「ゆうべは危なかったのよね」
と、近所の奥さんが言った。
「あら、それじゃ、断われば良かったのに」
と言い出したのは、坂上エリよりも四つも年下ながら、もう二歳になる男の子のいる、水原結子という主婦。
主婦ったって、こんな風に近所の奥さん四、五人集まると、水原結子はひときわ目立つ。何しろその格好たるや、どう見たって、お洒《しや》落《れ》な女子大生……。
「断わるって?」
と、初めに口を開いた奥さんが、不思議そうに訊《き》き返すと、水原結子は、
「だって、ゆうべは出来ちゃいそうな時期だったんでしょ? そんな時は、いくら旦那が要求して来ても、断固、拒否すりゃいいのよ!」
と、主張した。
「あ——いえ、そうじゃないのよ。そんなことじゃないの」
「あら、違うの? また、私って早とちりで、ハハハ」
当の水原結子があっけらかんと笑っていて、周囲の奥さんたちの方が照れて赤くなったりしている。
そこに加わっていたエリも、吹き出しそうになるのを、何とかこらえていた。何を言っても、怒る気になれないのが、水原結子の得なところかもしれない。
「うちの隣にね、小学生の女の子がいるのよ。四年生かな。可《か》愛《わい》い子でね、ちょっとモデルにでもしたくなるような」
と、その奥さんが話し始めた。「その子がゆうべピアノのおけいこに行って、帰りに、変な男の人に声かけられてね。車に乗ってて、『道を教えてくれないか』って言ったらしいのね」
「まあ」
と、他の奥さんたちも、真剣な表情になる。
「で、その子が車に近付いて、道を説明しようとしたら、いきなり車の中に——」
「引っ張り込まれたの?」
「ちょうどうまい具合に、ソバ屋の出前の人が通りかかったんですって。女の子が大声を出したんで、車は逃げちゃったそうよ」
「良かったわねえ」
「泣いて帰って来て、お隣の奥さんがびっくりして……。もちろん警察にも届けたらしいけど」
「何てことでしょ!」
——同じ子供を持つ母親として、子供を狙《ねら》った犯罪くらい、腹の立つものはない。
それはエリだって同じだ。いくら亜紀子が小さいといったって、ほんの十年もすれば、立派な「女の子」である。
「お隣じゃ、ピアノをやめさせるか、必ずお母さんが付添うか、どうするか、って頭をかかえてるみたい」
「分るわ。——変な男が多いのよね。本当に」
みんなが黙って肯《うなず》き合った。
小さな子を狙えば、犯人の顔だってはっきり憶えていないだろう。——そういう「計算」が見えるのも、腹が立つ。
「充分用心しましょうね」
と、一人の奥さんが言って、みんなは口々に、
「何か考えなきゃね」
「交替で見てるとか……」
「いつもいつも、連れて歩けないしねえ」
などと言い合っている。
一人、水原結子が、のんびりと髪の乱れを気にしていた……。
暖かい日だった。
水原結子は、二歳の広実を、公園で遊ばせていた。
近所の子供たちも大勢来て、一緒に遊んでいる。——まあ、時には喧嘩もするし、ワーッと泣き出す子、けがをする子、色々いるが、それなりに楽しくやっていた。
広実は、人なつっこい。一人っ子なのに、人見知りということもしない子である。
結子の夫は、いつも、
「お前に似て社交的なんだ」
と、笑う。
まあ、そうかもしれないわ……。結子も反対はしなかった。
広実、なんて名をつけるのに、夫はちょっといやな顔をした。女の子みたいじゃないか、というわけだ。
でも、これからは男だって可愛い方がいい時代なのよ、と結子が頑張って、押し通してしまったのだ。
そして実際、広実は女の子みたいに可愛かった。目がパッチリして、笑うとえくぼなんかできて……。
「あら、可愛い」
と、通りすがりの奥さんなんかが、言い合っているのを聞くと、結子はいささかいい気分だった。
そうよ。何しろ、「母親似」なんだからね!
