「あの……」
と、中沢なつきは言った。
「は?」
その男は、紅茶のカップを、もう一分間以上も、じっと持ったままだった。
「いえ、私の顔に何かついてます?」
なつきは、そう訊《き》いてやった。
「あ、いや——そうじゃありません。いや、失礼しました。お気に触りましたら、お許し下さい」
藤原というその男、早口で、まくし立てるように言った。
「別にそういうわけじゃありませんけど」
なつきとしては、客に黙っていられたのでは困ってしまう。何といっても、向うが、用事があってやって来たのだ。
「あの……お話というのは」
と、仕方なく言ってみると、
「そう、そうでした。——こりゃどうも」
と、また謝っている。「いや、実際のところ、お嬢さんからお聞きかと思っていたものですから……」
「ええ、さやかから、何だか映画の新人を捜しておられるとかうかがいましたけど——」
「さ《ヽ》や《ヽ》か《ヽ》さん! いいお名前ですね。母親が『なつき』で、娘が『さやか』。——これ以上の取り合わせはありませんよ」
「どうも」
「お写真を拝見しましたが、実によく似ておられる。美しい。清《せい》楚《そ》で、涼しげです。奥様の若いころも、あんな風でしたでしょうね」
「まあ、さやかが聞いたら、きっと喜びますわ」
と、なつきはちょっと笑って言った。
「その笑い方!」
「は?」
「実に、落ちつきがあって、かつ少女のように無邪気で、気品ある笑い方です。すばらしい!」
「そ、そうでしょうか」
いちいち笑う時に笑い方なんか考えちゃいられない。なつきはすっかり調子が狂って、そう簡単に笑うわけにもいかなくなってしまった。
それにしても……。映画のプロデューサーって、みんなこんな人なのかしら?
Mプロダクションという名は、なつきも耳にしたことがあった。芸能界について、ごく世間並みの知識しか持ち合わせていないなつきが耳にした憶《おぼ》えがあるというのだから、Mプロダクションそのものは、決して小さくないのだろう。
藤原というその男の様子にも、貧乏くさいところや、いかがわしげな匂《にお》いはなかった。ごく普通のサラリーマン風に、ビジネススーツを着込み、ネクタイの趣味も悪くなかった。メガネも顔によく合ったフレームの物を選んでいる。
年齢は——なつきも、人の年齢を見るのが得意とは言えないが——たぶん、なつきと同じくらいの、三十七、八歳というところではないだろうか。
色白の、少しのっぺりした顔立ちは、かなり若い印象を与える。
「で、いかがでしょうか」
と、突然思い出したように、「ぜひ、奥様のような方に、スクリーンを飾っていただきたいのです」
「はあ」
なつきは、やっと話が進んだので、ホッとした。何しろ、この藤原という男、話に脈絡というものがない。
気まま勝手にあちこち飛び回る、という有様なのである。
「お話にはびっくりしましたわ、正直に申しまして」
と、なつきは言った。「もちろん、お賞《ほ》めにあずかって、私も大変嬉《うれ》しいんですけれども。——でも、残念ながら、お断わりしますわ」
「しかし、奥様、すぐにお決めになるのは——」
「いえ、私はもともとそんな素質のある人間ではありませんし、今さら無理をして、新しい冒険をしてみようとは思いません。娘もおりまして、手もかかりますし、主婦業だけで結構忙しいのです」
これもカルチャーセンターで、講師の話をよく聞いているおかげかもしれないが、自分でもびっくりするくらい、言葉がスラスラと出て来る。
「お分りでしょ? 私はとても女優なんかには向きませんわ。自分のことは、自分が一番よく知っています」
藤原は、ちょっと息をついた。——がっかりした、とも、ホッとしたとも聞こえる。
「いや、残念です」
と、藤原は、やっと紅茶を飲んだ。「——お気持は変りませんか」
「はい。申し訳ありませんけど」
何も、なつきの方が謝る必要はないのだ。でも、藤原という男、そう悪い人物でもなさそうだし……。
「では、これで失礼いたします」
