なつきにとって、この二週間ばかりは、前にも増して目の回る忙しさだった。
世の中っていうのは、こんなに凄《すご》い早さで動いてるんだわ、と、なつきは感心したものである。
ま、それまでのなつきの生活テンポが、少し(?)通常より遅すぎたというのも事実かもしれない。
何といっても、習いごとなどでスケジュールが詰っているのと、仕事で忙しいのでは、まるで違う。
「——少しは休まれちゃどうです」
と、移動の車の中で藤原が言った。
「え? ああ……。大丈夫ですわ」
「でも、お疲れでしょう」
「ゆうべはぐっすり眠りましたの」
と、なつきは微《ほほ》笑《え》んだ。「それに、忙しいけれど、楽しいことも色々あって」
「そうおっしゃっていただけると」
と、藤原は言った。「気がとがめてるんですよ。奥《おく》さんをこんなに引っ張り回して」
「お仕事ですもの。それに、引き受けた以上、私にも責任がありますから」
藤原は、なつきがそう言ってくれると、ますます気が重くなるのだった。
いや、藤原としても、なつきに余計な神経を使わせまいとして、インタビューなど、できるだけ断わるようにしている。しかし、撮影開始が近付くにつれて、衣裳合わせだの、セリフの練習だの——何といっても、なつきは素人《しろうと》なのだから——の時間が入って来るのだ。
それに、藤原としては、なつきの知らない問題をかかえ込んでいる。——夫の中沢竜一郎と、女優池原洋子の問題だ。
社長の舟橋に言われて、藤原も改めて当ってみたが、間違いなく二人の仲は、ただの「友人」の域を超《こ》えてしまっていた。
困った話だ……。
藤原は、車を運転しながら、ため息をついた。今夜は珍しく、自分でなつきを送って行くところである。
池原洋子は大体「恋多き女」で、誰と噂《うわさ》になろうと、一向に気にもしない。そんな彼女が中沢竜一郎にとっては珍しかったし、新鮮でもあったのだろう。
しかし、今はまずい。——なつきとさやかの母娘《おやこ》は、芸能マスコミの注目を集めているのだ。
そこへ、なつきの夫が、池原洋子と……。絶好のネタである。
なつきがそのことをどう考えるかはともかく、マスコミ攻勢だけで、ノイローゼになってしまうだろう。
困ったもんだ。何とか話をして、け《ヽ》り《ヽ》をつけてしまわないと……。
社長に言われてから、藤原も忙しくて、中沢竜一郎に会う時間が作れずにいるのだ。
早々に会わなくては。こういうことは、早め早めに手を打っておくに限る。
車は、渋滞を避けて裏道を走っていた。
「——あと二十分ぐらいでお宅に着きますよ、なつきさん」
と、藤原が言った。
返事がない。——見ると、「疲れていない」とは言っていたものの、なつきはやっぱりスヤスヤと眠り込んでいるのだった。
寝顔には、何だか、「無邪気さ」とでも呼びたいものがあって、藤原の青春時代への郷愁を刺激した。
可愛《かわい》いな……。あのころと少しも変っていない。
つい、見とれていた。
裏道とはいえ、割合真直ぐな、そう細い通りでもなかった。それが却ってまずかったのである。
黒い影が、目の前に——。ハッとブレーキを踏んだ。
遅かった!——ドン、という衝撃があった。
車がキュッと音をたてて停《とま》る。その勢いでなつきも目を覚ましていた。
「どうしたんですの?」
——畜生! 何てことだ!
「藤原さん。真っ青ですよ」
よりによって、なつきさんを乗せている時に! はねられた奴《やつ》はどうしたろう?
