坂上康俊は、チラッと腕時計を見た。
前には、決してこんなことはなかったのである。——いや、腕時計を見ることは年中あったが、大切な商談の席で、時間を気にしてしまうなんてことは、絶対になかった。
今だって、やっぱり内心、いくらか気恥ずかしいのだろう、一口飲んだお茶がこぼれていないか、とズボンを見るふりをして、こっそり腕時計を見たのである。
しかし、相手は坂上康俊の素振りに敏感に気付いた。
「坂上さん、お急ぎですか」
と訊かれて、康俊は、
「え?——あ、いや、別に」
と、あわてて首を振った。
「お急ぎでしたら——おい、そのグラフの細かい説明は省略しろ」
「はい」
立って、資料のスライドを映しながら説明していた課長は、「では、結論を先に——」
「ああ、いや、いいんだよ」
と、康俊は手を振って、「すまんね。気をつかわないでくれ。説明は充分に聞きたい」
会議室のドアが開いて、女子社員が、コーヒーを運んできた。
「ちょうどいい。一息いれよう」
と、康俊は言って、「ちょっと失礼」
会議室を出ると、受付の外線用電話へ駆けつけて、プッシュボタンを押すのももどかしい様子。
「——もしもし。——母さんか。亜紀子はまだいるのか?——泊る? エリさんも一緒にか」
向こうで妻の笑い声が響く。
「——当り前だな。それならいい。——うん、もう少し遅くなりそうなんで、帰るまで待っててくれ、と言いたかったんだ。——ああ、亜紀子が眠るまでには帰りたいな」
康俊はニヤニヤしながら、電話を終えて、会議室へ戻った。
「坂上さん、本当に、ご用事じゃないんですか」
取引先の社長、井田は、ちょうど坂上と同じ年代だ。康俊は部長だが、会社の規模は大きく、大企業の一つに数えられる。井田の所は、自分が創業した社員百人足らずの会社である。
しかし、井田は極めて堅実な男で、康俊は気に入っていた。——この新規契約の話だって、内容はこれまでの契約とそう変わらない。普通なら、康俊の所へ、
「この度もよろしく」
と、手みやげでも持って挨《あい》拶《さつ》に来ればすむのに、こうして部下を連れて来て、きちんと説明する。
こういう律義なところを、康俊は買っているのである。
「いや、用事といってもね……」
と、康俊は照れくさそうに笑って、「実はうちに、息子の嫁が孫を連れて遊びに来ているのさ」
「おや、そりゃ早くお帰りにならんと……」
「大丈夫。今電話したら、嫁と孫は泊って行くそうだ。のんびり孫の顔を見ていられるよ。息子は出張中でね」
「そうですか」
井田は笑顔になって、「しかし、スヤスヤ眠ってるだけじゃ、つまらんでしょう」
「井田さんのとこは、もうお孫さん、大きかったね」
「ええ。もう中学生です」
「そうか。早いもんだね」
「父親より背が高くなっちまいましてね」
と、井田も楽しげに笑う。
二人とも五十代後半に入っているから、孫がいてもおかしくはない。ただ、井田は結婚が早く、孫がもう中学生というのに、康俊の方は、孫の亜紀子がまだ赤ん坊。大体、娘の美由紀は高校生である。
「男の子だったかな、井田さんのとこは」
「そうです。息子に似なくて良かった。おかげでなかなかの二枚目で」
と、井田が笑う。
「いや、——可《か》愛《わい》いもんだね、孫ってのは。私も、子供のことは女房任せで放っておいたもんだが、孫となると全然違う」
「全くです。不思議な気分ですねえ、あれは」
二人して「孫談義」をやっていると長くなりそうなので、康俊は仕事の話に戻ることにした。
——井田の息子は、父親の会社に入っている。それはまあ、オーナー社長の息子なのだから、当り前のようなものだ。
しかし、康俊が感心するのは、井田が会社を息子には継がせない、と決めていることである。
「あれは経営者には向きません。本人も可《か》哀《わい》そうですよ」
不思議がる知人に、いつも井田は、そう説明していた。
確かに、康俊も知っているのだが、井田の息子は気が優しく、誰からも好かれる代わりに決断力というものに欠けていた。なまじ、オーナー社長だけに、自分の一存ですべてが決まって行く立場である。
そんな座についたら、どうしていいか分らなくなって、ノイローゼになってしまうだろう。——井田は、そういう息子の性格をよく見ていて、自分が社長を退いた後は、何人かの幹部の合議制で、会社を運営させていくことにしていた。
こういうことは、現実に、なかなかできるものではない。
経営者の神様みたいに扱われ、本を出したりしている大物の経済人が、いざ後継者問題となると、ただの「道楽息子」に地位を譲ろうとして評判を落とす、という実例はいくらでもある。
その点、井田は血のつながりだけで、経営はできないことを、よく承知しているのである。康俊は敬服していた……。
「——まあ問題はないんじゃないかな」
一通り説明が終わったところで、康俊は肯《うなず》いた。「この程度の値上げはしかたない。ま、よろしくお願いしますよ」
「こちらこそ。貴重なお時間をどうも」
と、井田が深々と頭を下げる。
「それじゃ——」
と、康俊は書類をまとめながら、「孫とのデートへ、急ぐかな」
「お待ちかねじゃないですか」
と、井田は笑って言った。
「失礼します」
と、女子社員が顔を出して、「井田様。お電話が入っております」
「や、どうも。——申し訳ありません」
井田と一緒に出て、康俊は部長室の方へと歩いて行った。
ドアを開けようとして、康俊の手は止まった。
「何だと!」
井田の声が耳を打つ。ただならぬ様子だ。
「しかし、それは——うん。——うん。それで、和明は?」