唐突に、藤原は立ち上がった。「大変お邪魔いたしました」
「いえ、何もお構いしませんで……」
後は、普通のお客と同様に、なつきは藤原を玄関まで送った。
——藤原が帰ってしまうと、なつきは何となくぼんやりして、居間のソファに座っていた。
本当は、洗濯を午前中に片付けておかなくてはならないのだ。午後からは英会話のクラスがある。親しい奥さんと一緒なので、休むわけにいかない。
すぐに動いて、やることをやってしまわなくちゃ。——分っているのだが、動く気になれない。
「女優ねえ……」
と、ふと呟《つぶや》く。
そう。やっぱり、いくらかは断わったことが残念なのである。
もちろん、引き受けるなんてとんでもないことで、それはよく分っているのだが、心の隅では、自分の顔が大きくスクリーンに出た時の気持って、どんなものかしら、などと考えているのだ。
考えるだけなら構やしない。——ねえ、そうじゃない? いくらロマンチックな夢《ゆめ》を見たって、誰にも迷惑がかかるわけじゃないんだものね。
なつきさん……。
藤原は、タクシーが走り出すと、ハンカチを取り出して、汗を拭《ぬぐ》った。
汗をかくような陽気じゃなかったのだが、それでも中沢家を辞した時には、背中に汗をかいていた。
間違いない。なつきさんだった。
少しも変っていない、と言えば、もちろん嘘《うそ》になる。十七、八のころと三十八歳とで変っていなかったら、それこそ気味が悪いというものだ。
しかし、見かけはともかく——その印象、人に与える感《ヽ》じ《ヽ》では、ほとんど何の変りもなかった。少なくとも、藤原はそう感じたのだった。
「懐かしい……」
藤原は、目を閉じた。——今も瞼《まぶた》の裏には、高校生の制服に身を包んだ、なつきの、まぶしいような姿が焼き付いている。まぶしい? いや、透《す》き通ったような、と言うべきだろうか。
高校生だった藤原が、たまたま通学路が同じで、ふと見かけて一目で参ってしまった相手。それがなつきだったのである。
当時の姓は何といっていたのか、藤原は知らない。ただ、友だちが、彼女のことを、
「なつき」
と呼んでいたので、名の方だけは知っていたのである。
もちろん、彼女の方は藤原のことなど全く知らない。話をするどころか、視線すら合ったことがなく、終ったのだから。
しかし、藤原は忘れたことがない。この業界に入り、何人かのスターを見出し、育てたが、その若い女の子たちの中に、無意識のうちに、「幻のな《ヽ》つ《ヽ》き《ヽ》」の面影を求めていることに、時々気付いてハッとすることがあった。
そして——。
「熟年の新人って奴《やつ》を見付けて来い! 変っていて、当るかもしれん」
プロダクションの社長にそう言われた時、すぐに思い付いたのが、なつきのことだった。
彼女の通っていた女学校の同窓会名簿を苦労して手に入れ、〈なつき〉という名の子を捜した。——見付けるのはそう苦労ではなかったが、問題は、今、彼女がどんな女性になっているか、である。
会うのが怖いようでもあった。しかし、偶然のことから手に入った、なつきと娘の写真を見た時、藤原は、全く奇妙な印象を受けたのだ。そこには、「大人《おとな》になったなつき」と「昔の通りのなつき」が並んでうつっていた。
もちろん、さやかという娘は、かつてのなつきと似ていて当然だ。しかし、外見よりも、一見して受ける印象が、ハッとするほど、かつてのなつきそのものであった……。
「諦《あきら》めないぞ」
と、藤原は呟《つぶや》いた。
あっさりと引きさがって来たのも、作戦の一つである。
人間、「美しい」と言われて悪い気はしないものだ。断わりながらも、心のどこかで、
「でも、無理にでも何とか、と頼んで来ないかしら」
と思っていることが多い。
そこをパッと引きさがられると、却って、不満になって、「もう一度誘ってくれないかしら」と思ったりする。そこがチャンスなのだ。
「勝負はこれからだ」
と、藤原は呟いて、腕組みをしたのだった……。