「ね、さやか。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
と、なつきは言った。
普通は娘の方が母親に相談を持ちかけるのだが、中沢家では逆——とまでは言わないが、無邪気ななつきが、しばしばクールなさやかに相談するということがあった。
「なあに?」
と、さやかは訊《き》いた。
「忙しければいいんだけど」
「構わないわよ」
さやかは映画『母娘《おやこ》坂《ざか》』の台本を閉じた。
——なつきとさやか、二人して、今日はポスター用の写真撮影である。
ただの写真といっても、映画のポスターのためとなると、ちゃんと役の衣裳もつけなくてはならないし、メーキャップもして、ヘアスタイルも……。
なかなか準備も大変なのである。
場所は都内の、ある古い屋敷。よくこの手の撮影で借りる場所らしい。
カメラマンが、色々とアングルやら構図やらを工夫している間、二人は、ソファにかけて、呼ばれるのを待っていた。その間に、さやかは台本を広げていたのである。
「でも、憶《おぼ》えてたんじゃないの、セリフ」
と、なつきが言った。
「え? ああ、この台本?——今日は写真とるだけよ。セリフしゃべるわけじゃないんだし」
「そりゃそうだけど……」
「それにもう暗記しちゃったわよ」
「まあ凄《すご》い」
と、なつきは目を丸くして、「私なんか、何回読んでも憶えないわ」
「大丈夫。あんまり無理して憶えようとしない方がいいわよ。そのうち、スーッと頭に入って来るから」
「でも、私の頭はたいてい素通りしてっちゃうのよね」
と、なつきは真《ま》面《じ》目《め》に言った。「我ながら感心しちゃう」
「変なことに感心しないで」
と、さやかは笑って、「で、何なの、話って?」
「うん……」
なつきは、カメラのセッティングをそばで眺めている藤原の方へ目をやった。
「——お母さん」
「え?」
「まさか……藤原さんのこと、好きになったとか言うんじゃないでしょうね」
「ええ?」
なつきは目を丸くした。「藤原さん? そりゃ、いい人だし、頼りにしてるわ。でも、お仕事の上でのお付き合いじゃないの」
「向うはそう思ってないよ」
なつきは面食らって、
「何を言い出すの」
「本当よ。気が付いてないのは、お母さんぐらいじゃない? 誰が見たって、藤原さんはお母さんに参ってる」
「まさか」
と、なつきは笑って、「そんなことじゃないのよ。——いえ、そんなことかもしれないわ」
「何よ、それ?」
「ねえ、お母さんが藤原さんに対して失礼なことしたと思う?」
「ええ?」
さやかはわけが分らずに訊《き》き返した。
「いえね。きょうは、会ってからほとんど口をきいてないの。いつもなら、藤原さんの方からあれこれ話しかけて来るんだけど、今日に限って……。だから、何か自分で気が付かないうちに、失礼なことを、言うかするかしたのかもしれないと思ったのよ。さやか、どう思う?」
「そんなこと——」
知らないよ、と言おうとして、さやかはためらった。
実のところ、さやかは今、家の中が何かと不安定になっていることに気付いている。
たぶん母は何も分っていないけれども、父は女を作っているようだ。もしそれが知れたら、母がどう反応するか、さやかには想像もつかなかった。
およそ、さやかの両親は夫婦喧《げん》嘩《か》なんかしたことがないのだから。
しかし——もしかすると藤原は、父の浮気に気付いているかもしれない。
藤原が母に惚《ほ》れていることは、さやかにも確信があった。その藤原にしてみれば、父の浮気は、母に接近する絶好のチャンスだ!
今日、藤原が何となく母によそよそしいというのも、もしかすると、藤原の「手」かもしれない、と思った。
相手が気になるように、わざとそっけなくする、というのは、よくある手だ。現に、母は気《ヽ》に《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》。
しかし、さやかとしては、父の浮気を何とかやめさせて、家の平和を取り戻したい、と思っているのだ(今でも、一応は平和だけれども)。そこへ藤原と母の恋となったら、ややこしくて仕方なくなる。
これは何とかしてやめさせなければ!
「どうしたの?」
と、なつきが気にして、「何を考えてるの?」
「別に」
と、さやかは首を振った。「そんなの、考え過ぎよ、お母さんの」
「そうかしら」
「そうよ。藤原さんだって、忙しいんだから、色々考え込むことだってあるわ」
「そりゃそうだけど……」
「気にしないのよ」
さやかは、ポンと母の肩を叩《たた》いた。「元気出して!」
どっちが親だか……。
そこへ、カメラマンの、
「じゃ、お願いします」
という声。
藤原がやって来て、
「初めは一人ずつお願いします。それから、庭へ出てお二人で一緒に」
「分りました」
と、なつきは肯《うなず》いて、「じゃ、どっちから先に?」
「なつきさんからにしていただけますか」
「分りました」
と、なつきが立ち上がる。
「お母さん、頑張って」
と、さやかが声をかけた……。
「はい、階段をゆっくり下って来て下さい。——はい、いいですよ。いい雰囲気。——目はあのシャンデリアの辺り。——はい、すばらしい!」
カメラマンの、リズミカルな声が屋敷の中に響いている。
さやかは、離れた所で、母の撮《さつ》影《えい》を見ていたが……。
「いつもセーラー服ですみませんね」
と、藤原が来て言った。「この次は、何か可愛《かわい》い服を考えますから」
「別にいいですよ」
と、さやかは笑って言った。「あのね、藤原さん」
「何です?」
「一つ、訊《き》いていい? いや、二つかな」
「いくつでもどうぞ」
「その一」
「はい」
「母のこと、好きでしょ」
藤原はドキッとした様子で、
「そ、そりゃ——お母さんを好きな男は、今、日本中にいますよ」
「そうじゃないの」
と、さやかは首を振った。「個人的に、母のこと、好いてるでしょ。隠さないで」
「それは、その……」
と、しどろもどろ。
「答えたと同じね。その二。父に女の人がいるの、知ってます?」
藤原は、それこそ目をむいた。
「ど、どうしてそれを——いや、そんなことを」
「やっぱりね。相手の女を知ってる?」
「あ、あのですね、さやかさん。人間というのは、何といっても——」
「答えて。母はまだ何も気付いてないの。気付いてないうちに、解決したいの」
藤原は、ため息をつくと、撮影しているなつきの方を、チラッと見て、
「同感です」
と、肯《うなず》いた。「しかし——相手は、池原洋子ですからね」
「女優の? 呆《あき》れた!」
と、さやかもびっくりした。
「こっちもびっくりです。しかし、何とか手を打ちますから」
「父と池原洋子ねえ……。イメージ合わないなあ」
と、さやかは首をかしげた。「——ね、藤原さん、そのチャンスに、うちの母を、つり上げようっていうんじゃないわよね」
「とんでもない!」
と、藤原は強く首を振って、「昔から、なつきさんは僕の憧《あこが》れでした。それを何で今になって——」
「昔《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》?」
さやかに訊《き》かれ、しまった、という顔になった。
「藤原さん」
さやかは、藤原をにらむと、「正直に白状しなさい!」
「——分りました」
藤原はため息をついた。「でも、これは、なつきさんには内緒ですよ」
「お話によります」
何といっても、さやかの方が強《ヽ》い《ヽ》のである……。