なつきが、町を歩いて来る。
何だかお伽《とぎ》の国みたいな、可愛《かわい》い家並み、芝生の緑、つ《ヽ》た《ヽ》のからまる赤い柵……。
その中で、なつきはまるで空中を飛んでいるかのように、颯《さつ》爽《そう》としていた。
そう。——本当に、地面を踏んで歩いているのだとは信じられないくらい。
いささか悔しい思いと共に、さやかは自分の母が、こんなにすてきな人だったのか、と改めて感心していた。同時に、私もお母さんに似ていて良かったわ、と考えてもいた……。
なつきが、ふと足を止めると、降り注ぐ陽《ひ》射《ざ》しに、少しまぶしそうに目を細め、カメラの方を向いて、ニッコリ微《ほほ》笑《え》んだ。
——しばし、誰も動かなかった。
やがて、当惑の気配が、辺りに漂う。みんなの視線が、カメラの横に立った一人の男に集中した。
その男は、ポカンと口を開け、何だか見てはいけないものを見てしまったかのように、少々怯《おび》えている目つきで、なつきから目を離さずにいた。
「監督!」
たまりかねて、藤原がつつくと、
「——ん。そうだ! カット!」
ホッとして、みんなが息をつく。レントゲンを撮る時に、
「はい、息を止めて」
と言われてそれきり放り出されていたようなものだったのである。
「——いかがでした?」
と、なつきが監督の方へ歩いて来る。
「すばらしい! OKです。これ以上のOKがあり得ないくらいのOKですよ!」
ひげづらの監督は、やおらなつきの手を取ると、その甲にチュッとキスしたのだった。
「まあ、恐《おそ》れ入ります」
なつきは、少し赤くなって笑った。
「——お母さん」
さやかが声をかける。
「あら、さやか! いつ来たの?」
「二十分ぐらい前」
「全然気が付かなかった。——くたびれたわ、本当に!」
と、なつきは大げさに息をついた。
「お疲れさまでした」
と、藤原がやって来て、「いや、すばらしい。このCFは今年最大の話題になりますよ!」
「まあ、お世辞がお上《じよう》手《ず》で」
と、なつきは笑って、「あ、さやかは初めてね。藤原さん……」
「どうも」
と、さやかは藤原に頭を下げて、「母は、スターになれそうですか?」
「さやか、何を言ってるの」
「さやかさん」
と、藤原は真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。「あなたのお母さんは、生まれながらのスターですよ」
「——へえ」
藤原と別れ、なつきとさやかは、二人して近くの駅へと歩き出していた。さやかは、母の方を冷やかすように見て、
「お母さん、生まれながらのスターですって」
「ああいう人は口がうまいのよ。それがお仕事ですもの」
「それだけじゃないと思うけどな」
と、さやかは言った。「お母さん、これでまた映画に出てくれとか言われたら、どうする?」
「一日で終るCFとは違《ちが》うのよ。とてもじゃないけど……」
「そう。それがいいね」
さやかは母の腕に、自分の腕を絡ませて、「お母さんが家にいつもいないんじゃ、寂しいもんね。今でもあんまりいないけど」
「それ、皮肉?」
母と娘は、一緒に笑った。
——日曜日。すばらしく晴れ上がった、穏やかな日だった。
さやかも、やっぱり気になって、撮影現場までやって来たのである。一日で終るとはいっても、そこはやはりプロの仕事で、たっぷり朝から午後遅くまでかかってしまった。
「——さやか」
と、なつきはふと思い付いて、「お父さんは?」
「家にいるよ」
「お昼、何か食べたのかしら」
「知らないけど、子供じゃないんだから、自分で何とかしたでしょ。カップラーメンもあるし」
「そうね」
と、なつきは肯《うなず》いた。
その、母娘《おやこ》の後ろ姿を、並んで見送っていたのは、藤原と、このCFの監督、雨《あま》宮《みや》である。
「いいなあ、絵になってる」
