんだ」
苛《いら》々《いら》と呟《つぶや》く。
どうやら、エリたち同様、誰かを待っているらしい。でも——まさか——。
女が一人、ロッカールームへ入って来た。
「おい、ここだよ」
と、声をかけられて、その女はホッとした様子で、急いでやって来る。
「遅いぞ。見付かるところだったぜ」
「ごめんなさい。なかなか家を出られなくって」
エリは、少々呆《あつ》気《け》に取られていた。いや、ドキドキしているのに変わりなかったのだが。
さっきのヤクザが捜していたのは、やはりこの二人らしい。女の方はもうお腹《なか》が目立って……。でも、エリがびっくりしたのは、どう見てもその女が、まだ十代——せいぜい一八歳ぐらいにしか見えなかったからだ。
「こいつは気にするな」
と、男の方はエリのほうをチラッと見て、女に言った。「持って来たか?」
「はい、これ」
分厚い封筒を男へ手渡す。それをポケットへねじ込むと、
「あちこちで見張ってる。別々に入ろう。いいな」
「でも——」
と、若い女は不安そうに、「会える?」
「列車は決まってんだぜ。中で捜すさ。ともかくホームで一緒にいたら、目につく。分ったな」
「ええ……。でも切符は?」
「切符か。入場券を買って入れよ。見送りみたいな顔して。もう、行かないと」
「私は——」
「少し後で来い。いいか。ホームで会っても知らん顔だぞ」
女が肯《うなず》く。心細い表情だ。男の方が笑顔になって、
「何だよ。元気だせ。列車が動き出しゃ、もうこっちのもんさ」
と、肩をつかんで言った。「後でな」
歩き出した男へ、
「気を付けて」
という女の声は届いたかどうか……。
その女は、何となくエリの、腕の中の亜紀子を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
「可愛い」
「あなた、今何か月?」
とエリは訊いた。
「七か月くらいかな」
「まだ二《は》十《た》歳《ち》より前?」
「一九。でも、ちゃんと結婚届は出してるのよ」
と、女は自慢するように言った。
エリは、少し迷ってから、
「追われてるのね」
と、言った。「一緒じゃ、危なくないの?」
「でも……二人一緒なら、何とかなるもん」
と、女は肩を揺すった。
荷物も何もない。マタニティウエアも、そう暖かくはなさそうに見えた。
「余計なお世話かもしれないけど」
と、エリは言った。「あの人に渡したの、お金でしょ? 本当に列車で待っててくれるの?」
女は表情をこわばらせて、目をそらした。——分っているのだ。男が、一緒に行く気などないかもしれないってことが。
「いいの」
と、少し詰った声を出す。
「でも——」
「どうせ、家にいられなくなるもの。この子を産んだら。どこかへ里子に出されるかもしれない。そんなのいやだもの」
「ご両親に話しても?」
「二度と顔も見たくない」
と、女は唇を歪《ゆが》めて言った。「行くわ」
「待って」
と、エリは声をかけていた。「ヤクザが、お腹の大きい女の人を捜してるわ。一人じゃ目に付くわよ。私が一緒に行ってあげる」
女は戸惑ったように、エリを見た。
「どうして?」
「いいから。このベビーカーを押して。少しうつむいて押せば、お腹が目立たないわ」
ロッカールームを出て、ホールを横切る前に、さっきのヤクザたちの姿を、エリは目に止めていた。ともかく、何とか改札口にまでやって来て、エリは自分で入場券を買って来た。
「これ、使って」
「——どうも」
エリは、女の腕に一方の手をかけた。
「彼が列車に乗ってるといいわね」
「うん」
女は肯いた。「ありがとう」
その笑顔は、子供のように幼く見えた。
改札口を入って、通路を歩いて行く後ろ姿は、頼りなかった。
エリは、亜紀子を抱え直した。
列車に乗って、男がいなかったら、あの子——いや「女の子」は、どうするんだろう?
家へも帰らず、恋人に見捨てられて、どこで子供を産むんだろう?
「ああして産まれて来る子もいるのね」
と、エリは亜紀子に話しかけるように、言った。「でも、赤ちゃんは赤ちゃん。ねえ、きっと元気な子が産まれるね」
「ワア」
と亜紀子が言った……。
「——すまん!」
ハアハア息を切らして、勝之が走って来た。
「出ようとしたら、間際に課長に呼ばれて……。客の相手をさせられたんだよ。本当にすまん! 亜紀ちゃん、ごめんよ!」
と、勝之は亜紀子を受け取って抱っこした。
「行きましょ。もう時間すれすれ」
「ああ。いや、ごめん。本当に——」
「怒ってなんかいないわよ」
「——本当に?」
「ええ。ちゃんとパパがいて、遅れたって必ず来てくれる、って分ってるんだもの。とっても幸せよ、ねえ、亜紀ちゃん」
エリが、持っていた切符を取り出して、改札口を入って行く。
勝之は亜紀子を抱いて、それについて行きながら、
「なあ、今のは何の皮肉かな? 亜紀はどう思う?」
と、真剣な顔で訊いているのだった……。