「儲《もう》かった、儲かった」
と、坂上美由紀はそのチケットを両手で捧げ持つようにして、一礼した。「ありがたや!」
「何やってんの」
と、見ていた吉住リカが笑って、「さ、入ろうよ」
「うん!」
美由紀は、真新しいコンサートホールの入口を入りながら、「一度、ここへ入ってみたかったんだ!」
入るとすぐにロビーになっていて、高い天井からは、モダンなデザインのシャンデリアがまぶしい光を降らせている。
「いいねえ、この雰《ふん》囲《い》気《き》」
と、美由紀は足を止めてポカンとシャンデリアを見上げていて、後ろから来たお客に追突されてしまった。「あ、ごめんなさい」
「——ほら、二階席だから、こっちよ」
と、リカはよく知っている様子で、階段の方へと歩いて行く。
「リカ、もう何回も来てるの?」
と、美由紀は訊いた。
「うん。——十回ぐらいかな」
「凄《すご》い」
この新しいホールがオープンしてから、まだ一年はたっていないはずだ。その間に十回も来ているなんて……。
でも、リカの家は父親が音大の教授で母親がピアニスト、という音楽一家だ。リカも当然のことながら、ピアノが上手で、大学は音楽の道へ進むと決めている。
本人もそう決めているだろうし、周囲も頭からそう思っているのである。
ところで、美由紀が、「儲《もう》かった」と騒《さわ》いでいたのは、別にどこやらの未公開株をもらっていたわけでは、もちろんなくて——高校生なんだから——今夜のチケットが一枚余ったから行こうよ、とリカに誘われて、S席一万円也のチケットをタダでもらってしまったからなのだった。
高校生の懐具合にとって、一万円のチケットがタダで手に入るというのは、正に「大事件」である。
「コンサートっていえば、うちの親は、いくらでもお金出してくれるの」
と、階段を上りながら、リカは言った。
「へえ……」
正直なところ、美由紀と吉住リカは、同じクラスになったことがある、というだけで、そう親しいわけではない。
ただ一週間ほど前に、たまたま電車で一緒になって、この日のコンサートの話が出た。かなり人気の高い外国のピアニストで、テレビのCFにも顔を出している。
お母さんと行くことになってて、というリカの話に、美由紀が、
「いいなあ」
と、声を上げたのを、リカが憶えていたのである。
「お母さん、用事ができて行けなくなったの。一緒に行かない?」
と、電話をもらって、一も二もなくOKした。
「——わあ、凄くいい席」
二階の、ほぼ正面。前から三列目。——同じS席でも、かなり端の方まである。
もう席は大分埋っていた。もちろんチケットは売り切れているので、時間までには満席になるはずである。
「コーヒー、飲もうか」
と、リカが言った。
二人で一旦席を立って、二階のカウンター式になった喫茶コーナーへ行く。リカはコーヒーだが、美由紀はアイスクリームにした。
コンサートの最後に渡そうというのか、花束を持った女の子も、目につく。
「いやね、ああいうの」
と、リカは、眉《まゆ》をひそめて、「ロックコンサートか何かのつもりで来てるんだから。音楽のことなんて、分ってないのよ」
美由紀としても、多分にミーハー的な気分で来ていたから、他人のことは言えない。
リカは、同年代の子にしては少し大人びていて、ちょっと冷たい感じも与えた。あまり親友という子もいないようだ。
美人だし、頭もいい。みんなと一緒になってはしゃぐでもない。——これでは、親しくなるにも「隙《すき》がない」のである。
美由紀の友だちの中には、リカのことを、
「お高く止まって」
と、嫌《きら》う子もいる。
しかし、美由紀は人それぞれ、という考えだから、別にリカのことを敬遠したことはなかった。
美由紀は、足に何かが当たるのを感じて振り向いた。——誰もいない、と思って、ふと下を向くと——。
