「おい、坂上」
と、午後の仕事が始まるとすぐ、課長の前田が声をかけて来た。
「はい、課長」
坂上勝之は、開き始めた書類をそのままにして、席を立った。「——何か?」
「うん。今夜の会議なんだが」
と、前田は手帳を開いて見ながら、「うっかりして、他の接待とかち合っちまったんだ。すまんが代わりに——」
「だめです」
と、勝之はアッサリ言った。
「だめ……?」
「申し訳ありませんが、今日はどうしても、定時で帰らせていただきます」
勝之の言い方は、穏やかではあったが、頑として譲らないという意志がはっきりとしていた。前田の方は、怒るよりも呆《あつ》気《け》に取られてしまって、
「——そうか。じゃ、いい」
「よろしく」
勝之は頭を下げて、さっさと席へ戻って行った。
前田は、渋い顔で勝之の方をにらんでいたが、体の具合を悪くした時に、勝之に少々手数をかけたこともあるし、妻もそのことを知っていたし……。ま、借りがあるので、うるさくも言えない、ということだろうか。
「全く、今の若い奴は、仕事ってもんを、何だと思ってるんだ」
と、ブツクサ呟《つぶや》きながら、「誰を代わりに出すかな」
と、顎《あご》をなでつつ、課の中を見回した。
机の電話が鳴る。前田は受話器を取った。
「前田です」
「あの、私です」
田代令子だ。「今、下からかけてます」
「そうか。何か用事で?」
前田は少し素気ない口調で言った。社内の愛人からの電話では、特に用心しなくては。
「今日は、坂上さんを早く帰してあげてね」
「何だと?」
前田は目を丸くした。
「ずいぶんお世話になったでしょう」
「そりゃ分ってるが……。何だっていうんだ?」
「今日はね——」
と、田代令子は言った。
「ちょっと、坂上さん」
まずい、と美由紀は足を止めて舌を出した。
でも、振り向いた時には、もちろんにこやかな笑顔になっていた。
「あ、先輩」
クラブの先輩が、しかめっつらをして立っていた。
「何よ、今日は出られません、って。どういうこと?」
と、先輩は美由紀の書いたメモを手にしていた。
「あの……ちょっと家で大事な用があって」
「いくら大事な用か知らないけど、みんな無理して出てるのよ。分ってるんでしょ」
「はい」
「じゃ、出るわね」
先輩は、美由紀のメモをクシャッと握りつぶした。——美由紀は頬《ほお》を紅潮させた。
負けちゃいないのが、美由紀の性格である。
「出られるのなら、初めから出ます」
と、美由紀は、先輩の目を真っ直ぐに見て、言った。「私、そんなにいい加減にクラブのことを考えていません」
先輩はムカッとした様子で、
「何よ、その言い方は!」
と、にらみつけた。
二人の視線がぶつかって火花を散らした。
——学校の廊下である。通りかかった他の生徒たちが、何事かと足を止めて眺めている。
まずい、と美由紀は思った。みんなが見ていては、先輩の方も、ますます意地になるだろう。
「今日は、私の姪《めい》っ子の一歳の誕生日なんです。みんなで集まってお祝いしようってことになってるんです。——お願いします。後で何でもやりますから、今日だけは帰らせて下さい」
今の学校では、先生は友だち扱いだが、先輩後輩の関係は厳しい。——美由紀としても、かなりの度胸が必要だった。
「誕生日?」
と、先輩が訊き返した。
「ええ。満一歳なんです」
何だか、先輩はポカンとしていた。——どうしたのかしら、と美由紀が不思議に思っていると——。
「誕生日だ!」
と、先輩が突然飛び上がった。
「どうしたんですか?」
と、美由紀が目を丸くする。
「今日、私の誕生日なのに!」
と、顔を真っ赤にして、「うちの連中も、みんな忘れてる! 許さないから!」
「はあ……」
「今日はクラブ中止! 思い切り高いレストランに連れて行かせるんだ!」
堂々と宣言して(?)、先輩は行ってしまった。——美由紀はポカンとして、それを見送っているのだった……。
「さあ、これでよし、と……」
坂上エリは、息をついて、呟《つぶや》いた。
額に手をやると、汗をかいている。——実際午前中から、買物や料理の仕度に、大忙しだったのである。
亜紀ちゃん、満一歳のお誕生日なのだ。
今夜は、家族三人と美由紀、それに夫の両親もやって来て、お祝いをすることになっている。エリが張り切っているのも、当然だろう。
もちろん、主役の亜紀ちゃんは、まだ大したものは食べられないが、一応、可《か》愛《わい》いバースデーケーキも、エリの手作りで、ローソクを一本だけ立てて……。
エリは時計を見た。
——もうこんな時間!
亜紀ちゃん、起きたかしら? お昼寝しているので、これ幸い、と台所に立っていたのだが……。
そろそろ目を覚ますころだろう。
タオルで手を拭いていると、インタホンが鳴った。
「——美由紀です」
「あら、早かったのね」
急いで玄関へ出て行く。
「クラブの方は、いいの?」
「うん。今日はなくなったの、うまい具合に。——わあ、いい匂い!」
と、美由紀は飛びはねそうな勢い。
「ちょっとあのお鍋を見ててね。亜紀ちゃんが起きているかどうか見て来るわ」
「うん」
エリは、奥の部屋へ入って行ったが——。
「亜紀ちゃん!」
と、エリが大声を出すのを聞いて、美由紀は仰天して飛び上がった。
何かあったのか?——まさか!
「お義《ね》姉《え》さん! どうしたの!」
と、駆《か》けて行くと、——エリはポカンとして突っ立っているし、亜紀ちゃんは?
