日语童话故事 日语笑话 日语文章阅读 日语新闻 300篇精选中日文对照阅读 日语励志名言 日本作家简介 三行情书 緋色の研究(血字的研究) 四つの署名(四签名) バスカービル家の犬(巴斯克威尔的猎犬) 恐怖の谷(恐怖谷) シャーロック・ホームズの冒険(冒险史) シャーロック・ホームズの回想(回忆录) ホームズの生還 シャーロック・ホームズ(归来记) 鴨川食堂(鸭川食堂) ABC殺人事件(ABC谋杀案) 三体 失われた世界(失落的世界) 日语精彩阅读 日文函电实例 精彩日文晨读 日语阅读短文 日本名家名篇 日剧台词脚本 《论语》中日对照详解 中日对照阅读 日文古典名著 名作のあらすじ 商务日语写作模版 日本民间故事 日语误用例解 日语文章书写要点 日本中小学生作文集 中国百科(日语版) 面接官によく聞かれる33の質問 日语随笔 天声人语 宮沢賢治童話集 日语随笔集 日本語常用文例 日语泛读资料 美しい言葉 日本の昔話 日语作文范文 从日本中小学课本学日文 世界童话寓言日文版 一个日本人的趣味旅行 《孟子》中日对照 魯迅作品集(日本語) 世界の昔話 初级作文 生活场境日语 時候の挨拶 グリム童話 成語故事 日语现代诗 お手紙文例集 川柳 小川未明童話集 ハリー・ポッター 新古今和歌集 ラヴレター 情书 風が強く吹いている强风吹拂
返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 赤川次郎 » 正文

ハ長調のポートレート14

时间: 2018-06-29    进入日语论坛
核心提示:危ない日「ゆうべは危なかったのよね」 と、近所の奥さんが言った。「あら、それじゃ、断われば良かったのに」 と言い出したの
(单词翻译:双击或拖选)
 危ない日
 
 
「ゆうべは危なかったのよね」
 
 と、近所の奥さんが言った。
 
「あら、それじゃ、断われば良かったのに」
 
 と言い出したのは、坂上エリよりも四つも年下ながら、もう二歳になる男の子のいる、水原結子という主婦。
 
 主婦ったって、こんな風に近所の奥さん四、五人集まると、水原結子はひときわ目立つ。何しろその格好たるや、どう見たって、お洒《しや》落《れ》な女子大生……。
 
「断わるって?」
 
 と、初めに口を開いた奥さんが、不思議そうに訊《き》き返すと、水原結子は、
 
「だって、ゆうべは出来ちゃいそうな時期だったんでしょ? そんな時は、いくら旦那が要求して来ても、断固、拒否すりゃいいのよ!」
 
 と、主張した。
 
「あ——いえ、そうじゃないのよ。そんなことじゃないの」
 
「あら、違うの? また、私って早とちりで、ハハハ」
 
 当の水原結子があっけらかんと笑っていて、周囲の奥さんたちの方が照れて赤くなったりしている。
 
 そこに加わっていたエリも、吹き出しそうになるのを、何とかこらえていた。何を言っても、怒る気になれないのが、水原結子の得なところかもしれない。
 
「うちの隣にね、小学生の女の子がいるのよ。四年生かな。可《か》愛《わい》い子でね、ちょっとモデルにでもしたくなるような」
 
 と、その奥さんが話し始めた。「その子がゆうべピアノのおけいこに行って、帰りに、変な男の人に声かけられてね。車に乗ってて、『道を教えてくれないか』って言ったらしいのね」
 