と、雨宮が、首を振りながら、「母と娘の語らい。——美しい光景だ」
まさかカップラーメンの話をしているとは思わないのである。
「ね、監督、いいでしょう?」
と、藤原など、若き日の思い出もこみ上げて来て、感傷で目をうるませている。
「いいなんてものじゃない。——君が見付けて来たんだって? どこで捜したんだ」
「それはまあ……。企業秘密ですよ」
「このCFは絶対に評判になるぞ。奇をてらったCFの多い中で、あくまでスタンダードにやる。素材の良さだけで充分いけるからな!」
雨宮がこんなに興奮しているのは珍しい。大体がクールで、ビジネスライクな男として知られているのである。
「うちの社長も、この出来を見たら、絶対に本腰を入れて、売り出そうとしますよ」
と、藤原は言った。「何とか口《く》説《ど》き落として、映画にと思ってるんですがね」
「そいつは君の腕次第だな。しかし——」
と、雨宮は藤原の肩をギュッとつかんで、「もし映画となったら、俺《おれ》にやらせてくれよ! 頼むぜ」
「話しときますよ、社長に」
と、藤原は逃げた。
確かに、雨宮はCFの世界では「巨匠」である。しかし、十秒とか五秒とかが勝負のCFと、一時間半の映画では、才能の質が違って来る。
藤原としては、じっくりと、中沢なつきの魅力を引き出してくれる監督を選びたかった。もちろん雨宮がだめだというわけではないのだけれど……。
それに、社長が何と言うか。——いくら藤原や雨宮が惚《ほ》れ込んだって、要は金を出すところの問題になるのだから。
——複雑な気分だった。
藤原としては、かつての「自分だけのアイドル」を、他人の目にさらすことに、抵抗もある。しかし、この仕事を進めない限り、なつきと会うこともできないのだから……。
「——いかがです?」
藤原は、明るくなった試写室で、社長の顔色をうかがった。
「うむ……」
社長の舟《ふな》橋《ばし》は、そう言ったきり、しばらく口をきかなかった。
気に入らなかったのかな、と藤原は思った。
「あの、これはまだ編集前のフィルムですから。もっときちんと整理して——」
「もう一度見たい」
と、舟橋は言った。
「はあ……」
何度も撮り直したりして、そのNGの分も全部上映している。再び試写室が暗くなって、カタカタと機械音がした。
NGのカットの中に、見物人が入り込んだ所があった。カメラがずっと横に振って行ったら、そこに立っていた野次馬が、画面に入ってしまったのである。
そこに、さやかも入っていた。
「社長、あれが——」
中沢なつきの娘ですよ、と言おうとしたら、
「止めろ!」
と、舟橋が怒鳴った。「フィルムを止めろ!」
画面が静止した。
「——社長、何か?」
と、藤原が訊《き》いた。
「その女の子は何だ?」
と、舟橋は腰を浮かしている。
「あの正面のですか? 中沢なつきの娘さんです。さやかといって、なつきさんの若いころとそっくりで——」
「いける!」
「は?」
「あの子はいける!」
「しかし——」
「母親の方も、もちろんいい。しかし何といっても娘の方が先が長い」
「そりゃそうですが——」
「親子共演ってのはどうだ? 実の母と娘が映画でも母と娘をやる。しかも二人とも初々しい新人!」
「なるほど」
「これで行こう!」
舟橋は、出っ張り気味の腹をポンと叩《たた》いた。「来年の正月映画にどうだ。『母娘《おやこ》坂《ざか》』。いいタイトルだ!」
「どうして『坂』が出て来るんですか?」
「そんなことまで知るか。昔から『坂』がつくとしっとりしたドラマと決まっとる」
無茶な発想である。
「おい、藤原」
「はあ」
「何としても二人を口《く》説《ど》き落とせ。娘の方からでも母親の方からでもいい! 分ったな? 失敗したらクビだ!」
これ以上、はっきりした説明はあり得ないほど、舟橋の命令は明確そのものであった。