「あ、もしもし」
と、電話を取って、中沢竜一郎は言った。「中沢ですが。——もしもし?」
耳を澄ましていると、
「フフ……」
と、忍び笑いが聞こえて来る。
とたんに竜一郎の顔が、デレッとしまらない表情になる。
「なんだ、誰かと思った」
「お仕事中でしょ? ごめんなさいね」
会社に午後の二時ごろ電話すりゃ、「仕事中」に決まっている。
「いや、構わないよ。どうしたの?」
構わないことはない。大いに構うのである。
課長たる者が、女性からの電話にヘラヘラしていたのでは、仕方ない。
「その分じゃ、まだ大丈夫みたいね」
と、池原洋子は言った。
「大丈夫って、何が?」
「今日ね、うちの社長から言われたの」
と、池原洋子はつまらなそうな口調で、「中沢なつきの亭主とはやめとけ、って」
「な、何だって?」
竜一郎は仰天した。
何しろ、池原洋子との付き合いには充分に用心しているつもりでいるのだ。もっとも、そう思っているのは、当人だけだろうが。
「だから、そっちにも話がいってるかと思ったの」
「いや、こっちは別に——」
と、竜一郎は言って、「しかし……どうして……」
「色々、口やかましい人がいるからね」
「そうだね。しかし……」
竜一郎としては、ばれることが怖いよりも、これで池原洋子と会えなくなることの方が、心配なのである。
「私は、社長に言ってやったわ。『恋愛の自由を侵さないで』ってね」
「そうだとも! 基本的人権だよ!」
何を言っているのか、自分でもよく分っていない。
「私、あなたのことを諦《あきら》めないわよ。あなたも、でしょ?」
「も、もちろんだ!」
「良かった。——じゃ、また金曜日にね」
「分ってるよ」
「愛してるわ」
「僕も愛——」
と、言いかけて、さすがに、部下の女の子たちの耳が気になり、口をつぐんだ。
「じゃあね」
チュッとキスの音がして、電話が切れた。竜一郎は、しばし夢見心地で、受話器を握っていたが、やがて、フッと我に返ると、受話器を戻して、仕事にかかった。
「課長」
と、女の子が呼ぶ。
「何だね?」
「社長がお呼びです」
「ああ、分った」
竜一郎は席を立つと、「君ね、これをまとめといて。——僕がいないからって、のんびりさぼってちゃいけないよ」
「注意します」
「じゃ、頼むよ」
竜一郎が出て行くと、女の子たちがドッと笑い崩れた。
「——よく言うよ!」
「本当! 自分は女の電話でデレデレしてるくせして」
「でも、可愛《かわい》いと思わない?『僕も愛してる』って言いかけて、あわててやめるとこなんか」
「ほんと、ほんと!」
完全に見抜かれているのだ。
知らぬが仏の竜一郎は、父、中沢竜重の部屋、つまり社長室のドアを叩《たた》いていた。
「どうぞ」
ノックの音に、池原洋子は言って、「あ、そうか」
ここはホテルだ。ドアの鍵《かぎ》は自動ロックである。
もっとも、池原洋子がこのホテルに泊ったといっても、男と一緒ではない。ゆうべの仕事が、午前三時までかかり、「くたびれた」と文句を言ったら、TV局で、ここを取ってくれたのである。
おかげで、二時までぐっすり眠ってしまった。
自分が払うわけじゃないから、いくら超過料金がついても平気である。
「——どなた?」
と、ドアの方へ歩いて行って声をかける。
「Mプロの藤原です」
意外な相手だった。
「まあ、どうも」
と、ドアを開けて、「珍しいじゃないの、ねえ!」
「どうも、いつもお世話に」
「いいから入ってよ。——びっくりしたわ」
池原洋子も、藤原のことは良く知っているのだ。
とにかくこの世界は、口ばかり達者で、あてにならない人間が多いのだが、その中で、藤原はちょっと変っている。つまり、信用できる相手なのである。
「失礼します」
と、藤原はまだドアの所に立っている。
「何よ。——さ、入って」
「いいですか、ドアを閉めても」
池原洋子は噴き出して、
「珍しい人ねえ、あなたって。もちろん、閉めていいわよ」
「それじゃ……。いや、局の方へ電話したら、たぶんまだここだろう、というんで」
「今起きたところ。電話くれたの?」
「ええ、でもつなぐなと言われている、って……」
「そうなの。ごめんなさい」