もう二歳ともなると、チョコチョコよく歩いて、結構遠くまで行ってしまったりするのだが、結子はあまり気にしなかった。
そうそう年中ついて歩いていられやしないわ……。
ベンチに、結子は一人で腰をおろしていた。
今日は、いつもおしゃべりしたりする奥さんたちが、一人も来ていない。何しろ、みんな、習いごとで忙しいのよね、今は。
その点、結子は面倒くさがりやで、あまり外に出ない。ただし、自分の洋服とかバッグとかを買う時だけは別である。
退屈ね、本当に……。お昼になったら、もう家へ帰って、テレビでも見せときましょ。
そんなことを考えている内に、いつしか結子はウトウト眠り込んでいった。
ハッと目が覚めて、
「——あら、いやだ。寝ちゃったんだわ」
と、頭を振って、公園を見回すと……。
もう、子供たちは、ほとんどいなくなっていた。十二時を過ぎている。
お昼を食べに帰っているのだ。広実も、お腹を空かして——。
「広実。——広実ちゃん」
と、結子は立ち上がって、呼んだ。
広実の姿は、どこにも見えなかった。結子は歩きながら、キョロキョロと左右を見回して、広実の姿を探した……。
「ただいま」
と、坂上勝之は、玄関を入って言った。
「あなた!」
と、エリが飛び出して来て、勝之はびっくりした。
「どうしたんだ?」
「大変だったのよ!」
と言われて、勝之の顔色が変った。
「何だって? 亜紀子に何か——」
「そうじゃないの。そうじゃないけど……」
「ワア」
当の亜紀ちゃんが玄関へ這《は》い出して来て勝之はホッとした。
「びっくりさせるなよ!」
「ごめんなさい。でもね——。ほら、水原さんって、面白い奥さんがいるでしょ」
こういう話にパッとついて行くには、普段から、よほど訓練のできている必要がある。
「ああ、あの派手な……」
「そう。まだ二四ぐらいの」
と、エリは肯《うなず》いて、夫の上着を受け取りながら、「あそこの子がいなくなってね、ついさっき、見付かったの」
「迷子?」
「それが、誰か、男の人に連れられてったらしいのよ」
「何だって?」
と、勝之は目を丸くして、「でも、あそこの子、まだ小さいだろ」
「二つ」
「そんな子を、どうして連れてくんだ?」
「知らないわ。ともかく連れていかれて、でも、お腹が空いて泣き出したんで、困って置いてったみたい」
「ふーん。しかし、無事でよかったな」
「ね。——もう大騒ぎ」
やっと話が一段落して、勝之は、夕食にありつくことができたのだった。
「——犯人は分らないのかい」
と、勝之は言った。
「だって、二歳の子よ。どんな人ったって、話せやしないわ」
「そりゃそうだな」
と、勝之は首を振って、「そんな奴が、あちこちを歩き回ってるのかと思うと、ゾッとするな」
「本当ね。気を付けないと、亜紀ちゃんも。その内、大きくなったら……」
「いつまでも今のままだといいかもしれないけどな」
と、勝之は言った。
「まさか」
「ヤア」
と、亜紀子が、いやだよ、とでも言うように手を振って、二人は大笑いしたのだった……。
「じゃ、お願いね」
と、エリが言って、足早に行ってしまうと、勝之はベビーカーを押しながら、
「さて、どこへ行こうか?」
と、亜紀子に声をかけた。
「タァ、タァ」
と、外へ出られて、亜紀ちゃんはご機《き》嫌《げん》である。
暖かな午後で、平日なので人通りも少ない。
久しぶりに休みを取った勝之は、お昼までぐっすり眠って、ついさっき起き出して来たところである。
エリは、大学時代の友だちの出産祝いに外出。この午後は、父と娘の水入らず、というわけだった。
つい、足は公園の方へ向く。何といっても、子供にとって面白いのは、他の子供たちを見ること、なのだから。
「——あれが、例の子だな」
と、勝之は呟《つぶや》いた。
広実という、女の子でもつけられる名前をつけている。確かに可愛い子である。
おまけに誰にでもニコニコ笑いかける。人なつっこいのは、悪いことじゃないと思うが、しかし……。
大人を信用するな、と子供に教えなきゃいけないような、そんな時代なんて、いやだな。
しばらく公園を眺めて、勝之はまたベビーカーを押して歩き始めた。