いつもの通り、ちょこんと座って——これもいつもの通り、パパを嘆かせているのだが——パパが毎月買って来ている経済誌を、ビリビリ、一ページずつ、感心するほどのていねいさで、破っているのだった。
「ワアワア」
と、美由紀の顔を見ると、喜んで手を振る。
「ほら、お姉ちゃんが来たぞ! 亜紀ちゃん!」
と、美由紀が、頬っぺたをつっついてやると、亜紀ちゃん、キャッキャッと喜んでいる。
「元気そう。——ね、お義姉さん、何をびっくりしてたの?」
「え? ああ……」
と、エリは息をついて、「入って来たらね、亜紀ちゃんが雑誌を引きずって、立ってたの」
「へえ。それが——」
と、言いかけて目を丸くし、「立ってたの? 本当に?」
「うん……。夢でも見たんでなきゃ、本当だわ」
と、エリは言って笑った。
もちろん、一歳の子が立ったり、よちよち歩くというのは珍しい話じゃない。まあ、一歳の子がタップダンスを踊ったら、これは誰でもびっくりするだろうが。
ただ、当の親にとっては、我が子がいつ立ち上がって、いつ歩くか、というのは大問題である。
亜紀ちゃんも、近所の同じくらいの子が次々につかまり立ち歩いたり、すぐにつかまらずに歩いたりしている中、悠然と(?)這《は》い這《は》いを続けていた。
別に、それで深刻に悩むわけではないにしても、エリも、そろそろ立ってくれないかしら、と思っているところだったのである。
「やったね!」
と、美由紀はパチンと指を鳴らして、「お兄さんに知らせよう」
「オーバーよ。それにもう、会社を出てると思うわ」
と、エリは笑って言った。
五時のチャイムが鳴ると、勝之はパッと机の上を片付けて、立ち上がった。
帰りに、どこかでシャンパンを買って来てね、と、エリから頼まれている。——急がなきゃ。
「じゃ、お先に」
と、帰りかけると、
「おい、坂上」
と、前田が呼んだので、勝之はドキッとした。
「はい……。課長、何でしょう?」
と、少々用心しながら机の前に立つと、
「これを——」
と、前田は机の引出しから、リボンをかけた小さな箱を出して、「娘さんの誕生日祝いだ」
少し、照れた顔だった。
「課長」
「俺と、田代君からだ」
と、前田は少し声を低くして言った。「もちろん、買ったのは彼女だ」
「そうですか……。ありがたく、ちょうだいします」
「うん。——田代君は今月で辞めるんだ。故郷へ帰るんだよ」
前田の言葉は、いつになく穏やかだった。「君には礼を言ってくれ、とのことだ」
勝之は、手の中の小さな箱を、そっと握った……。
そして——。
夜、七時。夕食の席の真ん中には、エリの手作りのバースデーケーキが陣取り、勝之も、美由紀も、勝之の両親も席について、にぎやかにお祝いを——しているはずだったのだが……。
みんな、いやに静かだった。目の前の料理には手もついていない。
エリが、奥の部屋から出て来た。
「困ったわ。ぐっすり眠っちゃってるの」
と、弱り果てた様子。
「参ったな……」
と、勝之がため息をついた。「ともかく、みんな集まってるんだし……」
「でも、起こしたら、泣くだけよ」
「昼間、ちゃんと寝かせときゃ良かったんだ」
「ええ。——すみません、お義《か》母《あ》さん」
「いいのよ。夜は長いわ。もう少し待ちましょう」
「ええ……」
エリは、泣きたい気分である。
「お兄さん」
と、美由紀が言った。「そんなこと言っちゃ、お義姉さん、可《か》哀《わい》そうよ。これだけの仕度するのが、どんなに大変か分る? ずっと亜紀ちゃんのこと見てたら、こんな用意、できなかったのよ」
「そりゃ分ってるよ」
「いいのよ、美由紀さん。ありがとう」
と、エリが微《ほほ》笑《え》んだ。
「いや、全くだ」
と、坂上康俊が肯《うなず》いて言った。「お祝いといっても、当人にはまだ分らんのだ。大人の都合に、赤ちゃんが合わせてくれんからと言って、文句を言うのは勝手だよ」
「そうだそうだ」
と、美由紀が拍手した。
「よし。ケーキのローソクは後にして、我々で乾杯しようじゃないか」
グラスにシャンパンが注がれる。美由紀もこれくらいは飲めるのである。
「じゃ——亜紀ちゃんの一歳の誕生日を祝って」
と、美由紀が言うと、康俊が、
「それだけじゃない。この一年の、エリさんの苦労に感謝して、だな」
と、付け加えた。「子供には、愛情と幸運が必要だ。この家庭には、どっちも充分にある。エリさんのおかげだよ」
「そんなこと……」
エリが目に涙を浮かばせて、グラスを取った。
「じゃ、乾杯!」
「乾杯!」
グラスがチリン、チリンと音をたてて触れ合う。すると——。
「ヤア!」
もう一人、加わった。
みんなが振り向くと……。亜紀ちゃんが、部屋のしきいの所に、ニコニコ笑いながら、立っていた。そして、一歩、二歩、覚《おぼ》束《つか》ない足取りながら、歩いて来て、バタッと倒れると、唖《あ》然《ぜん》としているみんなを見上げて、キャッキャ、と笑ったのである。
——数秒ののち、坂上家の食堂がどんな騒ぎになったか、下の部屋の住人がびっくりして茶碗を取り落とさない内に、幕を閉じることにしよう……。