「いえ、とんでもない。——実は、お話があって」
池原洋子は、
「待って。——ねえ、コーヒーを飲みたいのよ。ルームサービス、頼んでくれる?」
「いいですよ」
「あなたも、よかったらどうぞ。どうせ局の払いよ」
「じゃ、遠慮なく」
藤原は、ルームサービスでコーヒーを二つ頼んだ。池原洋子は、窓から表を見ながら、
「社長から聞いたわよ。中沢さんとのことでしょ?」
と、言った。
「まあ……そうです」
「ただの遊びよ。大人《おとな》同士。放っといてくれない?」
「それが、そうもいかなくなって」
「どうして? あのなつきさんが、気付いたの?」
「いや、あの人は……。およそ人を疑うなんてことのない人ですから」
「この世界じゃ珍しいわね。あなたと同様にね」
藤原は、落ちつかない様子だ。
「いや、実は——例の写真週刊誌が、あなたと中沢さんのことをつかんだんです」
「へえ」
と、池原洋子は目をパチクリさせて、「そう! なかなかやるわね」
「感心してる場合じゃありません」
「私、平気よ。年中やられてるもん」
「ですが、中沢さんの方は……。これから『母娘《おやこ》坂《ざか》』の撮影って時に、まずい、とうちの社長が——」
「そりゃそうね。でも、止められるの?」
「今は何とか。——でも、握り潰《つぶ》すわけにはいきません」
「じゃ、どうするの?」
「色々考えました」
と、藤原は言った。「で、結論としましては……」
「なあに?」
「その……身替りを立てて、この場をしのごう、と」
「身替り?」
「はい。不本意とは存じますが、池原さんの相手に別の人間を用意して、その写真をとらせて、スクープさせよう、と……」
「へえ、面白い。でも、代りになるような人がいるの?」
「はあ、色々と考えまして……」
と、藤原は額の汗を拭《ぬぐ》っている。
「誰なの?」
池原洋子は、興味津《しん》々《しん》という様子。
「あの……甚だ役不足ではありましょうが、もしおいやでなければ、私が……」
藤原は、やっとこ言葉を押し出した。
「藤原さんが?」
池原洋子は、飛び上がって笑い出した。
「いや、そりゃ——無理な組み合わせであるのは百も承知でして——」
「だけど……。ああ、びっくりした!」
池原洋子は、笑い過ぎて涙が出たのを拭《ふ》きながら、「でも——藤原さんって、奥さん、いないの?」
「おりません」
「じゃ、まあ、その点はいいわね。だけど——そのアイデア、社長さんの?」
「いえ、私のです」
「ふーん」
と、池原洋子は肯《うなず》いて、「大変ねえ、あなたの仕事も」
「いかがでしょう?」
池原洋子は、窓辺に立って、外を見ながら、しばらく考え込んでいた。藤原は、じっと黙って、答えを待った。
やがて、池原洋子は振り向いて、
「もし、私がOKしたら、どうなるの?」
「ちょうどホテルにおられるので、カメラマンを連れて来ております。この部屋を、腕を組んで出たところをパッと一枚とらせることにして——」
「手回しのいいこと」
「恐《おそ》れ入ります」
藤原は、両手をギュッと握り合わせて、「ご承知いただけますか」
「——そうね」
と、言った時、ドアにノックの音がした。
「ルームサービスでございます」
「藤原さん、受け取って」
「はい」
藤原は、ドアを開けに行った。「——あ、中へ運んで。テーブルに置いてくれ」
「失礼いたします」
と、ボーイが盆を手に部屋へ入ると、「——よろしいんですか、入って?」
「どうして?」
振り向いて、藤原は仰天した。
池原洋子が、服を素早く脱ぎ捨てて、ベッドに入り、裸の肩を出しているのだ。
「あら、そこへ置いてもらって」
と、平然と言って、「それからね、あと一時間、この部屋を延長する、とフロントの人に伝えてね」
「かしこまりました」
と、ボーイは、目を丸くしながら、盆をテーブルへ置いた。
「ねえ、あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》」
と、池原洋子は藤原を見て、ニッコリ笑った。
「一時間あれば、もう一回愛し合えるじゃないの」
藤原は、笑ったつもりだったが、ただ顔が引きつっただけでしかなかった……。