「まあ」
 
 と、他の奥さんたちも、真剣な表情になる。
 
「で、その子が車に近付いて、道を説明しようとしたら、いきなり車の中に——」
 
「引っ張り込まれたの?」
 
「ちょうどうまい具合に、ソバ屋の出前の人が通りかかったんですって。女の子が大声を出したんで、車は逃げちゃったそうよ」
 
「良かったわねえ」
 
「泣いて帰って来て、お隣の奥さんがびっくりして……。もちろん警察にも届けたらしいけど」
 
「何てことでしょ!」
 
 ——同じ子供を持つ母親として、子供を狙《ねら》った犯罪くらい、腹の立つものはない。
 
 それはエリだって同じだ。いくら亜紀子が小さいといったって、ほんの十年もすれば、立派な「女の子」である。
 
「お隣じゃ、ピアノをやめさせるか、必ずお母さんが付添うか、どうするか、って頭をかかえてるみたい」
 
「分るわ。——変な男が多いのよね。本当に」
 
 みんなが黙って肯《うなず》き合った。
 
 小さな子を狙えば、犯人の顔だってはっきり憶えていないだろう。——そういう「計算」が見えるのも、腹が立つ。
 
「充分用心しましょうね」
 
 と、一人の奥さんが言って、みんなは口々に、
 
「何か考えなきゃね」
 
「交替で見てるとか……」
 
「いつもいつも、連れて歩けないしねえ」
 
 などと言い合っている。
 
 一人、水原結子が、のんびりと髪の乱れを気にしていた……。
 
 
 
 暖かい日だった。
 
 水原結子は、二歳の広実を、公園で遊ばせていた。
 
 近所の子供たちも大勢来て、一緒に遊んでいる。——まあ、時には喧嘩もするし、ワーッと泣き出す子、けがをする子、色々いるが、それなりに楽しくやっていた。
 
 広実は、人なつっこい。一人っ子なのに、人見知りということもしない子である。
 
 結子の夫は、いつも、
 
「お前に似て社交的なんだ」
 
 と、笑う。
 
 まあ、そうかもしれないわ……。結子も反対はしなかった。
 
 広実、なんて名をつけるのに、夫はちょっといやな顔をした。女の子みたいじゃないか、というわけだ。
 
 でも、これからは男だって可愛い方がいい時代なのよ、と結子が頑張って、押し通してしまったのだ。
 
 そして実際、広実は女の子みたいに可愛かった。目がパッチリして、笑うとえくぼなんかできて……。
 
「あら、可愛い」
 
 と、通りすがりの奥さんなんかが、言い合っているのを聞くと、結子はいささかいい気分だった。
 
 そうよ。何しろ、「母親似」なんだからね!
 
 もう二歳ともなると、チョコチョコよく歩いて、結構遠くまで行ってしまったりするのだが、結子はあまり気にしなかった。
 
 そうそう年中ついて歩いていられやしないわ……。
 
 ベンチに、結子は一人で腰をおろしていた。
 
 今日は、いつもおしゃべりしたりする奥さんたちが、一人も来ていない。何しろ、みんな、習いごとで忙しいのよね、今は。
 
 その点、結子は面倒くさがりやで、あまり外に出ない。ただし、自分の洋服とかバッグとかを買う時だけは別である。
 
 退屈ね、本当に……。お昼になったら、もう家へ帰って、テレビでも見せときましょ。
 
 そんなことを考えている内に、いつしか結子はウトウト眠り込んでいった。
 
 ハッと目が覚めて、
 
「——あら、いやだ。寝ちゃったんだわ」
 
 と、頭を振って、公園を見回すと……。
 
 もう、子供たちは、ほとんどいなくなっていた。十二時を過ぎている。
 
 お昼を食べに帰っているのだ。広実も、お腹を空かして——。
 
「広実。——広実ちゃん」
 
 と、結子は立ち上がって、呼んだ。
 
 広実の姿は、どこにも見えなかった。結子は歩きながら、キョロキョロと左右を見回して、広実の姿を探した……。
 
 
 
