「いや、どうも……」
と、いささか若さの割に太り気味の夫は照れまくっている。「本当にその——いつもご主人にはお世話になってまして」
「あなた」
と、妻が突ついて、「それはもうさっき……」
「言った?」
「二回もね」
「そうだっけ」
二人のやりとりを聞いていた坂上エリは思わず吹き出してしまった。
それでまた新婚夫婦の夫の方は、真っ赤になって汗を拭《ふ》いているのである。
「本当にどうぞ、気を楽になさってね。主人ももう戻ると思いますから」
と、エリは言って、「お茶、冷めますから、どうぞ。甘い物がお好きとうかがってたので」
「どうも。いただきます」
エリの夫、坂上勝之が仕事で付合いのあるこの男。勝之より四、五歳年下だが、勝之によれば、
「まれに見る純情青年」
で、会社は違うのだが、何となく個人的に仲良くなってしまった。
名を笹口良平といい、前述の通り、年齢の割には大分太っている。
太った人というのは、見かけは何となくおっとりしていて、その実、神経質なタイプが多いものだが、この笹口良平は、もろ見かけ通り。
大らかで、人の良さが、そのふっくらとした真ん丸な笑顔にも現われていた。
その笹口がつい先日、結婚し、ハネムーンから帰って、今日の日曜日、夫婦で坂上家に挨《あい》拶《さつ》に来た、というわけである。
エリも夫と一緒に、結婚式に呼ばれたので、ウエディングドレス姿は見ていたが、こうして間近に笹口の妻を見るのは初めてだった。
妻の香《かおり》は、夫より確かに二つほど年上のはずだが、笹口があんまり照れ屋のせいか、もっと年上みたいに見える。美人というわけではないが、いかにも堅実なタイプの、しっかり者という印象。
地方の大家族の長女、という紹介が披露宴であった時、エリは、やっぱりね、と思ったものだ。
「お宅、お子さんはすぐにでも?」
と、エリが訊《き》くと、
「え……まあ……。な?」
と、また笹口が真っ赤になって、妻の香の方を見る。
香は黙って微《ほほ》笑《え》んだだけだった。
そこへ、急な用事で出かけていた勝之が、息を切らして帰って来る。——正直、エリもホッとした。
何だか子供のお守りをして疲れたような、そんな気分だったのである。
「やあ、すまん。——お帰り。ハネムーンはどうだった?」
「どうも、その節は色々お世話になりました」
と、香が頭を下げる。
「いやいや。多少でも役に立てればね。——何だ、おい、もう少し太ったんじゃないのか?」
「よして下さいよ、坂上さん」
と、笹口は、また照れたように笑って頭をかいた……。
——勝之のすすめで、結局、笹口と香は、ここで夕食を一緒に、ということになった。エリもそのつもりで仕度をしていたので、特別忙しかったわけでもないが、香が手伝ってくれるというので、力を貸してもらうことにした。
大家族の長女として、十代のころから家事をやって来たという香は、さすがに手際も良く、味つけや盛りつけも、プロ並みの腕前で、エリは舌を巻くばかりだった。
さて、食事、となって——。
「おい、飲めよ。大丈夫だろ? 車ってわけじゃないし」
と、勝之は、笹口に酒を注いだ。「奥さんもお強いんでしょ? 確か、酔いつぶれた笹口を介《かい》抱《ほう》したって話だから」
「まあ、凄《すご》い」
と、エリは目を丸くして、「どうぞ、ご遠慮なく。私はあんまりいただけないんですけど」
「どうも……」
と、香はちょっとためらってから、「あの——実は、お酒やめておりまして」
「へえ。じゃ、結婚を機に禁酒ですか」
「いえ、それが……」
エリが察して、
「おめでたなんですね」
と言った。
「はい。そうなんです」
これには勝之がびっくりした。
「やあ、それじゃ——。おい、笹口」
「は?」
「とぼけるな。付合い出して三か月で結婚だとか言ってたじゃないか」
「嘘《うそ》じゃないですよ! 今——香は三か月なんです」
むきになって言い返す笹口は、何とも可愛いものだった……。
これは、坂上家に「お姫様」亜紀ちゃんが産まれる前のお話。
そして、日は過ぎて……。
「やあ、どうしたんだ?」
会社の地階にある喫茶店に入った勝之は、待っていた笹口に声をかけた。
「どうも。ごぶさたして……」
異動で、このところ勝之とあまり会う機会のなくなってしまった笹口は、以前より少しやせた印象だった。
「お忙しいのに、すみません」
「いや、残業ったって、連絡のテレックスを待ってるだけ、という退屈な仕事なんだ。構わないよ」
勝之はコーヒーを取って、一口飲むと、「何だい、相談って」
「はあ……」
と、相変わらず笹口はもじもじしている。
「育児の相談ならだめだぜ。結婚は後でも、君のとこの方が四か月も早いんだからな」
「そうじゃないんです」
「そうか。——元気かい。君のとこの子、男の子だったよね」
「そうです。信平とつけたんですけどね」
「笹口信平。いいじゃないか。大物になりそうな名だぜ」
「——坂上さん」
と、笹口は思い切ったように言った。「香が信平を連れて、家を出てしまったんです!」
「何だって?」
勝之は唖《あ》然《ぜん》とした。「一体どうしたんだい?」
「それが……」
笹口も、いつもの元気は、すっかり消え失せてしまっている。
「喧《けん》嘩《か》したのか。でも、出てっちゃうっていうのは……」
「実は、一か月くらい前になります」
