「先輩! お先に失礼します」
と、二年生が声をかけて行く。
「バイバイ。明日、ちゃんと練習に出るのよ!」
と、中沢さやかは手を振って言った。
「はあい!」
さやかは、友だちの浜《はま》田《だ》宏美と二人で部室の方へ歩いて行きながら、
「いいね、二年生はまだ気楽で」
と、言った。
「本当。三年生は辛いよ」
浜田宏実は、いささかオーバーに、ため息をついた。「これで来年になりゃ、また一年生よ。どうする?」
もちろん、中学から高校へ進むことを言っているのだ。さやかたちの通っている私立校は、共学で、中学、高校と続いている。
大学は短大のみ。さやかは、他の大学を受けようと今のところは考えている。
一年生は、クラブではともかく徹底的にいばられていなくてはならない。三年生は、何かと責任を負わされるので、さぼれない。二年生が一番気楽、というのが実感なのである。
さやかと宏美は演劇部に入っていた。男女共学というのは、演劇部にとってはありがたいことで、これが女子校だと大変である。
男の子の役を女がやるか——宝《たから》塚《づか》みたいになってしまう——他の学校から、男の子を借りて来るか。どっちにしてもやりにくいには違いないのだから。
学校は都心にあるので、至ってせせこましく、校庭はなきに等しい。従って、クラブの部室なども、校舎の片隅へと追いやられているのが実情なのである。
〈演劇部〉と札の下がったドアには、〈美男、美女のみ入室を許す!〉と書いてある。
「——失礼」
と、ドアを開けて、さやかは、「あ、すみません」
パッと離れた二人は、高校二年の、副部長川《かわ》野《の》雅《まさ》子《こ》と、高校では数少ない男子部員、一年生の高《たか》林《ばやし》和《かず》也《や》だった。
「ノックぐらいしなさいよ」
と、川野雅子は、メガネをかけながら、ツンとした表情で言った。
「すみません」
さやかは、全然応えた様子もなく、「でも、部長に呼ばれたから、来たんですけど」
「部長に? 何の用事で?」
「さあ。何も……。川野さん、知らないんですか?」
「私は——高林君と、打ち合わせしてただけよ」
一年生といっても、まるで「中学」の方かと思える、色白で童顔の高林和也は、顔を赤くして、隅の方でおとなしくしていた。
「じゃ、高林君、行こうか」
と、川野雅子が促して、「邪魔が入っちゃ、練習にならないもんね」
「はい」
高林和也は、おとなしく川野雅子の後について部室を出て行く。
「そうだ」
と、出て行きかけて、川野雅子は振り向くと、「この間のバザー、演劇部は出品が少なかった、って文句言われたわ。中学生、少し頑張んなきゃだめよ」
「はい。すみません」
ドアが閉まると、さやかと宏美は顔を見合わせて、
「いやねえ」
と、一緒に言った。
「自分は何も出さないくせして」
と、宏実が、机の上の埃《ほこり》をはたいて、腰をかける。
「高林君も可哀《かわい》そう。まるきりオモチャだね、川野先輩の」
「そういう顔してるもん、高林君って」
宏美は、部室の中を見回して、「汚いわねえ、いつ来ても」
「どこの部も、こんなもんよ」
「それにしたって——足の踏み場もない、って、こういうこと言うんじゃないの」
「私は、うちで鍛えられてる」
と、さやかは言った。
「だけど、部長、何の用だろうね。さやかだけ呼んだんだ」
「そうね、川野先輩も知らないんじゃ」
「じゃ、もしかして……」
「何よ、その目つき」
「部長、さやかをくどく気じゃないの? 私は邪魔者かもね」
「趣味じゃないよ」
と、さやかが言ったとたん、ドアが開いて、
「何が趣味じゃないって?」
と、部長の石《いし》塚《づか》進《しん》二《じ》が顔を出した。
「あ、いえ——切手集めの趣味について、今話してたんです」
と、さやかは急いで言いわけした。
言いわけがスラスラ出てくるのは、さやかの特技の一つだった。
「私、邪魔なら帰りますけど」
と、宏美が言うと、石塚は、
「どうしてだ? 邪魔なんかじゃないぞ、ちっとも」
と、不思議そうに言った。
石塚は、この学校のイメージに、およそ合わない、がっしりした体格の、ちょっと野《や》暮《ぼ》ったい若者である。演劇部より、柔道か空手のイメージだが、こと演技にかけては、素人《しろうと》らしからぬ情熱と才能を持っている。