「あら、可《か》愛《わい》い」
つい、笑ってしまう。
せいぜい三つになるかならないかぐらいの女の子が、美由紀のスカートを引っ張っているのだった。お人形みたいな、可愛い柄のワンピースを着ている。
「何してんの? 誰と来たの?」
と、美由紀が声をかけると、その女の子はクリッとした目で、美由紀の方を見上げている。
「あ、すみません」
と、母親らしい女性が急いでやって来ると、「だめよ、アキちゃん。ほら、アイス食べましょ、あっちで」
と、女の子を抱き上げた。
「あ、スプーン、これを使うんですよ」
と、美由紀が、カウンターに用意してあるスプーンをその母親に渡してやる。
「あ、どうも——」
と、スプーンを受け取って……。「まあ、リカさん?」
驚いたように、リカを見つめている。
リカの方は、何も言わずに目をそらしてしまった。
「すっかり大人になって……。先生はお元気?」
と、その女性が訊《き》いたが、リカは完全に無視して、コーヒーを飲み干すと、
「先に席に戻ってる」
と、さっさと行ってしまった。
まだアイスクリームを半分食べ残していた美由紀は、少々気まずい思いで、その女性が少し哀《かな》しそうにリカを見送っているのを横目で眺めていた……。
ショパンはやっぱりいい!
美由紀は、これが自分もたまに(!)練習したりするのと同じピアノという楽器なのかしら、と疑いたくなってしまった。
ホールとしては、決して小さくないのだが、その空間を一杯に満たすように、ピアノが鳴る。——前半はショパンプログラム。後半にもショパンがある。
リカはその点少々物足りないようで、
「プロコフィエフでも聞きたいのに」
とか言っていたが、美由紀としてはショパンでありがたい、というのが正直なところだった。
〈別れの曲〉。——うん、これはいくら私でも知ってるぞ。
囁《ささや》くようなピアニッシモが、ホールの中に広がって行く。聴衆も、うっとりと聞き惚れている様子だ。すると——。
「ワーア」
突然、子供の声が響き渡った。——まあ、これがオーケストラのコンサートで、大行進曲でもやっていたのなら、大して目立たなかったかもしれないが……。今は、最悪のタイミングだった。
みんなの視線が一《いつ》斉《せい》に、「声の主」を求めてホールの中を巡《めぐ》った。
美由紀は、二階の端の方の席から、さっきリカに声をかけていた女性が、急いで立ち上がるのを、目に止めた。あの女の子を抱いている。
泣いているわけではないようだが、確かに子供にとっては、もう眠くなる時間だ。
カタカタと足音がして、その女性がホールを出て行くと、美由紀はホッとした。
静かになって良かった、というのとは少し違う。突き刺さるような非難の目に、あの親子がさらされるのを見るのが、辛《つら》かったからである。
ピアニストの方は、別に腹を立てた様子もなく、〈別れの曲〉を結んだ……。
——そこで休《きゆう》憩《けい》に入る。
「いいね、やっぱり生演奏は」
と、美由紀は言ったが、リカは何も答えずにパッと席を立って、行ってしまった。
気になった美由紀は、リカの後を追って行った。
「——やっぱり」
と、美由紀は通路へ出て、呟《つぶや》いた。
女の子を抱いた女性の所へ、リカが歩いて行って、
「どういうつもりなの」
と、問い詰めるような調子で言ったのである。「あなただって、ピアニストになりたかったんでしょ。そんな子供なんか連れて来て。迷惑になるのが分らないの」
言われている女性の方は、青ざめた顔で、無言のまま目を伏せていた。リカは、
「帰りなさいよ。あなたが母の弟子だったこと、知ってる人も来てるんだからね」
「リカ、やめなさいよ」
美由紀はリカの肩に手をかけて言った。
「美由紀は黙ってて」
「そうはいかないわ」