「さて、今度はどこに行こうか。——スーパーかい?」
スーパーの大型店の屋上には、小さな遊園地ができていて、亜紀ちゃんのお気に入りである。
「よし、それじゃ、二人で小さな電車に乗ろうな」
と、スーパーの方へ足を向け、信号の所で待っていると……。
何やら、足に触るものがある。見下ろすと——広実という子が、ニコニコと笑いながら、勝之のズボンを引っ張っているのだった。
「何してるんだい?」
と勝之はびっくりして言った。
そして、ドタドタという足音に振り向くと、五、六人の奥さんたちが、凄《すご》い形相で走って来るのが見えた。——勝之は、青くなったのだった……。
「——お宅のご主人とは知らなくて」
と、水原結子は頭を下げた。「ごめんなさい、本当に」
「いいのよ。もうすんだことだし」
と、エリは言った。「もう忘れましょ」
「本当に……。ご主人に、申し訳ありませんでしたって」
「伝えるわ、大丈夫よ」
結子は、何度も頭を下げながら、帰って行った。
「——もう帰ったのか」
と、勝之が出て来る。
「ええ」
「しかし——厄《やく》日《び》だな、今日は」
勝之はソファに引っくり返った。
——夫の気持ちは分る。何しろ、変質者扱いされて、交番へ引っ張って行かれたのだから……。
たまたま、その交番にいた巡査が、勝之を知っていたのだ。
母親たちが交替で見張ったり、「自警団」風に、グループを作ったりする、その気持ちも分るのだが……。
エリも、夫に何も言う気になれなかった。
「——おい」
台所にいるエリに、勝之が声をかけて来た。
「え?」
「あの家——水原っていうんだっけ」
「そうよ」
「一緒にご飯でも食べよう」
「あなた——」
「互いに亭主の顔も知ってれば、こんなことはないんだし、それに妙な奴のせいで、付合いをやめるなんて、しゃくじゃないか」
「本当ね!」
エリはホッとして言った。「でも、あなた——」
「何だ?」
「本当は、あの奥さんに会いたいんじゃないんでしょうね」
と、エリは言ってやったのだった。
強き者、汝《なんじ》の名は……
「何だ、これは!」
前田課長の声が響き渡って、みんな一瞬息をのんだ。
坂上勝之は、ゆうべ亜紀ちゃんが遅くまで眠らなかったせいで、欠伸《あくび》していた。——もっとも、前に会議中に欠伸をして、前田課長にひどくやっつけられたので、もちろん今はこっそり隠しながら欠伸していたのである。
そこへ、前田の怒《ど》鳴《な》り声。——一度で目が覚めてしまった。
「こんな物が部長へ出せると思ってるのか!」
怒鳴られているのは、まだ新入りの男性で、こういう叱《しか》られ方にあまり慣れていないのだろう、真っ青な顔をしている。
「いいか、こんなものは——」
と、言いかけて、前田は言葉を切った。
どうしたんだ? あんまり突然だったので、みんなが振り向いた。
「おい!」
勝之が、びっくりして立ち上がった。「課長が——」
前田が、机に突っ伏してしまっている。
「あの——僕、何もしていませんよ」
と、怒鳴られていた新人が、あわてて言った。「殴《なぐ》ったりしてませんよ!」
「分ってるよ。——おい、手を貸せ。応接室のソファに寝かせよう」
勝之と、他に若い男が二人やって来て、前田を両側から支えるようにして、立たせてやる。
「——大丈夫だ。——ちゃんと歩ける」
と、前田は力のない声で言った。
しかし、その実、足に全然力が入らないのである。
「——さ、そこに横にして」
勝之は、応接室のソファに前田を寝かせると、「課長。救急車を呼びますか?」
と訊《き》いた。
「馬鹿言え。ただめまいがしただけだ。少し横になってりゃ良くなる」
と、前田は言った。
「分りました。じゃ、しばらくここで休んでいて下さい」
「ああ……」
前田は、息をついて、「四時には出かけるんだ。時間になったら、知らせてくれ」
「でも、もう三時半ですよ。三十分ぐらいで出歩いて、大丈夫ですか?」
「大丈夫だろうがなかろうが、仕事だ。——仕事となりゃ、しゃんとする」
「分りました。——おい、行こう」