「ただいま」
 
 と、坂上勝之は、玄関を入って言った。
 
「あなた!」
 
 と、エリが飛び出して来て、勝之はびっくりした。
 
「どうしたんだ?」
 
「大変だったのよ!」
 
 と言われて、勝之の顔色が変った。
 
「何だって? 亜紀子に何か——」
 
「そうじゃないの。そうじゃないけど……」
 
「ワア」
 
 当の亜紀ちゃんが玄関へ這《は》い出して来て勝之はホッとした。
 
「びっくりさせるなよ!」
 
「ごめんなさい。でもね——。ほら、水原さんって、面白い奥さんがいるでしょ」
 
 こういう話にパッとついて行くには、普段から、よほど訓練のできている必要がある。
 
「ああ、あの派手な……」
 
「そう。まだ二四ぐらいの」
 
 と、エリは肯《うなず》いて、夫の上着を受け取りながら、「あそこの子がいなくなってね、ついさっき、見付かったの」
 
「迷子?」
 
「それが、誰か、男の人に連れられてったらしいのよ」
 
「何だって?」
 
 と、勝之は目を丸くして、「でも、あそこの子、まだ小さいだろ」
 
「二つ」
 
「そんな子を、どうして連れてくんだ?」
 
「知らないわ。ともかく連れていかれて、でも、お腹が空いて泣き出したんで、困って置いてったみたい」
 
「ふーん。しかし、無事でよかったな」
 
「ね。——もう大騒ぎ」
 
 やっと話が一段落して、勝之は、夕食にありつくことができたのだった。
 
「——犯人は分らないのかい」
 
 と、勝之は言った。
 
「だって、二歳の子よ。どんな人ったって、話せやしないわ」
 
「そりゃそうだな」
 
 と、勝之は首を振って、「そんな奴が、あちこちを歩き回ってるのかと思うと、ゾッとするな」
 
「本当ね。気を付けないと、亜紀ちゃんも。その内、大きくなったら……」
 
「いつまでも今のままだといいかもしれないけどな」
 
 と、勝之は言った。
 
「まさか」
 
「ヤア」
 
 と、亜紀子が、いやだよ、とでも言うように手を振って、二人は大笑いしたのだった……。
 
 
 
「じゃ、お願いね」
 
 と、エリが言って、足早に行ってしまうと、勝之はベビーカーを押しながら、
 
「さて、どこへ行こうか?」
 
 と、亜紀子に声をかけた。
 
「タァ、タァ」
 
 と、外へ出られて、亜紀ちゃんはご機《き》嫌《げん》である。
 
 暖かな午後で、平日なので人通りも少ない。
 
 久しぶりに休みを取った勝之は、お昼までぐっすり眠って、ついさっき起き出して来たところである。
 
 エリは、大学時代の友だちの出産祝いに外出。この午後は、父と娘の水入らず、というわけだった。
 
 つい、足は公園の方へ向く。何といっても、子供にとって面白いのは、他の子供たちを見ること、なのだから。
 
「——あれが、例の子だな」
 
 と、勝之は呟《つぶや》いた。
 
 広実という、女の子でもつけられる名前をつけている。確かに可愛い子である。
 
 おまけに誰にでもニコニコ笑いかける。人なつっこいのは、悪いことじゃないと思うが、しかし……。
 
 大人を信用するな、と子供に教えなきゃいけないような、そんな時代なんて、いやだな。
 
 しばらく公園を眺めて、勝之はまたベビーカーを押して歩き始めた。
 
「さて、今度はどこに行こうか。——スーパーかい?」
 
 スーパーの大型店の屋上には、小さな遊園地ができていて、亜紀ちゃんのお気に入りである。
 
「よし、それじゃ、二人で小さな電車に乗ろうな」
 
 と、スーパーの方へ足を向け、信号の所で待っていると……。
 
 何やら、足に触るものがある。見下ろすと——広実という子が、ニコニコと笑いながら、勝之のズボンを引っ張っているのだった。
 
「何してるんだい?」
 
 と勝之はびっくりして言った。
 
 そして、ドタドタという足音に振り向くと、五、六人の奥さんたちが、凄《すご》い形相で走って来るのが見えた。——勝之は、青くなったのだった……。
 
 
 