と、笹口は話し始めた。「会社へ、一人の男が僕を訪ねて来ました。まるで見たこともない男で、桜木という名でした」
「その男が——」
「外資係の会社に勤めているということで、なかなか知的な、立派な男でした。そして、これから、自分はアメリカへ発《た》って、向こうにたぶん永住することになると思うので、それを奥さんに伝えてほしい、と言うんですよ」
「香さんへ?」
「ええ。僕はわけが分りませんでした。どういうことなのか、訊《き》いてみると……。つまり、香は、僕と付合い出す前に、桜木という男と付合っていたらしいんです」
「へえ」
「それもかなりぎりぎりまで。——結局、エリートコースを歩いて来た桜木と香とでは、あまりに違いが大き過ぎるとか、色々あって、かなり苦しんだ挙句に別れたようなんです」
「そうか。——ま、しかし、香さんだって、一六、一七の子供じゃない。君の前に誰か恋人がいたって、むしろ当然だぜ。まだ別れてない、っていうのなら問題だろうけど、別れたんだろう?」
「ええ……。桜木という男の態度も立派でした。香に直接会って話してもいいが、それが分って、僕の誤解を招くといけないので、伝えてもらえたらと思った、と言うんです。そして香に、幸せを願ってる、ということと、自分は向こうで誰か結婚相手を見付けるつもりだと……」
「それで済まなかったのか。またそいつは何か言って来たんだな?」
「いいえ。桜木はその翌日にアメリカへ発ってしまって、約束通り、香には手紙一本、出していません」
勝之は首をかしげた。
「分らないな。それじゃどうして一か月もたって、奥さんが家出するんだい?」
「はあ……。実は——」
と、笹口が言った。「その桜木という男、眉《まゆ》が濃かったんです」
勝之は、ますますわけが分らなくなってしまった……。
「——一体、誰に似たんだろうね、っていつも言ってたんです」
と、香は言った。「私はこの通り眉が細いし、主人も、とても眉毛は薄いんです。それがこの子は、ご覧の通りで」
——笹口信平が、坂上家の居間のソファで、スヤスヤと眠っていた。
「とっても鮮やかな眉ね。りりしくて、すてきじゃない」
と、エリは言った。
「ええ。ところが、主人は桜木に会い、その眉が濃くて、くっきりとしているのを見て……」
「信平君がその人の子だ、と思い込んじゃったのね」
「この一か月ほど、どうも様子がおかしいので……。我慢し切れなくなって、訊いてみると、突然そんなことを言われて。——確かに」
と、香はため息をついて、「桜木とは結婚の約束をしていました。笹口と付合い出したのは、桜木と別れた辛さから立ち直りたくて、すがりついたようなところもあります。でも……。他の人の子を騙《だま》して押し付けるようなこと、私はしません」
「当然よ」
と、エリは肯《うなず》いた。「でも——困ったわね」
玄関の方に、
「ただいま」
と、勝之の声がした。「——やあ。——あれ?」
居間を覗《のぞ》いた勝之は、香と信平を見て、目を丸くした。
あれかな?——いや、違った。それじゃ今、信号の所に立ってる娘かな?
笹口は、目が疲れて頭を振った。もう一時間以上待っている。本当に来るのかな?
横断歩道をガラス越しに見る喫茶店で、笹口は待っていた。香から連絡があって、ここで待っていてくれれば、香の妹が代わりに会いに行って、笹口を案内する、というのだった。
しかし香の妹といっても、式の時に会ったきりで、しかも何人もいるから、顔を思い出せない。おかげで、さっきから、それらしい若い娘が横断歩道を渡って来ると、ついじっと見つめてくたびれてしまう、というわけだった。
あれかな、と思う。どこか似た感じの娘は三、四人は通ったのだが、どれも違っていたらしい。——笹口は、いい加減くたびれて、引き上げようかと思い始めていた。
すると、誰かが不意に、向かい合った席に座ったので、笹口はびっくりした。
「——坂上さんの奥さん!」
「いかが?」
と、エリは訊いた。「奥様と似た人は何人くらい通った?」
「はあ……。じゃ、奥さんが、あの連絡を?」
「ええ。他人の中にも、『姉妹です』と紹介されて納得してしまいそうな、よく似た人っているもんでしょう? みんながみんな、隠れた血のつながりがあるわけじゃないわ」
「それはまあ……。香と信平は——」
「うちにいらっしゃるわ。戻ってほしい、と?」
「ええ。——僕も心を決めました。もし、信平が桜木の子でもいい。僕の子として、育てようと——」
「分ってないのね」
と、エリは首を振って、「香さんは、許してくれることを願ってるわけじゃないんです。信じてくれることを望んでるんですよ」
「ええ、ですから——」
「女は誰のために、苦しい思いをして子供を産むと思うんですか? その相手が自分のことを信じてくれなかったら……」
エリは立ち上がって、「本当に奥さんを信じられる、と思ったら、迎えに来て下さい。それまでは、家でお預りしますわ」
と、さっさと店を出てしまった。
すると——ものの十歩もいかない内に、
「奥さん!」
ドタドタと足音がして、笹口が追いついて来る。
「どうなさったの?」
「いや、今、奥さんを見てて、誰かと似てる、と思ったんです」
「私が?」
「ええ。口もとが、うちの信平とそっくりです」
呆《あつ》気《け》に取られていたエリは、吹き出した。そして、笹口も明るい声で笑ったのだった。