「カット」
と、早坂の声が飛ぶ。
さやかはホッと息をついた。早坂監督は、ヘッドホンを頭につけた録音技師の方へ目をやって、音声の問題がないか確かめる。
録音技師が肯《うなず》いて見せると、早坂は、
「OK。結構だった。今日はここまで」
と、言って、ディレクターチェアから、腰を上げた。
「お疲れさん」
「お疲れ」
と、セットの方々から声が飛んだ。
「どうもありがとうございました」
と、さやかは、今のシーンで共演していた池原洋子に頭を下げた。「素人《しろうと》相手で、大変でしょ」
「そんなことないわ」
と、池原洋子は笑って、「私はただ、慣れてるだけ。あなたもお母さんも立派なもんよ」
満更、お世辞ばかりでもないらしい。
「ご苦労様」
と、やって来たのは、藤原である。
「あら、私の可愛《かわい》い藤原さん」
池原洋子がわざとらしく笑いかけると、藤原は赤くなって、
「人をからかっちゃいけませんよ」
と、苦笑した。「さやかさん。お母さんが表の喫茶店でお待ちです」
「ええ、すぐ行くわ。お先にどうぞ」
さやかが、セットの隅の方に立っている財前浩志へ手を振った。浩志も手を振って見せる。
「あの子、なかなか可愛いじゃない」
と、池原洋子が言った。
「もう私のお《ヽ》手《ヽ》つ《ヽ》き《ヽ》です」
と、さやかは言ってやった。
「明日は、鎌《かま》倉《くら》の方でロケですから、早く寝て下さいよ」
と、助監督が声をかけて行った。
「じゃ、今夜は男抜きで寝るか」
と、池原洋子は伸びをすると、「じゃ、私《ヽ》の《ヽ》藤原さん、おやすみなさい」
パチッ、とウインクして、自分のマネージャーの方へと歩いて行く。
「——やれやれ」
藤原が汗を拭《ふ》いたのは、スタジオの中が暑いせいばかりでもないようだ。
「どうだった、今日は?」
と、さやかは訊《き》いた。
「日に日に上手《うま》くなりますよ」
「ハハ、口が達者なんだから」
と、さやかは笑って言った。
——クランク・インして五日たっていた。
セットでの撮影、それも比較的、やりやすいシーンを頭に持って来ているのは、おそらく早坂の気配りなのだろう。
それにしても、なつきもさやかも、スタッフや共演者を手こずらせることなく、順調に撮影をこなして来ていた。
まあ、なつきは時たま、セリフをポカッと忘れたり、トチッたりすることがあったが、それは他のプロの役者だって同じであった。さやかは、演劇部員のプライドにかけて(!)セリフは完全に頭へ叩《たた》き込んでいたので、母親よりNGは少なかった。
いずれにしても、並の新人とは全く違う、という周囲の評価は、決してお世辞ではなかったのである。
「早坂さん、何してるの?」
と、さやかは藤原に訊いた。
「カメラマンと、明日の打ち合わせでしょう」
「晴れるといいわね」
「そうですね。雨だとまたセットですから」
「——やあ」
と、浩志がやって来た。
「見てた?」
「うん。すっかり落ちついてやってるじゃないか」
「落ちついてるからって、いいとは限らないのよ」
と、さやかは言った。
ベテランや名優の方が「あがる」という話はよく耳にすることだ。あのチャップリンでさえ、晩年になっても、本番前は青くなって震えていた、というのだから。
「行こうか」
「うん」
さやかは、浩志と二人で、スタジオを出ようとした。
「——おっと」
と、出口で、誰かとぶつかりそうになる。
「あ、社長さん」
と、さやかは言った。
プロダクションの社長、舟橋だ。
「何だ、せっかく見に来たのに、もう終ったところか」
と、舟橋は言った。「——やあ、監督」
早坂が、舟橋と握手をして、
「いい仕事になりそうですよ」
と、肯いた。
藤原が、
「社長、何かご用ですか」
と、やって来る。
「うむ。例のチョコレートのCFの件で、今日電話が入ったんだ」