「——お宅のご主人とは知らなくて」
 
 と、水原結子は頭を下げた。「ごめんなさい、本当に」
 
「いいのよ。もうすんだことだし」
 
 と、エリは言った。「もう忘れましょ」
 
「本当に……。ご主人に、申し訳ありませんでしたって」
 
「伝えるわ、大丈夫よ」
 
 結子は、何度も頭を下げながら、帰って行った。
 
「——もう帰ったのか」
 
 と、勝之が出て来る。
 
「ええ」
 
「しかし——厄《やく》日《び》だな、今日は」
 
 勝之はソファに引っくり返った。
 
 ——夫の気持ちは分る。何しろ、変質者扱いされて、交番へ引っ張って行かれたのだから……。
 
 たまたま、その交番にいた巡査が、勝之を知っていたのだ。
 
 母親たちが交替で見張ったり、「自警団」風に、グループを作ったりする、その気持ちも分るのだが……。
 
 エリも、夫に何も言う気になれなかった。
 
「——おい」
 
 台所にいるエリに、勝之が声をかけて来た。
 
「え?」
 
「あの家——水原っていうんだっけ」
 
「そうよ」
 
「一緒にご飯でも食べよう」
 
「あなた——」
 
「互いに亭主の顔も知ってれば、こんなことはないんだし、それに妙な奴のせいで、付合いをやめるなんて、しゃくじゃないか」
 
「本当ね!」
 
 エリはホッとして言った。「でも、あなた——」
 
「何だ?」
 
「本当は、あの奥さんに会いたいんじゃないんでしょうね」
 
 と、エリは言ってやったのだった。
 
 
 強き者、汝《なんじ》の名は……
 
 
 
 
「何だ、これは!」
 
 前田課長の声が響き渡って、みんな一瞬息をのんだ。
 
 坂上勝之は、ゆうべ亜紀ちゃんが遅くまで眠らなかったせいで、欠伸《あくび》していた。——もっとも、前に会議中に欠伸をして、前田課長にひどくやっつけられたので、もちろん今はこっそり隠しながら欠伸していたのである。
 
 そこへ、前田の怒《ど》鳴《な》り声。——一度で目が覚めてしまった。
 
「こんな物が部長へ出せると思ってるのか!」
 
 怒鳴られているのは、まだ新入りの男性で、こういう叱《しか》られ方にあまり慣れていないのだろう、真っ青な顔をしている。
 
「いいか、こんなものは——」
 
 と、言いかけて、前田は言葉を切った。
 
 どうしたんだ? あんまり突然だったので、みんなが振り向いた。
 
「おい!」
 
 勝之が、びっくりして立ち上がった。「課長が——」
 
 前田が、机に突っ伏してしまっている。
 
「あの——僕、何もしていませんよ」
 
 と、怒鳴られていた新人が、あわてて言った。「殴《なぐ》ったりしてませんよ!」
 
「分ってるよ。——おい、手を貸せ。応接室のソファに寝かせよう」
 
 勝之と、他に若い男が二人やって来て、前田を両側から支えるようにして、立たせてやる。
 
「——大丈夫だ。——ちゃんと歩ける」
 
 と、前田は力のない声で言った。
 
 しかし、その実、足に全然力が入らないのである。
 
「——さ、そこに横にして」
 
 勝之は、応接室のソファに前田を寝かせると、「課長。救急車を呼びますか?」
 
 と訊《き》いた。
 
「馬鹿言え。ただめまいがしただけだ。少し横になってりゃ良くなる」
 
 と、前田は言った。
 
「分りました。じゃ、しばらくここで休んでいて下さい」
 
「ああ……」
 
 前田は、息をついて、「四時には出かけるんだ。時間になったら、知らせてくれ」
 
「でも、もう三時半ですよ。三十分ぐらいで出歩いて、大丈夫ですか?」
 
「大丈夫だろうがなかろうが、仕事だ。——仕事となりゃ、しゃんとする」
 
「分りました。——おい、行こう」
 
 こう言い張られては仕方ない。勝之は、他の課員を促して応接室を出た。そして〈使用中〉の札を出しておいた。
 
 勝之は席へ戻ろうとして、ふと思い付き、給湯室を覗《のぞ》いてみた。
 
「あら、坂上さん」
 
「田代君、やっぱりここだったか」
 
 田代令子を、勝之はちょっと廊下へ連れ出すと、
 
「前田課長が、具合悪くて応接室で寝てるんだよ」
 
 と、言った。
 
「え? また?」
 
 田代令子は顔をこわばらせた。
 
「また、って……。前にも何かあったの?」
 
 と、勝之は訊いた。
 
 田代令子は、前田と「親密な仲」の独身OLである。
 
「そうなの。このところ、あんまり具合が良くないみたいなのよ」
 
 と、ため息をついて、「少し休めばいいのに……。自分で体を悪くするようなことばっかりしているんだもの」
 
「君、ちょっと様子を見てあげたら?」
 
「ええ。——ありがとう、わざわざ」
 
 と、田代令子は微笑んだ。
 
 勝之は席に戻りながら、余計なお世話だったかな、と考えていた。
 
 
 
