さやかは、二つのことに感心していた。
一つは、母が、こんな場面に出くわしても一向に取り乱したり、叫んだり失神したりしないこと。
もう一つは、自分も一向に騒いだり悲鳴を上げたりしないことだった。——どっちも似たようなものだ。
それは、一般的に、他殺死体を見付けたからといって、女がキャーキャー叫んで回るものではない、ということなのか、それともなつきとさやかの母娘《おやこ》が特別なのか、どっちとも分らなかった。
藤原が、部屋へ入って、ドアを閉めた。
「——この人、藤原さんが殺したの?」
と、さやかは訊《き》いた。
「とんでもない!」
と、藤原は目をむいた。「信じて下さい。私じゃないんです。この階に——池原洋子が泊《とま》ってるらしいので、やって来たんです。そしたら、このドアが少し開いていて、入ってみると……」
「さやか」
と、なつきが、いつもと少しも変らない口調で言った。「藤原さんが人を殺すと思う?」
「なつきさん!」
と、藤原が胸迫って、「あなたがそうおっしゃって下さると——」
「そりゃ、殺すことだってあるんじゃないの?」
と、さやかはアッサリと言った。「でも、この場合は違うみたい」
「そうよ。刺されて死んでるけど、血が——。藤原さん、少しも返り血を浴びていないじゃないの」
なつきは、そう指摘した。
「同感」
と、さやかは肯《うなず》いた。「大体、この人、誰?」
池原洋子ではないのだ。
もっと若い女で——ほとんど裸同様の格好だった。
「私、どこかで、この女の人、見たことがあるわ」
と、なつきが歩み寄って、まじまじと見つめる。
さやかも、母の度胸に唖《あ》然《ぜん》とした。
さやかは、別に失神はしないまでも、やはり死体に近付きたい、とは思わなかった。
「——誰だったかしら?」
と、なつきは首をかしげている。
藤原が、ちょっと咳《せき》払《ばら》いして、
「なつきさん」
と、言った。「その娘は——」
「ああ!」
と、なつきは肯いた。「思い出したわ! 藤原さんが車ではねた人ね」
「そうなんです」
と、藤原は、すっかり沈み込んだ様子で、言った。
「でも——この人がなぜこんな所で殺されてるの?」
「見当もつきません。本当ですよ。なつきさんに嘘《うそ》はつきません」
「この人の身《み》許《もと》は?」
と、さやかが言った。
「それが、分らないままでして」
「ええ?」
なつきが目を丸くした。「分らないって——」
「聞いて下さい」
藤原は、この娘がすっかり記憶を失って、彼のマンションに居座ってしまっていたことを説明した。
「——まあ、そんなことがあったの!」
と、なつきは目をパチクリさせた。「それじゃ、この人と、藤原さん……」
「はあ」
と、藤原は素直にうなだれた。「この娘の方が、私のベッドへ入って来るんです」
「怪しいな」
と、さやかが言った。「藤原さん、力ずくでこの人をものにしようとして、抵抗されて、つい……」
「さやかさん——」
「心配しないで」
と、なつきが言った。「さやかは本気で言ってるんじゃないのよ」
確かに、さやかも藤原がこんな残酷なことのできる人間だとは思わないが、しかし、人間、追いつめられると、何をするか分らないものだし……。
「——ともかく、とりあえずは、今、どうするかよ」
なつきはそう言って、考え込んだ。
ものの一、二分、考えただろうか。なつきは、軽く息をついて、
「ここを出ましょう」
と、言った。
「どうするの?」
「ここを出て、近くからホテルのフロントへ匿名電話を入れるのよ」
「じゃ、逃げちゃうの?」
「仕方ないでしょ。このまま警察へ届けたりしたら、まず、藤原さんが捕まるわ」
「なつきさん、さやかさん」
藤原が、やっと平静に戻って、「お二人とも、何もかも忘れて下さい。私のことで、ご迷惑はかけられません」
「手遅れよ」
と、さやかは言ってやった。「それに、この人の身許とか、興味あるじゃない」
——映画のクランク・インを明日に控えてとんでもない「前夜祭」だわ、とさやかは思った……。
「——お待たせして」
ラウンジへ、なつきとさやかが入って行くと、財前令子と浩志の二人は、もう先に座っていた。
「いいえ。のんびりしていましたの」
と、財前令子は言った。「本当に、こんな気持、もう何年も忘れていましたわ。外出するって、すばらしいことですね」
「良かったわ、喜んでいただけて」
と、なつきも席に落ちついて、言った。「後で疲れが出て、寝込まれないとよろしいんですけど」
「あなたが充分、気を付けてあげるのよ」
と、さやかは浩志に言った。
「分ってるよ」
浩志は、素気なく言ったが、それはただ照れているだけで、充分に母親のことに気をつかっているのは、はた目にもよく分った。
「さやかさん」
と、財前令子は言った。「この子を、ちょくちょく引っ張り出して下さいね。まだ若いんですから」
「承知しました」
さやかは即座に肯いた。「しっかり、こき使います」
二人の母親が、声を上げて笑った。
さやかは、二人の笑い声が、とてもよく似ていることに、気が付いた……。
——帰りに、タクシー乗り場へ歩きながら、母親同士と子供同士、少し離れた格好になった。
「明日から、撮影だろ」
と、浩志が言った。
「うん」
「じゃ、忙しくて、なかなか会えなくなるだろ」
「そうね。あなたが来りゃいいのよ」
「どこへ?」
「ロケ地とか、撮影所とか」
「行って何するんだ?」
「ボディガード」
浩志は笑って、
「こんな頼りないボディガード?」
「本気よ」
と、さやかは低い声で言った。「危険があるかもしれないの」
「何だって?」
「来てくれる?」
さやかは、浩志を見た。
「——行くよ」
と、浩志は言った。
——タクシーに、先に財前親子を乗せて、お別れを言う時、さやかが、
「ああ、そうだ」
と、言った。「浩志さんたら、このホテルの庭で私にキスしたんですよ!」
「おい!」
タクシーが走り出した。中で浩志が母親にあれこれしゃべっている。
「フフ、面白い」
と、さやかは笑った。
「さやか。本当なの?」
「キス? うん」
「そう」
「さりげなくね」
二人はタクシーに乗った。
「——さやか、あれで正しかった?」
と、なつきが言った。
「藤原さんのこと? もう決めたんだから、くよくよしても——あ!」
と、さやかが声を上げた。
「どうしたの? 忘れもの?」
「うん。——お父さん、忘れて来た」
「あら、本当だ」
と、なつきは言って、「誰かが拾ってくれてるかしら?」
と、真顔で呟《つぶや》いたのだった。