車が走り出すと、さやかは振り向いて、
「あ、手を振ってる!——バイバイ!」
「あの息子《むすこ》ですか」
と、藤原が言った。
「なかなか、面白い子よ」
と、さやかは座席に落ちついて、「ねえ、お母さん」
「いや、なつきさんは不思議な力を持った人ですよ」
と、藤原は言った。「あの未亡人、別人のように活《い》き活きしてた」
——なつきが、とうとう財前母子を庭まで引っ張り出し、記念撮影までしてしまったのである。
「今度、お花の会にご一緒する約束もしましたわ」
「いや、大したもんですよ」
と、藤原は笑った。
「さやかは?」
「私がどうしたの?」
「あの息子さんと、何かお約束でもしなかったの?」
「いやだ、やめてよ」
と、さやかは肩をそびやかし、「悪い人じゃないと思うけど、好みのタイプじゃないわ」
「あら、結構気が合ってたみたいだったのにね」
「私、ボランティアじゃないの」
と、さやかは言って、車の外へ目をやった。
もちろん、黙っていた。あの家の電話番号をメモして、持って来たということは……。
「——お疲れさん」
藤原は、タクシーを先におりて、スタッフに声をかけ、手を振った。
「やれやれ……」
欠伸《あくび》が出る。夜中の三時だ。
なつきとさやかについて歩くのも、もちろん藤原の仕事だが、それだけでは終らない。
なつきとさやかを、家まで送った後、山ほど仕事が残っているのだ。
それを片付けてマンションへ帰ると、もうこんな時間。
これで、朝の七時には起きなくては、明日の仕事に間に合わない。
この年齢《とし》まで独りなのも、無理はない、というところである。
藤原は、エレベーターに乗ると、また欠伸をした。——さて、今日はどうだろう?
日を重ねるごとに、絶望的な気分になって来る。
自分の部屋のドアまで来て、藤原は鍵《かぎ》を出したが、まず手でノブをつかみ、開くかどうかためしてみた。
「——だめか」
と、ため息をつく。
鍵をあけ、中へ入って、藤原は、居間へ入って行った。
ソファに横になって、若い女が、眠り込んでいる。
この間、藤原が車ではねた女である。
病院へ運ぶ前に、意識が戻ったのはいいのだが、自分の名前も住所も、何も憶《おぼ》えていない。車にはねられたことも、忘れてしまっていたのだ。
藤原は、これならうまくごまかせるかも、と、このマンションへ娘を連れて来たのである。
何日かすれば、記憶も戻るだろうし、そうしたら、金でもやって、口止めすれば……。
その考えは、悪くないと思えた。ところが——。
肝心の記憶が、一向に戻らない。
娘の方も、何だか、台所の仕事をしたり、掃除をしたり、このマンションに居ついてしまいそうな雰囲気になって来た。
藤原としても、この数日、悩んでいたのである。
出かけている間に、記憶が戻って、いなくなっているんじゃないか、と毎日期待して帰って来るのだが、今のところ、全くその様子もない。
といって——今さら警察へ届けるわけにはいかない。今まで放っておいたことを説明できやしないのだから。
藤原は、肩をすくめて、
「シャワーだけ浴びるか」
と呟《つぶや》いた。
バスルームへ入り、汗を流すと、大分疲れも消える。
何といっても、なつきやさやかと毎日仕事をしているのだ。同じ仕事でも、疲れ方が違う。
フウッ、と息をついて、バスタオルを腰に巻き、寝室へ入って行く。
明りをつけて、藤原はギョッとした。
ついさっき居間のソファで寝ていた娘が、ベッドに入って、目を開いている。
「びっくりさせないでくれよ」
と、藤原は胸を押えた。「そこで寝たいのかい? じゃ、僕はソファで寝よう。大丈夫さ、慣れてる」
娘は、ベッドにスッと起き上がった。そしてベッドを出て、藤原の方へ歩いて来る。
藤原は呆《ぼう》然《ぜん》として、裸の娘を見つめていた。
娘は黙って藤原の手を取ると、ベッドの方へ引っ張って行く。
藤原は、何だかわけの分らないうちに、ベッドへ入っていた。そして娘の体が自分の上に……。
その先まで、「わけが分らなかった」では通用しないとしても、藤原は、最後まで、自分が夢を見てるんじゃないか、という気持でいたのだった……。
朝、藤原は、電話の音で目が覚めた。
「ワッ!」
手をのばしたら、何か、やわらかいものに触れて、それがあの娘の肌だと知ると、完全に目が覚めてしまった。
本当に……。何てことだ!
「なつきさん!」
と、藤原は悲痛な声をあげた……。
電話の方は、藤原の嘆きに同情する気配もなく、鳴り続けている。
「——はい」
「いつまで寝とるんだ!」
社長の舟橋の声が飛び出して来た。
「す、すみません」
「早く出て来い! 急用だ」
「何か?」
「何しとったんだ、お前は」
「といいますと?」
「池原洋子と、中沢竜一郎の件だ」
「あ、あのですね——一応、プロダクションへ話をして——」
「手ぬるい!」
「はあ」
「情報が入ったぞ。二人の仲をかぎつけた奴《やつ》がいる」
「週刊誌ですか」
「そうだ。誰かがネタを売ったんだ」
「どうします?」
「それをお前が考えろ?」
——藤原は、電話を切ると、ベッドの方を見て、いとも無邪気な顔で寝ている、名前も知らない娘が目につくと、頭をかかえて、天を仰いだのだった……。