「さすが……」
と、さやかは呟《つぶや》いた。
明日が撮影の初日。——クランク・インというやつだ。
前日のミーティングは、明日の場面のセリフを読み合わせすることから始まった。
「——はい、もう一度」
と、ボールペンをクルクル回しながら言ったのは、この『母娘坂』の監督をする、早《はや》坂《さか》である。
なつきの出るCFを撮った雨宮がやりたがっていたのだが、やはり、
「本《ヽ》編《ヽ》には不向き」
という舟橋の一言で、早坂に決まった。
TV映画と区別して、劇場用の映画のことを、「本編」と呼ぶのだということを、さやかは初めて知った。
早坂は、雨宮に比べると、ずっと年輩で、髪もほとんど真っ白になっていた。見た目は雨宮の方が「芸術家風」であるが、早坂の方が監督の格《ヽ》としてはかなり上らしい。
「ベテランですよ」
と、藤原が言っていた。
さやかは、少なくとも今日のところは、早坂に好感を持った。紳士的だし、常識人という感じがする。
丸顔で、童顔だが、目はいかにも苦労人のそれ。
もう何度も同じ場面を読み直している。
早坂は、何も注意しない。さやかもつい緊張して、初めは何でもないセリフで引っかかってしまったが、別に怒られもしなかったのだ。
びっくりしたのは、母のなつきが、案外すらすらとセリフをしゃべることだった。
——池原洋子も、加わっている。
正に、さすが、という貫《かん》禄《ろく》だった。それに、セリフも、やはりプロ。当り前のことではあるが、椅子《いす》に座って読んでいるだけでも、動作が目に見えるようだった。
「もう一度行きましょう」
と、早坂が言った。「——お茶」
助監督が、アッという間に飛んで行って、お茶を全員にいれてくれる。
さやかは、早坂が何か——このセリフはこんな風に、とか、こういう気持で、とか言ってくれたらいいのに、と思ったが、何度もくり返して同じセリフを読むうちに、何となく分って来た。
つまり、セリフが、「自分の言葉になって来る」のだ。
「読む」のではなく、「しゃべる」という感じになる。早坂も、それを待っているのだろう。
ま、考えてみりゃ、いくらベテランの監督とはいえ、主人公の母と娘が「ずぶの素人《しろうと》」と来ているのだ。やりにくいだろうな、と同情してしまう。
「——大分良くなりましたね」
やっと早坂の口が開いた。「もう一回やりましょう」
池原洋子は、少しずつニュアンスを変えてセリフをしゃべっている。監督の顔色をうかがいながら、どれがいいのか、つかもうとしているようだ。
——なつきのセリフに来た。
すると、なつきが、急にハアハア大きく息をし始めたのだ。さやかはびっくりした。
「お母さん! どうかしたの?」
と、思わず声をかけると、
「今からセリフを言うんじゃないの」
と、心外、という顔をする。
「だって、ハアハア息を切らしてんだもの」
「今、気が付いたの。その場面の前で、私は部屋の片付けをして汗だくなのよ。だから、息を切らしてるのが自然かと思って」
早坂が、ニッコリ笑って、
「そうですね」
と、言った。「僕が言わないのに、よく分りましたね」
さやかは、改めて母を見直した。
こりゃ、自分の方が、よっぽど素人なのかもしれない。
——もう一度通して、早坂は、
「いいでしょう。——後は明日、セットで実際に動いてみる。その結果で、また間合も変って来ますから」
と、肯《うなず》いた。「じゃ、今日はこれで」
池原洋子はさっさと立ち上がって、
「じゃ、私は、お先に」
と、にこやかに見回して、部屋を出て行ってしまった。
「——お疲れさんでした」
部屋の隅で座っていた藤原が立ち上がって、言った。「監督、どうですか、手応えは」
「いいですね」
と、早坂は肯いた。「いいものになりそうだ。じゃ、また明日」
なつきとさやかに会釈して、出て行く。
——何となく、ホッと息をついた。
「呆《あき》れてらっしゃるんじゃないかしら。お話にならないって」
と、なつきが言った。
「いや、そんなことはないです」
と、藤原が言った。
「そう?」
「私はよく知ってますから、あの監督。——なかなか、クランク・インの前に、『いいものになりそうだ』なんて言わない人なんですよ」
もちろんお世辞かもしれない、とは思っても、藤原の言葉で、なつきとさやかはホッと顔を見合わせた。
「——じゃ、帰りましょうか」
と、なつきは言った。「藤原さん、どうなさる?」
「もちろん、お送りしますよ」
と、藤原が目をパチクリさせて、「どうしてです?」
「だって、池原さんがお待ちじゃないの?」
藤原は、咳《せき》払《ばら》いして、
「いや、なつきさんもお人が悪い。私なんか遊ばれてるだけですよ」
と、言った。「さ、どこかで食事でも。撮影に入ったら、ろくなものは食べられませんよ」
「ちょっと送っていただきたいの」
と、なつきは言った。
「どこへです?」
「お花の会があって、あの奥さんと待ち合わせてるのよ」
「財前家のですか」
「ええ。あの人も、夕方にならないと出て来られないということだったから。ちょうどいいわ」
「分りました。場所はどこです?」
「Pホテルの宴会場。——さやか、どうする?」
さやかは、肩をすくめて、
「どうでもいいけど……。だって一人で家へ帰ってもね。いいわ。お母さんに付き合ってあげる」
「何だか恩着せがましいのね」
と、なつきは笑った。
さやかは、黙って仕度をした。
撮影所というのも、何ともごみごみした、妙な場所だ。
ここで「夢」を作っているのかと思うと、不思議な気持になる……。
やっと、外も黄昏《たそが》れて、暑さが息をひそめようとしていた。
「——すみません!」
車に乗ろうとしていると、高校生ぐらいの女の子が、三人、駆けて来た。
「サインして下さい!」
なつきとさやか、二人とも、三人にサインしてやって——。
「楽しみにしてます!」
「頑張って下さい!」
口々に言って、帰って行く。
「——何となく、大変なことになった、って気分だわ」
と、なつきは言った。
「ね。まだ映画もできてないのに」
「これがス《ヽ》タ《ヽ》ー《ヽ》ってもんですよ」
藤原はそう言って、「さ、行きましょう」
と、ドアを開けた。
そういえば——と、さやかは思った。
もう夏休みに入ったが、演劇部の合宿が来週からある。もちろん、さやかは行けないのだが。
あの、高林君と、川野雅子のこと、どうなったんだろう? 石塚部長のこともある。
夏休みは、『母娘坂』の撮影であっという間に過ぎ去ってしまうだろう。問題はその後だ。
二学期に入って、何が起こるか。——さやかには、父と母のこと以外でも、悩むことがいくつもあったのだ……。