「ねえ、お母さんは?」
と、中沢さやかは居間を覗《のぞ》いて、声をかけた。
「知らんな」
と、中沢竜《りゆう》一《いち》郎《ろう》は新聞から目を離さずに答えた。「メモはないのか」
「ないみたい」
「それなら帰って来るだろう」
「分った」
さやかは肩をすくめて、自分の部屋へと上がって行った。
二階建のこの家、三人家族には少々広いのだが、ちっともそんな風には見えない。
主婦——つまり、中沢なつきのことだが——が、物を片付けない天才だからである。
仕方なく(?)、娘のさやかが、せっせと片付けて回ることになっているが、家中まではとても手が回らない。それに、さやかも十五歳。色々と忙しい年ごろなのである。
「——全くねえ」
さやかは、自分の部屋でベッドに引っくり返ると、「あれでよく主婦がつとまるわよ!」
と言った。
さやかは一人っ子だが、その割には独立心も強く、ものおじしない、しっかりした子、という定評があった。
もちろん、それが悪いことであるはずはないが、そうなったのも、母親のなつきがあんまり忙し過ぎて、ちっとも構ってくれなかったせいなのである。
さやかとしては、母親というものは、普通家にいないものだ、と小さいころから思い込んで来た。
小学生のころだ。——友だちの家へ招《よ》ばれて行ったさやかは、その家のお母さんが、土《ヽ》曜《ヽ》日《ヽ》な《ヽ》の《ヽ》に《ヽ》家にいて、さやかのために、お昼を用意してくれるのを見て、感激したものだ。
私も、将来はこういうお母さんになろう。さやかは子供心に、そう決心したのだった。
しかし、もう十五歳ともなれば、見方も変って来る。
母親には年中文句ばかり言っていて、それは今でも変らないが、それはそれとして、母親にも、それなりの事情があったのだということも分って来る。
もうさやかが十五歳、というのでも分る通り、なつきは二十二歳で女子大を卒業すると、すぐに——卒業式の三日後だった——結婚した。すぐ妊娠して、さやかが生まれる。
後はしばらく子育て。
結局、大学時代も含めて、なつきは、およそ遊びに出歩くということがなかったのである。
大学は厳格をもって知られる私立女子校で、毎日、駅までの道には、先生が監視に立ち、寄り道しないように見張っている、という有様だった。大学でもそうなのだ!
なつきはこの女子校に、幼稚園から、ずっと通った。——従って、男っ気、ゼロ。教師も全員女性だったのである。
結婚も当然見合いだった。三年生の時見合いして、四年生の春に結《ゆい》納《のう》。
婚前旅行などもっての外、というムードのまま、結婚式を迎えたというから、箱入りどころか、「保育器入り娘」と呼んだほうが当っていたかもしれない。
なつき自身、それで不幸だったわけではなかった。夫の竜一郎は、なつきといい勝負の坊《ぼ》っちゃん育ちで、二つ年上。
父親の経営する会社で、今は課長のポストにいる。野心? かけらもなし。
将来、父の跡を継がなくてはならない、ということが、この呑《のん》気《き》な夫の唯一の悩みなのである。
「さやかの所って、本当に現代かと思っちゃうよ」
と、遊びに来た友だちが、よく言っていた。
「何だか、さやかの家の中だけ、時間の進み方が違うみたい」
そう。——さやかも、同感である。
あの父親と母親の子かと思うと、自分が怖くなる!
でも、仕方ない。それに、さやかは、両親のことも、世間の子供並みには、好きだったのである。
何といったって、憎《にく》みようがない!
さやかは、私立の、しかし共学の中学校に通っている。これだけが、さやかの、ささやかなレジスタンスである。女子校から、中学へ上がる時、受験して出たのだ。もちろん、それはさやか自身の決めたことだった。
「——ただいま」
と、声がした。
さやかは、起き上がって、部屋を出た。
階段を下りて行くと、母親が紙袋を下げてやって来た。
「お帰り。夕ご飯は?」
「お弁当買って来たわ」
と、なつきが言った。
「ふーん」
「おみそ汁、作るわね」
母親が台所のほうへ歩いて行くのを見送って、さやかは、玄関へ出て行った。
「やっぱりね」
何か荷物を持って帰って来た時は、たいてい、玄関の鍵《かぎ》をかけ忘れている。いつもさやかがかけて、チェーンもしておくのだ。
「私がいなかったら、この家はたちまち泥棒のえじきね」
と、さやかは呟《つぶや》いた……。
「何をやるって?」
と、カツ弁を食べながら、さやかは訊《き》いた。
「フラメンコ」
と、なつきが言った。「とっても体にいいんですって」
「あんなもんが、か?」
と、中沢竜一郎が言った。
「あんなもの、って、あなた、見たことあるの?」
「ああ。よくTVでやっとるじゃないか。あんな、腰を振ったりして、何が面白いんだ?」
「腰を振る?」
「大体、裸同然の格好じゃないか。みっともない」
「お父さん」
と、さやかが言った。「もしかして、フラダンスと間違ってるんじゃない?」
「どこが違うのか?」
——しらっとした空気が流れた。
しかし、いつのころから、なつきが出歩くようになったのか、夫の竜一郎にもよく分らなかった。
いくら呑《のん》気《き》な竜一郎も、人並みに会社では忙しいこともあり、特に三十代の初めからは、連日、夜中に帰る、という日が続いた。
そんなころ、ちょうどさやかも手がかからなくなり、なつきが、初めて、自分の生活を考えるようになったのだろう。
「でも、お母さん、新しいもの習う時間なんてあるの?」
「何かやめて、そこへ入れるわ」
さやかも、母親の、スケジュールを巧みに組む才能は認めていた。
「だけど——あ、電話だ」
「私が出るわ」
そう。普通の家なら、中学三年の子がいると、夜の電話はたいてい子供にかかって来る。この中沢家では、母親にかかる確率がきわめて高いのだ。
だが、今夜ばかりは——。
「さやか、お友だちよ」
「はい。——誰?」
なつきは、ちょっと考えて、
「聞いたけど、忘れちゃった」
訊《き》くべきではなかった、とさやかは思った。
「もしもし。——何だ、宏《ひろ》美《み》か」
同じクラスの子だ。家も近いので、よく行き来している。
「さやか、タレントにならない、とか誘われたこと、ある?」
「何よ、出しぬけに」
「どうってことじゃないんだけど……」
「どうもスカウトする人に、見る目がないみたいね。まだそういう話、ないわ。もしかして宏美——?」
「そうじゃないの! 今日、学校の帰りにさ、呼び止められたの、家の近くで」
「誰に?」
「知らない人よ。で、写真見せられて、この子、知ってるか、って。それ、さやかの写真だったのよ」
「私の?」
「うん。一年ぐらい前のかな、たぶん」
「で、何て言ったの?」
「知りません、って言っといたわ。何か、気味悪いじゃない?」
「そうね。その人、何か言った?」
「何も。どうも、って行っちゃった。何だろうね」
「変ね。——気を付けるわ。美女は狙《ねら》われやすいから」
「よく言うよ!」
二人は一緒に笑った。
二人の話が、これで終らなかったのは、言うまでもない。
二十分もしゃべっている内に、初めの用件など、さやかの頭の中から、すっかり消えてしまっていた。