和明というのは、確か井田の孫の名前である。どうしたんだろう? 康俊は気になって、動けなかった。
「——そんな馬鹿な!——和明のせいじゃない。そりゃ、向うが悪かったんだ!——決まっとるじゃないか!」
井田は、康俊が見たこともないほど、動揺していた。息づかいが荒くなるのを、何とか押えて、
「——うん。そうか。——分った。じゃ、ここへ寄ってから?——ああ、じゃ、待ってるよ」
受話器を置くと、井田がふらついた。康俊はびっくりして駆け寄ると、
「大丈夫かい?——さ、座って」
と、受付の椅《い》子《す》に座らせてやる。
「すみません……。どうも……」
井田は苦しそうに胸を押えた。
「少し落ちついた?——何事だね、一体」
「いや……。馬鹿げた間違いでしてね。孫が……孫が警察に……」
「警察? なにかやったのかな」
「間違いですよ。色々いい加減なことを言う奴がいるから……。すみません。息子が今、こっちへ向かってるそうなので、少し待たせていただいても——」
「ああ、いいとも。すると、今の電話は——」
「嫁からです。女はだめですな、取り乱して泣いたりして。なにも心配することはない。そんなのは何かの間違いに決まってるんだから……」
井田は、「間違い」という言葉をくり返している。当人は落ちついているつもりらしいが、はた目には、気の毒なほど取り乱しているのがよく分る。
帰ったものかどうか、康俊が迷っていると——。
「お父さん」
と、声がして、井田の息子がやって来るのが見えた……。
明るい笑い声が茶の間から聞こえて来ると、康俊はホッとした。
「——ただいま」
「あ、お義《と》父《う》さん、お帰りなさい」
と、エリが立ち上がりかける。
「いいのよ、エリさん。他人の亭主にまで気をつかわなくても」
と、康俊の妻、貞子が立ち上がって、「遅かったのね。亜紀ちゃんは、もう寝ちゃいましたよ」
「たった今です。まだ起きているかもしれませんわ」
と、エリが立とうとするのを、今度は康俊が、
「いいよ、寝かしといてくれ」
と、止めて、「いや、疲れた!」
ドッカリと座り込む。
「何かあったんですか?」
「ああ……。孫ってのは怖いもんだ」
康俊の言葉に、エリと貞子は顔を見合わせた。康俊は肩をすくめて、
「まあいい、飯にしてくれないか」
と、言った……。
——夕食を終えて、熱いお茶を飲むと、康俊はやっと肩がほぐれた、という感じだった。
「実は会社で、こんなことがあったんだよ……」
康俊は、井田のことを話してやった。
「——じゃ、その中学生のお孫さんが?」
と、エリは訊《き》いた。
「うん、何人かで、下級生をおどして、金をださせてたんだそうだ」
「まあ」
「残念ながら、井田の言うような『間違い』じゃなかった。他の子に無理やり仲間にさせられて、というのでもないらしい。どうやら、その子がリーダー格でやったことらしいね」
「どうしてそんなことを……」
「金には不自由していなかった。ともかく、お祖《じ》父《い》さんが、どんどん小づかいをやっていたらしくてね」
「その社長さんがですか」
「うん……。うちの会社へ迎えに来た息子と、口論になったんだ」
康俊は、思い出すのも辛《つら》い、という様子だった。「いつも、そつなく冷静にしている人がああも我を失うのを見るのは、本当に居たたまれなくなるね……」
「その子は、ぜいたくに慣れちゃったんですね」
「うん。仲間にもおごったりするのが当り前になってしまって、そうなりゃ、いくら小づかいがあっても足らないさ。そう年中、お祖父さんの会社までもらいにも行けない。手近なところで、ということになる」
「息子さん——その子のお父さんは?」
「薄々気付いてはいたんだろうが、子供を叱《しか》ることもできない男なんだ。二人して、相手が悪い、と言い争いを始めてね」
「いやですねえ」
と、妻の貞子が顔をしかめる。
「いや、つくづく、怖いと思った」
康俊は、ちょっと息をついて、「さあ、うちのお姫様の顔を拝見して来るか」
「ええ」
「あなた、起こさないでよ」
「分っとる」
康俊は、一階の奥の日本間に寝かされた亜紀子へ、そっと近寄って、その鼻息が顔にかかるほど、顔を近付けた。
「——可《か》愛《わい》いもんだな」
と、低い声で呟《つぶや》く。
「最近は凄《すご》く表情豊かで」
「そうか」
康俊はエリの方へ、「我が子ってやつは、どんなに可愛くても、親には責任ってものがあるからな。ところが孫にはない。だから孫ってやつは、余計に可愛いんだね」
「はあ……」
「子供が非行に走れば親の責任だ。しかし、今のように、みんな長生きになるとねえ。祖父や祖母も、孫の育て方に責任を持たなければならんね」
「でも、お義父さんは——」
「いや、分らんよ。分らんところが怖いんだよ」
康俊は肯いて、「孫のため、と思うことが、逆に孫をだめにすることもある。——いいかね、エリさん」
「はい」
「もし私が、亜紀子のことで、少し可愛がり過ぎるとか、物を与え過ぎるとか思うことがあったら、いつでもそう言ってくれ」
「まさか、そんな——」
「いや、本当だよ。一人の子供がまともな大人に育たなかったら、どうなる? 両親だけじゃない、その結婚相手、子供にまで、辛い思いをさせる。その責任は、と言っても、もう祖父や祖母はいない。——そんなことにしちゃいけないからね」
「かしこまりました」
と、エリがわざと堅苦しく、「うんと厳しく、意見をさせていただきます」
この嫁に意見をされたら、本当に怖そうだ、と康俊は思った。
クッシュン、と亜紀子がクシャミをして、二人はあわてて布団をかけ直したのだった。