待っている時に限って、なかなか来ないのは、タクシーもエレベーターも同じようなものだ。
もちろん、さやかと財前浩志が待っていたのはエレベーターだった。
「あ、やっと来た」
と、さやかは言った。「七階へ、いざ!」
「何だか戦場へでも行くみたいだな」
と、浩志は笑った。
エレベーターの扉が開くと——。
「ワッ」
エレベーターに乗っていた、妙なサングラスの男が、さやかを見て、なぜか飛び上がった。
さやかは、それを見て、キョトンとしていたが——。いくらサングラスなんかかけていても、自分の父《ヽ》親《ヽ》ぐらいすぐに分る。
「お父さん!」
「や、やあ、こんばんは」
「何言ってんの! その格好は——」
と、言いかけて、さやかはハッとした。
母親のなつきが、ロビーへたまたま出て来たのか、さやかを見付けて歩いて来るのが見えたのである。——まずい!
「お父さん! お母さんよ」
「え?」
「早くサングラスを外して! ポケットへ——」
「あら、さやかじゃないの」
相変らずのんびりと、なつきがやって来る。
「まあ、浩志さん、さやかの相手をしてくれてるの?」
「いえ……」
と、浩志が照れている。
「お母さん、間違えないでよ」
と、さやかは言った。
「何を?」
「私がこの子の相手をしてあげてるの」
「まあ。——あなたは中学三年生よ。分ってるの?」
と、なつきは言って、「——あら、あなた!」
やっと、目の前に立っている夫に気付いたのだった。「何してるの。こんな所で?」
「いや——その——」
中沢竜一郎のうろたえようは、はた目にも気の毒になるくらいだった。
さやかはため息をついた。——これが我が父かと思うと情ない!
「偶然よね、要するに」
と、さやかは助け船を出した。
当然、あのサングラスを見りゃ、見当はつく。——父は、池原洋子と会おうとしていたのだ。
しかし、下手《へた》な言いわけをすれば、ますますボロが出るだけ。ここは、単純に「偶然」で押し通した方がいい、とさやかは判断したのだった。
「偶然。——そう偶然なんだ!」
と、竜一郎は何度も肯《うなず》いて、「いやあ、偶然ってのは、全く偶然だなあ!」
などとわけの分らないことを言っている。
「そう。——あ、浩志さん、お母様が捜してましたわよ」
と、なつきが言った。
「そうですか」
浩志は、さやかの方をチラッと見て、「じゃ、行ってきます」
「後で、ラウンジへ。一緒にお茶を飲みましょう、ということになってるの」
「分りました」
浩志が足早に行ってしまうと、中沢一家の三人がエレベーターの前に残った。
「それで……」
と、なつきが思い出したように、「ここで何してたの?」
「うん。私がね、ちょっと上に行こうと思ったら、ばったりお父さんと……」
「そうなんだ。いや、偶然ってのは面白い」
と、竜一郎はしつこく言った。
「上に、って……。何かご用だったの?」
「別に」
と、さやかは肩をすくめて、「ただ、あの子とちょっと泊って行こうかと——」
「おい、さやか!」
と、竜一郎が青くなる。
「冗談よ」
と、さやかは笑って言った。
「あんまり親をからかうな!」
「真《ま》面《じ》目《め》なお父さんとお母さんの子だもの。男の子とホテルに泊るなんて、そんなことするわけないじゃないの」
と、さやかは言ってやった。「——本当はね。藤原さんが、何だかひどくあわててエレベーターに乗るのが見えたの。それで、何だか面白そうっていうんで、後を追っかけようとしてたのよ」
「藤原さんが?」
「そう。七階へ上ったらしいから、私たちも七階へ行ってみようと——」
「七階だって?」
と、竜一郎が目を丸くした。
「じゃ、私も行ってみよう」
と、なつきが言った。
「そう? じゃ、お父さん、どうする?」
「うん、俺《おれ》は……」
と、竜一郎は詰って——。
「じゃ、お父さん、ロビーで休んでれば? 何か疲《つか》れてるみたいよ」
「そ、そうか?」
「うん。顔色が悪いし、どことなく熱っぽいし、目が充血してるし、よだれが——」
「狂犬病か、俺は?」
「ともかく、休んでなさいよ」
色々言われて、何となく本当に気分の悪くなった竜一郎は、しきりに額に手を当ててみたりしながら、歩いて行った。
なつきとさやかはエレベーターに乗り、七階に向った。
「——でもねえ」
と、突然、なつきが言った。
「何よ?」
「邪魔しちゃ悪いわ」
「何のこと?」
「もしかしたら、藤原さん、池原洋子さんと会ってるのかもしれないわよ」
「凄《すご》いカン! 冴《さ》えてるじゃない、お母さん!」
まさか、相手が自分の夫とは、思ってもいないのだろうが……。
さやかも、なぜ藤原があわてていたか、いくらか見当がつき始めていた。
藤原は、父と池原洋子が、ここで会おうとしているのを、どうにかして知ったのだ。クランク・イン直前の今になって、もし二人の仲がばれたら大変!
というわけで、あわてて七階の部屋へ駆けつけた。父はきっと、七階のどの部屋かとウロウロしていて、藤原の姿を見かけ、あわてて、エレベーターに飛び乗って逃げて来たのだろう。
さやかは別にシャーロック・ホームズではないが、この程度の推理はできるのである。
「七階よ」
と、なつきが言った。
廊下は静かで、誰の姿も見えない。
「——これじゃ、どこに藤原さんがいるか、分んないね」
と、さやかは言った。
「そうねえ。一つずつドアを叩《たた》いて歩くわけにもいかないし……」
と、なつきは真面目な顔で言った……。
「じゃ、戻る?」
「せっかく上って来て?」
——二人して、ボヤッと突っ立っていると……。
ドアの一つが開いた。
そっちの方へ目を向けると——。
「藤原さん!」
と、なつきが目をみはった。
本当に(というのも変だが)藤原が、よろけるように廊下へ出て来たのだった。
なつきとさやかは、急いで駆けて行った。
「——なつきさん!」
「藤原さん、どうしたの?」
「いや……。えらいことになって——」
藤原は、真っ青になっていた。いや、それだけではなく、膝《ひざ》がガクガク震えていた。
なつきとさやかは思わず顔を見合わせた。
いつも、取り乱すことのない藤原が、こんなに動転しているのは、ただごとではなかった。
「——この部屋で、何か?」
と、なつきは、藤原の出て来た、開いたままのドアを見て、訊《き》いた。
そして藤原が何も答えないうちに、スタスタと、その部屋の中へ入って行ったのだ。
「なつきさん!」
と、藤原があわてて止めようとしたが、遅かった。
さやかも、母を追って、部屋へ入って行った……。
「お母さん、何かあった?」
と、訊いて、さやかは、答えを聞くまでもなかったことを知った。
ツインルームで、セミダブルぐらいの大きなベッドが二つ並んでいた。
その一つの上で、若い女が死んでいた。——いや、もっと正確に言えば、殺されていたのである。