「いやねえ、そんなの」
 
 と、エリは言った。
 
「何のことだい?」
 
「その課長さんと田代さんって女の人のことよ。——無責任だわ」
 
「うん……。そうだな。しかし、他人が口を出すことでもないさ」
 
 と、勝之は言って、「おかわり」
 
 夕食は、いつもの通り三人である。
 
 そろそろ、亜紀ちゃんも、やわらかいものなら食べるようになっている。
 
「食欲が出て来たら、もう太り出しちゃった。いやだわ、女の子なのに」
 
 と、エリが早々と心配している。
 
「たてにのびたり、横にのびたりして、ちゃんとバランスを取るさ。なあ、亜紀ちゃん」
 
「ワア」
 
 と、手を振り回して、もっとよこせ、と労働者のデモの如く要求している。
 
「あら、電話」
 
「出るよ」
 
 勝之が急いで電話に出る。「——もしもし。——どなた?」
 
「坂上さん! 私、田代よ」
 
「やあ、どうしたんだい?」
 
「あのね、悪いんだけど……。すぐに出て来られない?」
 
「今?」
 
「ええ。——前田課長が倒れちゃったの」
 
 勝之は目を見開いて、
 
「どこで?」
 
「あの——ホテルなのよ」
 
 勝之も了解した。まさか、田代令子がついて病院へ運ぶというわけにもいくまい。
 
「分った。——すぐ行くよ。どこだい場所は?」
 
 エリがけげんな顔でやって来る。亜紀ちゃんが早く食べさせて、と主張して、にぎやかに声を上げていた。
 
 
 
「——もう大丈夫ですよ」
 
 と、眠そうな顔をした医師が、勝之に言った。
 
「何か特に原因が……」
 
「色々ですな」
 
 と、医師はあっさり言った。「肝臓、血圧、その他、検査すりゃ色々出て来ますよ、きっと」
 
「そんなに、ですか」
 
「過労ですね、要は。少しリラックスしないと、それこそ本当に要入院ってことになります」
 
「はあ」
 
 俺に言われてもね、と勝之は思った。「——話しても大丈夫ですか?」
 
「構いませんよ」
 
 と、医師は肩をすくめて、「目下のところは、要注意ですな」
 
「どうも」
 
 勝之は、診察室の中へ入って行った。
 
「——坂上か」
 
 固い寝台の上に、前田が寝ている。「あいつ、余計なことをして……」
 
 いつも、こんな風に前田のことを見たことはなかったが、確かに顔色は良くない。
 
「過労だそうですよ、課長。少しアルコールの方を控えるとかして……」
 
「大きな世話だ」
 
 勝之はムッとした。——しかし、こんな所で喧嘩を始めるわけにもいかない。
 
「奥さんがみえますよ」
 
「一人で帰れる。明日は早いんだ」
 
 前田は、そろそろと起き上がった。
 
「でも、課長、もうお宅に連絡してありますから——」
 
「帰れる。放っときゃいい」
 
 前田は上着をつかむと、診察室を出た。
 
「でも、奥さんが——。課長」
 
 廊下へ出ると、コートをはおった女性が、立っていた。
 
「——何だ」
 
 前田が、目を伏せた。「もう来てたのか」
 
「奥様ですか。さっきお電話をさし上げた坂上です」
 
 と、勝之は挨《あい》拶《さつ》した。
 
「まあ、どうも申し訳ありません。お手数をかけて」
 
 意外にも——と言うのも妙だが——前田の妻は、上品な、ふっくらとした女性で、どことなくいい育ちを思わせる、おっとりとした印象があった。
 
「お医者様は? お話をうかがわないと」
 
「そんな必要はない。車か?」
 
「タクシーが待たせてあるわ」
 
「じゃ、行くぞ」
 
「でも、あなた……」
 
 前田は、さっさと行ってしまう。夫人の方は、あわてて、
 
「あの——すみませんでした。坂上さんですね。改めて、あの——」
 
 と言いながら、夫の後を追いかけて行った。
 
「やれやれ……」
 
 一緒に飲んでいて、気分が悪くなったということにするために、勝之もわざわざ背広にネクタイという格好をして来たのだ。
 
 ああいう奴は、一度入院でもしなきゃだめなんだ、と勝之は思った。
 
 
 
