講師は酔っていた。
酒に酔っていたわけではない。酒も嫌いじゃないのだが、四十人からの生徒を前に、酔っ払ってしゃべるという度胸はない。
いや、この講師、おのれの弁舌の冴《さ》えに酔っていたのである。
確かに、このカルチャーセンターの授業風景を眺め回しても、生徒が一人も眠っていない教室はここしかなかった。
これが普通の学校ならば、教師が、
「こら! 起きろ!」
と怒鳴りつけてやるところだろうが、ここの生徒は、ほとんどが三十代、四十代の主婦。
いいと《ヽ》し《ヽ》をしたご婦人を怒鳴りつけるわけにもいかないし、大体講師はまだ四十前の男性で、自分より年上の生徒もいるのだから、たとえ最前列の夫人が、いびきをかきながら眠っていても、とても起こしてやるなどということはできないのである。
しかし、この講師は、このカルチャーセンターでも、話《はなし》上《じよう》手《ず》で知られていた。ともかく言葉が途切れるということがなく、リズミカルなのである。これで話の中身が面白くなかったら、聞いているほうは心地よく眠ってしまうだろう。
その点、この講師はまさに熟練の技術で、途中途中に、ドッと笑わせるところを作っておくのだ。多少眠気がさしていた人も、これでハッと目が覚める、というわけだ。
話は、やがて一番の山場にさしかかる。一同がドッと笑い崩れるはずなのである。
そこから、一気に結論へ。そして締《し》めくくりは簡潔に。
最後に、
「念のため——」
と、付け加える一言が、総ての効果を台無しにすることを、講師は、充分に承知していた。
「ところで」
と、一声高く、クライマックスへの準備に入った時だった。
ピピピ……。妙な音が、教室の中に鳴り渡った。
大きな音じゃないのだが、何しろ講師一人がしゃべっているだけだから、よく響くのである。
講師は言葉を切って、教室の中を見回した。
「——あ、ごめんなさい」
と、立ち上がった女性がいる。「もう行かなくちゃ。時間だわ」
その女性、腕時計のアラームを止めると、バッグを持って、そそくさと席を離れ、急ぎ足で、教室の戸口のほうへ歩いて行った。
「奥さん」
と、講師は頭に来て、「話は終っていませんが」
「ええ、分ってますの」
と、その女性はにこやかに微《ほほ》笑《え》んで、「でも、いいんです。もう同じお話を二度、うかがいましたから。あと三分すると、みんながワッと笑うんでしょ?——じゃ、失礼します」
ポカンとしている講師を尻《しり》目《め》に、その女性は、さっさと戸を開けて出て行く。——と思うと、ヒョイと顔を出して、
「先生。差し出がましいようですけど」
と、言った。「そのネクタイ、上着の色と合わないように思いますが。それじゃ、どうも」
戸が閉まると、しらけた空気が漂った。
講師が、立ち直るべく必死に気を鎮めていると、
「先生」
と、最前列の女性の一人が、言った。「あの人にかかっちゃ、どの先生もかなわないんですよ。ここのだけでなく、他のカルチャーセンター、文化教室の類、ほとんどに顔を出してて、たいていの話はもう聞いてしまってるんです」
「はあ……」
「あの人のことなの?」
と、他の誰かが言った。「ほら、何とか夫人っていう——」
「そう。何でもやってるから、『フルコース夫人』っていうの」
「フルコース夫人?」
講師が目を丸くして、「外国人なんですか?」
——教室中が笑いに包まれた。
講師が、みんなを大笑いさせたことは、確かだったのである。
かの「フルコース夫人」こと、中《なか》沢《ざわ》なつきは、自分のことが話題にされているとは、思いもしないまま、地下鉄の駅へと急いでいた。
「三分遅れてるわ」
と、腕時計を見て呟《つぶや》く。「でも、大丈夫。五分間、余裕をみてあるんだから」
それでも、少し足を早めた。
中沢なつきは、三十八歳である。
こうして人の流れの間を縫って、足早に進んでいるところは、まるでイルカが泳いでいるような、しなやかさを感じさせた。
見た通り——といっても読者には見えないだろうが——十代の少女では通らないとしても、かなり若く見える。
動きがはつらつとして、滑らかなのが、若い印象を与えているのかもしれない。
実際には、やはり年齢相応に、少し肉もついてきたし、急いで歩くと息も切れる。しかし、まだまだ、充分に「予定」はこなせる自信があった。
ふっくらした面立ちは、もとからである。おっとりした印象の、口もと。目は大きくて、彼女の夫も、その目に惚《ほ》れた、と専らの評判。しかし、当の夫は、
「その目ににらまれたんだ」
と主張している。
ともかく、服装や物腰に、いい所の奥様、といった雰囲気がある。こればかりは、一朝一夕で身につくものではない。
地下鉄の駅に着いた、なつきは、回数券を財布から出した。券売機に並ぶという時間のむだを省いているのである。
ホームへ下りて行くと、ちょうど電車がやって来る。
「ついてるわ」
普段の心がけがいいのね、と一人で納得する。
ええと……。あそこへ行く時は、三両目の三番目の出口が一番近いんだわ。
電車に乗ると、車両を渡って、三両目へ。二番目の扉の近くに、空席があった。
やった!——これで十五分、いや十七分間、座っていける。
座席に落ちつくと、なつきは、ハンドバッグを開け、中からパンフレットを取り出した。
「今月の観劇の予定は、これでおしまい、と……」
なつきは、これから見る芝居の予備知識を仕入れるべく、パンフレットを広げた。
「——ああ、あの役をやった人ね。——ふーん、原作は向うの人か」
と、呟《つぶや》きながら、パンフレットに目を通し終ると、まだあと駅にして四つある。
「八分間はあるわね」
何もしないでぼんやりしているのは、もったいない。
なつきは車内吊《づ》りの広告に目をやった。
化粧品、お酒、旅行……。あんまり役に立ちそうなもの、ないわね。
ふと、二、三人離れた席に座っている二人の奥さんたちの話が耳に入って来た。
ちょうど電車が駅に停《とま》っていたのである。でなきゃ聞こえっこない。
「——ねえ、この間のフラメンコの公演、見た?」
「まだ。どうだった?」
「良かったわよ!——もう興奮! やっぱりいいわねえ、情熱的で、スペインは」
「そう。私も行こうかな」
「早くしないと、売り切れてるみたいよ、どんどん。ともかく、足が長いの。それにおなかも出てないし。お尻《しり》がキュッとしまってて。——カッコいいわ。うちの亭主なんて、ズボンが八十センチよ!」
何に感激しているのやら。
「フラメンコ、かあ……」
なつきは、ふと考えて、「それも面白そうね」
手帳を取り出して、早速メモする。
ま、場所や時間は、〈ぴあ〉でも見りゃ分る。
フラメンコね。そういえば、まだフラメンコは習ったことないなあ。
バレエ、モダンバレエ、ジャズダンス、エアロビクス、一通りやったけど……。
フラメンコやると、おなかが引っ込むかしら?——なつきは、目的の駅に着くまで、それを考えることにしよう、と決めた。
これで、何分間かの時間も、むだにならずに済むわけである……。