こう言い張られては仕方ない。勝之は、他の課員を促して応接室を出た。そして〈使用中〉の札を出しておいた。
勝之は席へ戻ろうとして、ふと思い付き、給湯室を覗《のぞ》いてみた。
「あら、坂上さん」
「田代君、やっぱりここだったか」
田代令子を、勝之はちょっと廊下へ連れ出すと、
「前田課長が、具合悪くて応接室で寝てるんだよ」
と、言った。
「え? また?」
田代令子は顔をこわばらせた。
「また、って……。前にも何かあったの?」
と、勝之は訊いた。
田代令子は、前田と「親密な仲」の独身OLである。
「そうなの。このところ、あんまり具合が良くないみたいなのよ」
と、ため息をついて、「少し休めばいいのに……。自分で体を悪くするようなことばっかりしているんだもの」
「君、ちょっと様子を見てあげたら?」
「ええ。——ありがとう、わざわざ」
と、田代令子は微笑んだ。
勝之は席に戻りながら、余計なお世話だったかな、と考えていた。
「いやねえ、そんなの」
と、エリは言った。
「何のことだい?」
「その課長さんと田代さんって女の人のことよ。——無責任だわ」
「うん……。そうだな。しかし、他人が口を出すことでもないさ」
と、勝之は言って、「おかわり」
夕食は、いつもの通り三人である。
そろそろ、亜紀ちゃんも、やわらかいものなら食べるようになっている。
「食欲が出て来たら、もう太り出しちゃった。いやだわ、女の子なのに」
と、エリが早々と心配している。
「たてにのびたり、横にのびたりして、ちゃんとバランスを取るさ。なあ、亜紀ちゃん」
「ワア」
と、手を振り回して、もっとよこせ、と労働者のデモの如く要求している。
「あら、電話」
「出るよ」
勝之が急いで電話に出る。「——もしもし。——どなた?」
「坂上さん! 私、田代よ」
「やあ、どうしたんだい?」
「あのね、悪いんだけど……。すぐに出て来られない?」
「今?」
「ええ。——前田課長が倒れちゃったの」
勝之は目を見開いて、
「どこで?」
「あの——ホテルなのよ」
勝之も了解した。まさか、田代令子がついて病院へ運ぶというわけにもいくまい。
「分った。——すぐ行くよ。どこだい場所は?」
エリがけげんな顔でやって来る。亜紀ちゃんが早く食べさせて、と主張して、にぎやかに声を上げていた。
「——もう大丈夫ですよ」
と、眠そうな顔をした医師が、勝之に言った。
「何か特に原因が……」
「色々ですな」
と、医師はあっさり言った。「肝臓、血圧、その他、検査すりゃ色々出て来ますよ、きっと」
「そんなに、ですか」
「過労ですね、要は。少しリラックスしないと、それこそ本当に要入院ってことになります」
「はあ」
俺に言われてもね、と勝之は思った。「——話しても大丈夫ですか?」
「構いませんよ」
と、医師は肩をすくめて、「目下のところは、要注意ですな」
「どうも」
勝之は、診察室の中へ入って行った。
「——坂上か」
固い寝台の上に、前田が寝ている。「あいつ、余計なことをして……」
いつも、こんな風に前田のことを見たことはなかったが、確かに顔色は良くない。
「過労だそうですよ、課長。少しアルコールの方を控えるとかして……」
「大きな世話だ」
勝之はムッとした。——しかし、こんな所で喧嘩を始めるわけにもいかない。
「奥さんがみえますよ」
「一人で帰れる。明日は早いんだ」
前田は、そろそろと起き上がった。
「でも、課長、もうお宅に連絡してありますから——」
「帰れる。放っときゃいい」
前田は上着をつかむと、診察室を出た。
「でも、奥さんが——。課長」
廊下へ出ると、コートをはおった女性が、立っていた。
「——何だ」
前田が、目を伏せた。「もう来てたのか」
「奥様ですか。さっきお電話をさし上げた坂上です」
と、勝之は挨《あい》拶《さつ》した。
「まあ、どうも申し訳ありません。お手数をかけて」
意外にも——と言うのも妙だが——前田の妻は、上品な、ふっくらとした女性で、どことなくいい育ちを思わせる、おっとりとした印象があった。
「お医者様は? お話をうかがわないと」
「そんな必要はない。車か?」
「タクシーが待たせてあるわ」