美由紀は引きさがらなかった。「リカの言うことが正しくても、言い方ってものがあるわ。私たち高校生よ。大人に向かって、そんな言い方しちゃいけないわ」
リカは、キュッと口を結んで、そのまま行ってしまった。
「——ごめんなさい」
と、その女性は息をついて、「無理は分ってたんだけど……」
女の子は、抱かれたまま眠っていた。
「リカさんのお友だち?」
「そうです。同じ学校で。——今、いくつですか?」
「この子? 二歳半」
「兄のところ、まだ赤ん坊なんです。可《か》愛《わい》いなあ」
何しろ、最近は小さな子を見ると、ついニコニコしてしまう美由紀である。
「ありがとう。でも、やっぱりショパンは早かったみたい」
「リカのお母さんに——」
「ええ。——ずいぶん長く、教えていただいてたの。厳しくやられたけど、それだけ私のこと、期待してて下さったのよ」
「凄《すご》いなあ。私なんか全然期待されてないけど」
「それが——四年前に、私が今の主人と会ってね、黙って結婚しちゃったものだから、先生、怒って……。当然でしょうけど」
「じゃ、もうピアノは——」
「自分の力の限界も分って来てたの。だから、結婚の方を取ったのよ。それで破門、ってわけで……。リカさんに何と言われても仕方がないわ」
と、その女性は子供を抱き直して、「この子が産まれてから一度もピアノを聞いてなくて……。このホールに友だちがいるの。たまたま今日、昼間電話で話してたら、このコンサートなら入れてあげる、と言われて。そう聞いたら、何だか……とても我慢し切れなくて」
「ご主人に子供さん、みてもらうとか——」
「主人は海外なの。この半年ね。急だったから、預かってくれる人も見つからなくて……。大人しくしてるから、絶対に、って、友だちに頼んで、入れてもらったんだけど……。この子にとっちゃ、迷惑だったんでしょうね」
と、笑った。
「そうですね。でも、せっかく……」
「後半のショパンがね。私が最後の発表会で弾くことになってた曲なの。それもあって、つい、ね。——あ、もう始まるわ」
開演のチャイムが鳴って、ロビーに出ていた客たちがホールへ戻り始める。
「どうするんですか」
「帰るわ。——ごめんなさいね、リカさんと……」
「そんなこと、いいんです」
と、美由紀は首を振って言った。「私が、抱いて座っててあげます」
「え?」
「私、子供好きだから。眠っちゃえば、もう目を覚ましませんよ。ここにいるから。聞いて来て下さい」
「そんなわけに——」
「どうせ私も、タダ券なんです。ね、私に任せて」
その女性が頬《ほお》を染めて、嬉《うれ》しそうに微《ほほ》笑《え》んだ……。
「いいことしたわね」
と、エリが言った。「喜んだでしょ」
「ショパンだけ聞いて、帰ってったわ」
と、美由紀は言って、這《は》いずり回る亜紀ちゃんを追いかけた。
「確かに、連れて行った方が悪いんでしょうけど……」
「でも、母親だって、音楽聞きたいよね。私に赤ちゃんがいても、そう思うな、きっと」
と、美由紀は膝をかかえて座ると、「それよりね、周りの人が、憎らしいって目で、その人のことにらんでたのが、腹立つの。——自分だって、いつひどい咳《せき》が出たりして、同じ立場になるか分らないじゃない。そういう人に気をつかってあげるのが、音楽の好きな人の心だと思うけどなあ」
「そのお友だちは?」
「リカ?——うん、帰りにね、悪いこと言ったな、って」
美由紀は微笑んで言った。「しっかり、ケーキ食べて帰った」
「羨《うらやま》しいわ」
「お義《ね》姉《え》さんも、今度、コンサートでも行ってきたら? 兄貴と二人で。私が亜紀ちゃん、見ててあげる」
「まあ、本当?」
「うん」
——美由紀は、その時には兄からいくらバイト料をもらおうか、と考えていた……。