「ごめん下さい」
 
 玄関の方で声がして、エリは起き上がった。
 
 ちょうど亜紀ちゃんが眠そうだったので、寝かしつけていたのである。
 
 いやだわ。玄関の鍵、かけるの忘れてたんだ。
 
 保険の勧誘にでも来られたんだと面倒だな……。
 
 おそるおそる玄関へ出ると、
 
「——坂上さんの奥様でいらっしゃいますか」
 
 と、割合に上品な感じの婦人が立っている。
 
「はあ」
 
「前田と申します」
 
「前田……。あ、課長さんの?」
 
 エリはびっくりして、「ど、どうぞ!」
 
 と、あわててスリッパを出した。
 
「——お構いなく」
 
 と、前田夫人はソファに浅く腰をおろして、「ゆうべは主人のことで、色々ご迷惑を」
 
「いいえ。——もう、よろしいんですか」
 
 と、エリは訊いた。
 
「今日も夕方から出張だと申してました。大分つらそうでしたけど」
 
「まあ……。無理をされると——」
 
「何度申しても、聞きませんの」
 
 と、諦《あきら》めたように微《ほほ》笑《え》んで、「昨日、主人は本当にお宅のご主人と一緒だったんでしょうか」
 
「え?」
 
「いえ……。こんなことおうかがいして、妙ですけど、主人、誰か女の人と一緒だったんじゃないかと思いまして。——いかがでしょう」
 
 エリも、まだ若い。特に、前田が会社の独身OLと付合っていることに、抵抗もある。つい、目を合わせるのが辛《つら》くて、目を伏せてしまった。
 
「——そうでしょうね」
 
 と、夫人は肯《うなず》いた。「私が——こんな風に太ってますけど、体があまり丈夫でないものですからね。主人も、つい他に女性を……」
 
「奥様——」
 
「でも、体をこわされるのが、一番心配なんです。主人が寝込んだら、本当に困ってしまいますし。娘が一人いるんですけど、まだ中学生ですから。一人前になるには、しばらくかかりますし」
 
「ご主人にも、そうおっしゃって——」
 
「聞きゃしませんよ。仕事、仕事ですもの」
 
 と、夫人が肩をすくめる。
 
 エリが顔を紅潮させると、何を思ったのかパッと立ち上がって、電話を手にコードを引っ張りながら戻って来る。そして、呆《あつ》気《け》に取られている夫人の前に、それを置いた。
 
「会社へ電話なさったらどうですか」
 
 と、エリは言った。
 
「私が?」
 
「ご主人でなく、その上の方《かた》に。——男だから、仕事で倒れても本望だ、なんて間違ってます。男は一人で生きてるんじゃありません。家族が男の生活を支えてるんです。だから、少し休ませて下さい、ぐらいのこと、要求したって構わないんじゃありませんか」
 
「でも——」
 
「もしご主人がまた倒れて、今度こそ入院ってことになったら、次には看護疲れで、奥さんが倒れてしまうかもしれませんよ。そしたら、どうなさるんですか」
 
 エリの強い口調に、夫人の方も言葉が出ない様子だった。
 
 ——亜紀ちゃんが、完全に眠っていなかったらしく、また泣き出した。エリは急いで立って行って抱っこして来た。
 
「——女の子さん? 可《か》愛《わい》いですね」
 
 と、夫人が言った。「主人も、娘がそんなころには、よく抱いて歩いてました……」
 
 独り言のように呟《つぶや》くと、少し間を置いて、前田夫人は立ち上がった。
 
「お邪魔しました」
 
「いえ……つい、偉そうなことを申し上げてしまって、すみません」
 
 と、エリは言った。
 
「とんでもない」
 
 玄関へ出て靴をはくと、夫人は言った。「私、これから会社へ行って、主人を引っ張って帰りますわ!」
 
 夫人はニッコリ笑って出て行った。見違えるような明るい笑顔だった。
 
「——そう! 病気したら人間、何もやれないわ。ねえ、亜紀ちゃん?」
 
 と、呼びかけてみると……。
 
 亜紀ちゃんは、スヤスヤと眠っているのだった。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%