さやかも、およそ石塚とデートしたいとは思わないが、演技の才能は尊敬していた。
「部長、ご用は?」
と、さやかが訊《き》いた。
「うん。——これ、いつの写真だ?」
石塚が、窮屈そうに着ているブレザーのポケットから、くしゃくしゃになった写真を一枚出して、さやかの方へ投げた。
「私のだ」
「だから訊いてるんだ」
「文化祭ですね。——去年だな」
母親の、なつきと一緒に撮ったもので、背景は演劇部が上演した劇のポスター。さやかは、劇中の衣裳でうつっている。
もっとも、スラム街の浮浪児の役だから、あんまり、見《み》映《ば》えはよくないが。
「あ!」
と、覗《のぞ》き込んでいた宏美が声をあげた。「ほら、さやか、この間電話で言ったでしょ、どこかのおじさんがさやかのこと知らないか、って写真見せた、って。この写真よ!」
「そんなこと言ってた?」
「健忘症!」
「部長、これがどうかしたんですか」
と、さやかは訊いた。
「今日、主事に呼ばれたんだ。主事の友だちが、これを持って来たって。何でも、どこかのプロダクションのプロデューサーで、映画の企画を立ててるんだとか言ってたらしい」
「映画の?」
さやかと宏美は素早く目を見交わした。
——もしや!
「で、何の話だったんですか」
と、思わずさやかは身を乗り出していた……。
「——お口に合いましたでしょうか」
レストランの支配人の笑顔は、心なしか引きつって見えた。
「ええ、とてもいいお味でしたわ」
と、その奥さんは言って、「ねえ?」
と、同行していた奥さんたちの方を見た。
「ええ、とても……」
「デザートも良かったし」
「お店もいい雰囲気ね」
と、みんな、口々に言って肯《うなず》き合った。
「さようでございますか」
支配人はホッとした様子で、「ぜひ、またお越し下さいませ」
と、店の外まで出て、見送りながら、
「ありがとうございました」
を、三回もくり返した。
ゾロゾロと連れ立って歩いていた奥さんたちは、レストランから少し離れると、
「——まあまあね」
「少しくどいわ、味つけが」
「メインの量が少ない」
「そう! あれで終りじゃね」
「飲物別っていうのも、ちょっとね」
と、正直な批評を交わし合う。
「ランクとしては二つ星ね」
「厳しいのね。私は三つでいいと思うけど」
「甘い甘い。二つでもおまけしたぐらいよ」
「——じゃ、今日のお店のランチは二つ星、と」
みんなが足を止め、一斉にバッグから手帳を出して書き込んでいるのを、道行く人たちが、不思議そうに眺めていた。
「じゃ、私、ここで」
「私も、今日展覧会があるから」
「友だちの踊りの発表会なの。気が進まないけど、行かなくちゃ……」
次々と抜けて行って、結局、中沢なつきは一人になってしまった。
なつきだって忙しいことでは他の奥さんたちに負けないが、今日はたまたま、ハープの教室の先生が急に休んじゃったのである。
「どうしようかな……」
少しの間、なつきは道に立って、考えていた。
あちこちで知り合った奥さんたち同士での、〈ランチ・グルメの会〉も、なかなか面白いが、本来なつきは、ご飯党で、あっさりお茶漬でも食べる方が性《しよう》に合っているのだ。
でも、まあ、これもお付き合い、ってものだし。
実際、店の名にかかわるだけに、下手《へた》な料理は出せない上に、値段を抑えておかないと、たちまちそっぽを向かれてしまうというので、〈ランチタイム評論家〉の主婦たちには、どのレストランも神経を使っているのである。
だから食べる方にとっては何とも楽しみではあって……。
「ちょっと」
と、肩を叩《たた》かれて、なつきはびっくりして振り向いた。
見たことのない、中年の男が立っていた。
「どちら様ですか」
と、なつきは訊《き》いた。
「退屈してるの? ちょっと遊ばないか? 小づかいをあげるから」
なつきは、黙ってその男を眺めると、ハイヒールの尖《とが》ったかかとで、思い切り、男の足を踏んづけた。——男が、あまりの痛さに声も出せず、口をパクパクしている間に、なつきはタクシーを拾って、家へ帰ることにしたのだった。