なつきとさやか。この二人が不《ふ》機《き》嫌《げん》だったら、いくら夫の中沢竜一郎が楽しげにしていても、家の中のムードは暗く沈んでくるのが当然である。
「——おい、何かあったのか」
夕食を取りながら、あまりに静かなのに耐え切れなくなった竜一郎が言った。
「何も」
と、さやかが言った。「お母さん、おかわり」
「はい。——私も別に」
これではどうにもならない。
竜一郎は、果して自分が何か妻や娘の気にさわるようなことをしただろうか、と必死で考えていた……。
なつきの方は、あの変な男に声をかけられたことで、まだムカムカしていたのである。——もしや、うちの夫も、外へ出りゃあんなことをしてるんじゃないか。そう思っただけで腹が立ってくる。
あの男が、見るからにまともでない、ヤクザみたいなタイプなら、どうってことはなかったのだが(もっとも、足を踏んで、ただですまなかったかもしれない)、ごく当り前のサラリーマンらしかったのが、ショックであった。
ま、そんな男に声をかけられた、というのも頭に来た理由の一つだが、それは自分が魅力的なのだから仕方ない(と、なつきは自分で納得していた)。でも——うちの亭主も、残業、接待、出張とかいって、何をやっているのやら……。
なつきは少々男性不信に取りつかれていたのだった。
食事が終ると、さやかが、
「話があるの」
と、突然切り出した。
「な、何だ、いきなり」
と、竜一郎の方がギョッとしている。「お前、まさか好きな男ができたから結婚させてくれと……」
「私、中学生よ」
「そ、そうか……」
竜一郎は、額の汗を拭《ぬぐ》った。「ヒヤッとしたぞ」
「何なの、さやか?」
「これ、見《み》憶《おぼ》え、あるでしょ?」
と、さやかが写真をテーブルの上に置く。
「あら、あなたと私の……。運動会の時のだわね」
「文化祭」
「そうそう。あなたが乞食の役をやって」
「浮浪児。——これ、誰かにあげた?」
「さあ……。どうして?」
「今日ね、学校にプロダクションの人が来たの」
「プロダクションって?」
「映画の。出演してくれる新人を探してるんだってさ」
「あら」
なつきは、目をパチクリさせて、「じゃ、あなたに話が来たの?」
「それが——」
「いかん!」
と、竜一郎が目をむいて、言った。「まださやかは中学生だぞ。芸能人になるのは、早過ぎる!」
「お父さん、落ちつきなさいよ」
と、なつきはなだめて、「まだそんなこと決めたわけでもないじゃない。どんな話だったのか、聞くだけでも——」
「いや、だめだ。何も分らん子供のうちから、TVや映画に出たり、歌を歌ったりするのは、教育上良くない!」
「そう?」
と、さやかは頬《ほお》づえをついて、訊《き》いた。
「そうだ!」
「中学生じゃだめ?」
「だめだ! お父さんは許さん」
と、竜一郎は首を振った。
「主婦なら?」
「だめだ! まだ何も分らん……。何と言った?」
「主婦。奥さん。女房。ワイフ」
「さやか、何の話?」
と、なつきが訊くと、
「あのね。私を映画に、って話じゃなかったの。——お《ヽ》母《ヽ》さ《ヽ》ん《ヽ》なのよ、狙《ねら》いは」
「——まさか」
「本当なの。もう子供みたいなタレントには客も飽きてきてる。だから、こういう落ちつきのある、しっとりとした女らしい人妻の魅力が求められているのだ、って」
「誰がそんなこと言ったの?」
「そのプロデューサー」
さやかは、名刺をポンと投げ出して、「明日、電話して来るってさ、お母さんに」
「ね、さやか——」
「部屋に行ってるよ」
さやかは、さっさと行ってしまった。
——しばし、夫と妻は、口をきかなかった。
「おい……」
と、竜一郎が言った。「真《ま》面《じ》目《め》な話か?」
「らしいわね」
なつきは、その名刺を取り上げた。
「——さやか、お母さん、何て言ってた?」
翌朝、一緒に学校へ行くので、道で会うなり、宏美が訊いて来た。
「知らない」
と、さやかはそっけない。
「どうして? 伝えたんでしょう?」
「もちろん。後は知らないよ。お母さんの問題だからね」
「へえ、冷たいのね」
「子供じゃないもん、お母さん」
「フフ、さやか、やいてるな」
「何よ!」
「すぐそうむきになる。確かに、やいてる」
「フン!」
と、上を向いて——さやかは笑い出してしまった。
「でも、さやかのお母さん、可愛《かわい》いもんね」
「そうねえ。——子供みたいなもんだから、あの人」
と、さやかは言った。
「今ごろクシャミしてるかな」
「そうね」
——確かに、なつきはクシャミしていた。
「おい、風邪《かぜ》か?」
と、中沢竜一郎が上衣を着ながら、訊《き》いた。
「ううん、鼻がちょっとムズムズしただけ」
「そうか」
玄関で靴をはくと、「おい、どうするんだ?」
「何が?」
「昨日《きのう》の話だよ」
「ああ、あれ」
と、なつきは笑って、「冗談じゃないわ。今さら私がスターになるなんて。向うも本気じゃないわよ」
「そうかな」
と、竜一郎は、まだ不安げだった。「話が来ても、断われよ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
なつきは、夫を送り出して、鍵《かぎ》をかけると、ちょっと息をついた。
「とんでもない話だわ」
電話して来るなんて、きっと口だけで、それきり忘れちゃうのよ。
そう。——そんなこと、ありっこないんだから。
台所で洗いものをしていると、インタホンが鳴った。
「こんなに早く……」
誰かしら、とボタンを押すと、
「Mプロダクションの藤《ふじ》原《わら》と申しますが」
なつきはびっくりした。昨日、さやかがくれた名刺の人ではないか!