なつきが車から電話をかけた時、さやかはちょうど学校から帰ったばかりだった。
「——出前かあ」
いつものことなので、大して驚きもしない。別に母がCFに出たから、そうなったわけじゃない。もともと、年中出かけているんだから、出前で夕食を済ませたりするのは、慣れているのである。
「さて、着替えるか」
二階へトントンと上がって、ジーパンスタイルになって下りて来ると——ヌッと誰かが前に立った。
「お父さん!」
さやかは、胸を押えて、「ああ、びっくりした!」
「いや、すまん。驚かす気じゃなかったんだが」
中沢竜一郎は、ネクタイを外して、「ちょっと頭が痛かったんでな、早退して来た」
と言った。
「へえ。風邪《かぜ》? 気を付けてよ」
さやかは、台所の方へ行きながら、「今夜、何を取る?」
「何でもいいよ」
「お寿《す》司《し》?」
「うん」
スラスラと話がまとまる。いかに慣れているか、である。
「お父さん、コーヒーいれる?」
「ああ、頼む」
さやかは、このところ、コーヒーにこ《ヽ》る《ヽ》ようになっていた。中学生のくせに、と言われそうだが。
——母、なつきの影響は、まださやかの方にはそう及んで来てはいなかった。
もちろん、母親《おやこ》共演の話はマスコミにも流れていて、学校でも、ずいぶん評判になっていた。しかし、現実には、まださやかは何もしていないし、撮影は夏休みに、ということだったので、さやかは至ってのんびりと構えていた。
まるで演技経験のない素人《しろうと》と違って、さやかは、発声だのダンスだのの基本練習はクラブでやっているから、準備というほどのこともない。
もちろん、実際に撮影が始まったら、何かと大変なのだろうが、そんなことを今から心配してもしょうがない……。
「——はい、コーヒー」
と、さやかは、居間のソファに座っている父の前にカップを置いた。
「やあ、すまんな」
「一杯千円」
と、さやかは言ってやった。
自分はモーニングカップで飲むので——至って薄いコーヒーなのである——台所の方へ戻りかけたが——。
ふと足を止め、
「お父さん」
と、振り向いた。
「何だ?」
少し間を置いて、
「何でもない」
と、さやかは首を振って、また台所へ入って行く。
今の匂《にお》い。あれは、石ケンかシャンプーの匂いだったんじゃないかしら?
でも、会社を早退して来たお父さんが、どうして?
さやかは、
「まさか」
と、呟《つぶや》いた。
どこかで父がお風《ふ》呂《ろ》へ入って来た、なんてことが……。そんなことって、あるだろうか。
父の会社にお風呂なんかあるわけもない。ということは——どこかホテルにでも寄って来た……。
まさか、お父さんが浮気なんて!
さやかは考え込んでしまった。
電話が鳴るのが聞こえた。
「私、出る」
と、さやかは急いで駆けて行った。
宏美から、かかることになっていたのである。
「もしもし。——もしもし?」
相手は何も言わない。いたずらかな、と思った。すると、
「あの——さやかさん?」
男の声だ。
「ええ……」
「高林ですけど」
「ああ、高林さん」
川野雅子副部長の「ペット」の高校一年生である。「何かご用ですか」
「うん」
高林は、少し間を置いて、「さやかさん!」
「は?」
「僕と付き合って下さい!」
さやかは、目を丸くした。
「——どういうこと?」
と、さやかはベッドに引っくり返って、言った。
「分んないね」
床のカーペットに立て膝《ひざ》をして座っているのは、浜田宏実である。さやかの電話で、飛んで来たのだ。
何しろ家も近所同士である。
「だって、いやよ、私。あの川野副部長にネチネチいじめられるのかと思うと」
「おかしいね。どうして高林さんがさやかに……」
「あら、それはどういう意味?」
と、さやかが言うと、宏美が吹き出してしまった。
さやかも一緒に笑い出して、
「だけど、どうせあんな人、趣味じゃないんだ、私」
「でしょ。だったら、ただそれだけの理由で断われば?」
「うん……」
「何よ、さやか、未練があるの?」
「ないわよ、そんなもん。大体付き合ってもいないのに、未練があるなんて言う?」
「そうか。それは言えてる」
「変なことに感心しないで。——ねえ、何だか裏にありそうな気がするんだよね」
「どういうこと?」
「高林さん、副部長が惚《ほ》れてるのを分ってて、私に声かけて来たりするほど、度胸あるかなあ」
「ふーん」
と、宏美は肯《うなず》いた。
「何か目的があって、私に付き合ってくれ、って言って来たんじゃないかと思うのよね」
「どんな目的が?」
「分んないけどさ、そんなの」
「じゃ、付き合ったら、ますますやばいじゃん」
「といって……。付き合ってみなきゃ、向うの狙《ねら》いも分らない。でしょ?」
「まあね」
と、宏美が言った。「あ、下で誰か——」
「お母さんだ。宏美、一緒にお寿司つままない? 私、そんなにお腹《なか》空いてないんだ」
「いいの? お邪魔じゃない?」
「何言ってんの」
二人が居間へ下りて行くと、
「あら、いらっしゃい」
と、なつきが息を弾ませている。
「どうしたの、お母さん。真っ赤な顔して」
と、さやかが訊《き》く。
「変な男の人に追いかけられたのよ、そこで」
「ええ? 本当」
「何だか、『サインして下さい!』ってしつこくて……」
「じゃ、ファンじゃないの」
「でも、いやよ、何だか。スターじゃあるまいし」
なつきは眉《まゆ》を寄せて言うと、「——お寿司食べましょ。それから、この折《おり》詰《づめ》、TV局でもらって来たわ」
かくて、父はもちろん、宏実も加わって、ワイワイと夕食になった。
「——うちの父も、すっかりファンですよ」
と、宏実が言った。
「まあ、どうしましょ」
と、なつきは笑った。
「そのうち、さやかもアイドルスターになるしね」
「よしてよ」
と、さやかは顔をしかめた。
「でも、いやだわ。ちっともTVを見られなくなっちゃって」
と、なつきは言った。「私、どうして、たいていのTV番組がつまらないか、分ったわ」
「へえ。どうして?」
「TVに出る人って、忙しくて、TVを見る時間がないのよ。だから、どんなにつまらないか、分らないんだと思うの」
何だか分ったような、分らないような話だった。
「ああ、そうだ」
と、竜一郎が言った。「なあ、なつき」
「何? お茶?」
「いや、そうじゃない。うちの部長がな、お前のサインがほしいそうなんだ」
竜一郎の言葉に、なつきとさやかは顔を見合わせ、笑い出した。
そんな馬《ば》鹿《か》なこと!——でも、これは現実なんだわ、と、さやかは思った……。