「社長がお呼びです」
そう言われると、たいていの社員は一瞬ドキッとするだろう。
その点、中沢竜一郎の場合は、「社長」即《すなわ》ち「父親」なのだから、別にびくつく必要はないようなものだが、実際には、人一倍ギクリとするのである。
「親父《おやじ》が? 何だろう」
と、中沢竜一郎は、社長の秘書に訊《き》いてみた。
「存じません。直接お訊き下さい」
「うん……」
竜一郎は、課長の椅子《いす》から立ち上がると、「ね、親父、ご機嫌はどうだった? 何か怒ってる様子だったかい?」
「そんなことないみたいですわ」
と、秘書が笑いながら答える。
「あ、そう。——じゃ、行ってみるよ」
本当のところ、いちいちそんなことを訊いたりすれば、笑われるだけだというのは、竜一郎もよく分っている。それでも、つい訊かずにはいられないのは、別に父親が怖いからではない。
父親が、何かとんでもない仕事を回して来るのじゃないか、と心配なのだ。情ない話だと、自分でも思うのだが、こればかりは生まれつきというもので、どうしようもない。
父親の方も、いい加減諦《あきら》めているはずだ。しかし、親というものは、子供に関する幻を、いつまでも捨て切れないものだ。
というわけで、竜一郎は、こわごわ社長室のドアを開けたのだった。
「——忙しいか」
父親の一声で、竜一郎はホッとした。これなら大丈夫。
「まあまあだね」
と、竜一郎は言って、椅子《いす》にかけた。
中沢竜《たつ》重《しげ》は、髪こそ白くなっているが、まだまだエネルギッシュな雰囲気を溢《あふ》れんばかりに具《そな》えており、ある意味では息子《むすこ》の竜一郎よりずっと若々しくすら見えた。
「何か用?」
と、竜一郎は言った。
「用があるから呼んだ」
と、中沢竜重は、当り前のことを言った。「なつきさんは元気か」
「女房? うん、相変らず、あちこち飛び歩いてるよ」
「さやかにもこのところ会っとらん。たまには遊びに来させろ」
竜重は、さやかを可愛《かわい》がっている。孫だから当然でもあろうが、しっかりしたさやかに、自分と似たところを見出しているのかもしれない。
「友だちと、休みっていうとどこかへ出かけてる。何しろ、もう中三だからね」
「さやかの奴《やつ》は心配ない。お前よりよっぽど生命力がある奴だ」
と、竜重は言いにくいことを、はっきり言うと、「実はコマーシャルの件だ」
「コマーシャル?」
やはりまずいと思った。
以前、アメリカでコマーシャルを撮って来いと言われて、アメリカ西部の荒野で撮影隊もろとも迷子になり、三日間、砂漠をさまよったことがある。
「僕は向いてないよ。細かい計算は苦手だし、現地にも慣れてないし——」
「誰もアメリカへ行けとは言っとらん」
と、竜重が苦笑いした。
「そう」
と、竜一郎は胸をなでおろした。
「今度は国内。それも都内でのロケぐらいだ」
「それならまあ……」
「ただし、出《ヽ》演《ヽ》だ」
竜一郎は、ポカンとして、
「何だって?」
「出演さ。コマーシャルに出るんだ」
竜一郎は唖《あ》然《ぜん》として、
「だめだよ! 僕は、そんなピエロみたいな格好して、町の真ん中で大声出したりできないよ!」
「誰がそんなことをしろと言った」
「でも、たいていそうじゃない。社員が出るってのは——」
「社員じゃない。お前の女房が出るんだ」
「女房って……なつきのこと?」
「他にいるのか?」
「いないよ! いないけど……。でも、なつきがどうしてコマーシャルに?」
「制作を請け負ったプロダクションが、ぜひと言って来た」
竜一郎は眉《まゆ》を寄せた。
「プロダクション? その——担当の奴は何ていうの?」
「ええと……」
竜重は名刺を取り出して、「藤原とかいう男だ」
「やっぱり!」
「知っとるのか?」
「いや……大して」
——なつきに、映画へ出ないかと持ちかけて来て断わられたのが、一週間ほど前である。今度はコマーシャル!
「でも、なつきは別に役者でもタレントでもないし……」
「そこが新鮮だ。いいじゃないか。なつきさんは今だって可愛《かわい》い」
「まあ、そりゃね」
と、竜一郎は肩をすくめた。「でも、女房の顔がTVに出るなんて……。何を言われるか」
「構うもんか。変に手《て》垢《あか》のついたタレントなど使って高い金を出すより、よっぽど清潔感があっていい」
竜一郎は不安になって来た。
「父さん。——本当になつきを使うつもりなの?」
「ああ。お前の女房だ。会社に協力してくれてもよかろう」
「だけど……。本人の気持次第だよ」
と、竜一郎は言った。
「あら」
と、なつきは言って、ご飯をよそうと、「もうご返事したわよ、お義《と》父《う》様《さま》には」
「何だって?」
竜一郎は、茶《ちや》碗《わん》を受け取ったものの、はしを持った手は動かない。「どう返事をしたんだ?」
「やりますって。だって、あなたにとってもプラスになるんでしょ?」
「いや——しかし、いやなのを無理してやることはないんだ」
「何なら、私が代りに出てあげようか」
と、さやかが言った。
「お前はいかん。中学生だぞ」
「お母さんだって、大して変んないと思うけどね」
と、さやかはそっと呟《つぶや》いた。
「心配ないわよ」
と、なつきは微《ほほ》笑《え》んで、「撮影なんて、一日か二日で済むんですって。ギャラも一応少しは出るみたいだし」
「その話、例の藤原って奴が持って来たんだぞ。コマーシャルを終ったら映画へと引っ張り出す気だ!」
「断わりゃいいんでしょ」
と、なつきはあっさりと言った。
お母さん、本当に断わるだろうか? さやかは、母の活《い》き活きした表情を眺めていた。
何といっても、ごく平凡な妻、母として、十何年か過して来た女にとって、映画やTVに出るっていうことは——それもクイズ番組とかでなく、女優として出るというのは、凄《すご》い刺激ではあろう。
さやかとしては、母の出演に反対しているわけではない。
もちろん、それがきっかけで家庭崩壊ってことになると困るのだけど……。
まあ、ただの気晴しなら、いいんじゃないかしら。
もし、万一、人気がワッと出たりしたら、面倒かもしれないけど、でも、そんなこと、あるわけないしね。
さやかは、自分にそう言い聞かせていたのだが……。