「藤原さん……」
「いや、何でもないんです」
と、藤原は、ほとんど無意識に言っていた。「すみませんでした。何でもないんですよ……」
「でも——」
「本当に何でもないんですよ」
エンジンをかけようとしたが、なかなかかからなかった。汗が額から伝い落ちて行く。
「藤原さん。言って。何があったの?」
藤原は、体中で息をついた。
「人を……はねたようです」
「まあ、大変」
「すみません。つい——」
「それより、はねた人を……。病院へ運ばなきゃ」
「そうですね」
藤原は肯《うなず》いた。「すみません。どうかしてたんだ。このまま行っちまおうなんて考えたりして」
「無理もないわ。ショックですものね。でも放っておいちゃいけないわ」
「分りました。ともかく外へ出ます。あなたはここに——」
「一緒に行くわよ」
なつきはもうドアを開けていた。
「そうですか」
汗を拭《ぬぐ》って、藤原も外へ出た。——やれやれ。大したことがないといいんだが。
「——あそこだわ」
なつきが言った。
Tシャツ、ジーパンという格好の若い娘が道の端に倒れている。
二人は急いで駆け寄って行った。
なつきの方がやはり落ちついている。その娘を抱き起こすと、心臓の辺りに耳を当てた。
「——生きてるわ。ちゃんとしっかり打ってる」
藤原は、ホッと息をついた。これで、最悪の事態は何とかまぬがれたわけだ。
「けがは……。分らないわね。気を失っちゃってるし」
「病院へ運びましょう。救急車といっても、来るまでに時間もかかるし」
「知っている所、ありますの?」
「この近くの外科なら。よくタレントを連れてく所です。秘密も守ってくれるし」
「でも、ちゃんと届けないと。——じゃ、ともかく車に乗せましょ」
二人がかりで、その娘を車へ運び入れると、藤原も大分落ちついて来た。
「なつきさん」
と、車を再びスタートさせながら、藤原は言った。「すみませんが、この道を抜けた所で降りて、一人で帰って下さい」
「でも、大丈夫?」
「なつきさんが乗っていたと分ると、ただの事故じゃすまなくなりますからね」
「そう。——分りました」
「すみませんね、厄《やつ》介《かい》をかけて」
なつきは黙っていた。
車が広い通りに出た所で、なつきは降りて、
「じゃ、後で電話して下さい」
と、藤原に言って、タクシーを拾った。
——藤原は、なつきの乗ったタクシーが走り去るのを見送って、息をついた。
「さて、病院だ」
車なら五分の所だ。ともかく軽く済んでくれるといいんだが……。
藤原は、車を出す前に、ふと後ろの座席に寝かせた娘の方を振り返った。
「——ねえ、君。聞こえるかい?——ねえ、君」
だめだ。しかし……も《ヽ》ち《ヽ》ろ《ヽ》ん《ヽ》気を失ってるだけだろうな。
藤原は、ふと手をのばして、その娘の手首を持ち上げて、脈をみてみようとした……。
「——へえ、なかなかいいじゃないか」
と、中沢竜一郎が言った。
「そんなの着るの、初めて。恥ずかしかったわ」
居間で寛《くつろ》ぎながら、なつきが衣裳合わせをして撮って来たポラロイド写真を見ているのである。
「いいなあ、お母さんは」
と、さやかが覗《のぞ》き込んでふくれる。「私なんか、セーラー服ばっかり。野《や》暮《ぼ》ったいんだから」
「仕方ないわよ。そういう役なんだもの」
と、なつきは言った。「それより、セリフを憶《おぼ》えるっていうの、大変ねえ。さやか、何かいい方法知ってたら、教えてよ」
「知らないよ、だ」
と、さやかは舌を出してやった。
「何をやってんの」
三人で笑い出す。——いとも和《なご》やかなムードであった。
しかし、なつきはともかく、さやかの方はどこか、「わざとらしさ」を感じ取っていた。
父親がいやに愛《あい》想《そ》良く、なつきのご機嫌を取っているからである。もともとそんな風だったのならともかく、父はそういう点、気のきかない人だ。
——いつか、父が石ケンの匂《にお》いをさせていたことを、さやかは思い出していた。
どこかおかしい……。
さやかは、一向に気付かない様子の母親を、少々不安げに眺めているのだった。