大人《おとな》たちの仕事の話が続くのを後にして、さやかと浩志は、撮影所の門の方へと歩き出していた。
もう夜の九時を回っている。
「——疲れたかい?」
と、浩志が言った。
「大丈夫。まだこれからよ。今から疲れてちゃ、お話にならないわ」
「張り切ってるな」
「あなたも、陽《ひ》焼《や》けして、ずいぶん元気そうになったわ」
「付き合わされてるからね」
浩志はそう言ってから、ちょっと周囲を見回して、「例の事件、何か分ったのかな」
と、言った。
浩志に、ボディガードに来てもらう(?)以上、隠《かく》しておくわけにもいかず、さやかはホテルで、あの名前も分らない女性が殺された事件について、話してある。
「TVのニュースをビデオにとってるんだけど、今のところ身《み》許《もと》も分らないようね」
「身許が分っても、藤原さんと彼女を結びつけるものって、あるのかな」
「ないことはないわ」
と、さやかは言った。「池原洋子よ」
そこへ、
「じゃ、また明日!」
と、当の池原洋子が、マネージャーの運転する車で、二人を追い越しながら、窓から手を振った。
「さよなら」
と、さやかも手を振った。
「——そうか。現場の部屋を借りたのが、彼女かもしれないんだろ」
と、浩志が肯《うなず》く。「でも、それなら、とっくに分ってていいんじゃないか?」
「私もね、どうしてだろう、って考えたのよ」
と、さやかは言った。「たぶん、池原洋子が別の名前で借りたからよ」
「そうか。——そういえば、本人の名で借りるわけないものな」
「ね? ホテル側も、あんまり進んで協力したくないだろうし。——でも、そのうちには分るでしょうね」
「そうなると、藤原さんの名も出て来るんじゃないか?」
「どうかしら」
さやかは首を振った。「ま、ともかく、今のところは無事ってわけよね」
——ところが、さやかの思っているほど、無事でもなかったのである……。
「あら、藤原さんは?」
撮影所の前の喫茶店で、なつきが一人で座っていた。
「今、舟橋さんが来たから、しゃべってたわ」
「そう。——毎日ご苦労様」
と、なつきは、浩志に声をかけた。
「いえ……」
と、浩志は照れている。
「お母様、お変りない?」
「ええ、今日は朝から起きて、台所に立ったりしてました」
「まあ、すてき。——ほら、お腹《なか》空《す》いたんじゃない?」
「今はいいわ」
と、さやかは腰をおろして、「アイスティーだけもらう」
何しろ、ここのサンドイッチはまずいのだ!
三人が、明日のロケのことをしゃべっていると、
「失礼」
と、声をかけて来た男がいる。
「何か!」
と、なつきが訊《き》いた。
「あ! 部長!」
と、さやかが仰天した。
演劇部長の石塚なのだ。——背広を着ているので、別人のように見える。
「よっ。頑張ってるな」
石塚はニヤリと笑った。
「どうしたんですか、そんな格好して」
と、さやかは目を丸くした。
「これか。——通行人Aだ」
「え?」
「明日、鎌倉でロケだろ」
「ええ」
「そこにチラッと出るんだ。エキストラ」
「部長がですか?」
「ああ。アルバイトさ。それにお前の活躍ぶりも見られるしな」
「はあ……」
さやかは、呆《あつ》気《け》に取られている。
「じゃ、明日会おう」
石塚は、浩志の方を見て、「こ《ヽ》の《ヽ》子《ヽ》は?」
「あの……友だちです」
「ほう。そうか。荷物持ちにしちゃ、頼りないと思った」
浩志がムッとしたように石塚をにらんだ。
「じゃ、失礼」
石塚が喫茶店を出て行く。
「さやか……。今の人は?」
なつきが、キョトンとした顔で訊いた。
しかし、さやかには、母の声が耳に入らなかった。
部長がエキストラ?——やりにくい!
さやかは、仏頂面をしている浩志を元気づける余裕もなかった……。