「じゃ、行くぞ」
「でも、あなた……」
前田は、さっさと行ってしまう。夫人の方は、あわてて、
「あの——すみませんでした。坂上さんですね。改めて、あの——」
と言いながら、夫の後を追いかけて行った。
「やれやれ……」
一緒に飲んでいて、気分が悪くなったということにするために、勝之もわざわざ背広にネクタイという格好をして来たのだ。
ああいう奴は、一度入院でもしなきゃだめなんだ、と勝之は思った。
「ごめん下さい」
玄関の方で声がして、エリは起き上がった。
ちょうど亜紀ちゃんが眠そうだったので、寝かしつけていたのである。
いやだわ。玄関の鍵、かけるの忘れてたんだ。
保険の勧誘にでも来られたんだと面倒だな……。
おそるおそる玄関へ出ると、
「——坂上さんの奥様でいらっしゃいますか」
と、割合に上品な感じの婦人が立っている。
「はあ」
「前田と申します」
「前田……。あ、課長さんの?」
エリはびっくりして、「ど、どうぞ!」
と、あわててスリッパを出した。
「——お構いなく」
と、前田夫人はソファに浅く腰をおろして、「ゆうべは主人のことで、色々ご迷惑を」
「いいえ。——もう、よろしいんですか」
と、エリは訊いた。
「今日も夕方から出張だと申してました。大分つらそうでしたけど」
「まあ……。無理をされると——」
「何度申しても、聞きませんの」
と、諦《あきら》めたように微《ほほ》笑《え》んで、「昨日、主人は本当にお宅のご主人と一緒だったんでしょうか」
「え?」
「いえ……。こんなことおうかがいして、妙ですけど、主人、誰か女の人と一緒だったんじゃないかと思いまして。——いかがでしょう」
エリも、まだ若い。特に、前田が会社の独身OLと付合っていることに、抵抗もある。つい、目を合わせるのが辛《つら》くて、目を伏せてしまった。
「——そうでしょうね」
と、夫人は肯《うなず》いた。「私が——こんな風に太ってますけど、体があまり丈夫でないものですからね。主人も、つい他に女性を……」
「奥様——」
「でも、体をこわされるのが、一番心配なんです。主人が寝込んだら、本当に困ってしまいますし。娘が一人いるんですけど、まだ中学生ですから。一人前になるには、しばらくかかりますし」
「ご主人にも、そうおっしゃって——」
「聞きゃしませんよ。仕事、仕事ですもの」
と、夫人が肩をすくめる。
エリが顔を紅潮させると、何を思ったのかパッと立ち上がって、電話を手にコードを引っ張りながら戻って来る。そして、呆《あつ》気《け》に取られている夫人の前に、それを置いた。
「会社へ電話なさったらどうですか」
と、エリは言った。
「私が?」
「ご主人でなく、その上の方《かた》に。——男だから、仕事で倒れても本望だ、なんて間違ってます。男は一人で生きてるんじゃありません。家族が男の生活を支えてるんです。だから、少し休ませて下さい、ぐらいのこと、要求したって構わないんじゃありませんか」
「でも——」
「もしご主人がまた倒れて、今度こそ入院ってことになったら、次には看護疲れで、奥さんが倒れてしまうかもしれませんよ。そしたら、どうなさるんですか」
エリの強い口調に、夫人の方も言葉が出ない様子だった。
——亜紀ちゃんが、完全に眠っていなかったらしく、また泣き出した。エリは急いで立って行って抱っこして来た。
「——女の子さん? 可《か》愛《わい》いですね」
と、夫人が言った。「主人も、娘がそんなころには、よく抱いて歩いてました……」
独り言のように呟《つぶや》くと、少し間を置いて、前田夫人は立ち上がった。
「お邪魔しました」
「いえ……つい、偉そうなことを申し上げてしまって、すみません」
と、エリは言った。
「とんでもない」
玄関へ出て靴をはくと、夫人は言った。「私、これから会社へ行って、主人を引っ張って帰りますわ!」
夫人はニッコリ笑って出て行った。見違えるような明るい笑顔だった。
「——そう! 病気したら人間、何もやれないわ。ねえ、亜紀ちゃん?」
と、呼びかけてみると……。
亜紀ちゃんは、スヤスヤと眠っているのだった。