「ああ、やれやれ——」
と、ホテルのロビーに入って、藤原は息をついた。「クーラーが入ってる!」
「まあ」
と、なつきが笑って、「こんな涼しい所に来てまで、クーラーなしでいられないんじゃ、藤原さんの〈都会病〉も相当なもんね」
「何と言われても、辛いものは辛いです! ねえ、さやかさん」
と、藤原は、さやかの方に救け舟を求めている。
「私は若いの」
と、さやかは冷たく言った。「夏は暑い方が好き。それが自然でしょ?」
「まあね……」
と、藤原はハンカチで汗を拭《ぬぐ》った。
確かに、ここは東京に比べると、大分涼しい。高原の中のホテル。
映画『母娘《おやこ》坂《ざか》』のロケ先なのである。
もう今日で四日間、ロケ隊はこのホテルに泊っていた。
「何か冷たいものでも飲みましょうか」
と、なつきが言うと、藤原もホッとした様子だ。
もちろん、ラウンジと言っても、東京の大ホテルのような、豪華なムードではない。でも、緑に囲まれたホテルのイメージにはぴったりの、木の匂《にお》いのする山小屋風の造りだった。
三人が、奥のテーブルにつく。——この四日間で、この席は、何となく、なつきやさやかたちの「専用」という雰囲気になっていた。
もちろん、他にも、池原洋子のようなスターも来ていたが、専らバーの方が縄張り。
「オレンジジュース」
と、さやかは言った。
残念ながら、コーヒー・紅茶は、おすすめできる味ではない。
ホテルにも、もちろん普通の宿泊客がいて、なつきたちを見て、騒いでいるが、もう大分それにも慣れっこである。
「——しかし、怖いぐらい順調ですね」
と、藤原が手帳を見ながら、「東京へ戻ってから、またスタジオと都内ロケです。——ここで少し余裕を作っとくと、後で楽だ」
「早坂さんがいい監督さんだから」
と、なつきが言った。
確かに、ベテランらしく、早坂は、なつきとさやかの二人の力をよく見ていて、ここが限界、というところでパッと切り上げる。
既に撮影は後半に入っていて、八月も半ば。確かに、藤原の言う通り、
「怖いほど」
順調な毎日だった。
「——このところ、忘れそうになるわ、つい、あの事件のこと」
と、なつきが言った。
「私、今、忘れてた」
と、さやかは水を一口飲んで、「——ね、あの太田って面白い刑事さんから、何も言って来ないの?」
「何の連絡もありません」
と、藤原は首を振って、「こっちから訊《き》くのも、おかしなもんですしね」
「本当ね。——犯人が捕まった、って記事も見かけないし」
と、なつきは、考え込んでいる。
「いや、どうしても分らないのは——」
と、藤原は少し声を低くして、「あの堀口万里が、どうして僕の車の前に飛び出してきたか、なんです。——偶然というにはできすぎてるようで」
「率は低いわよね」
と、さやかが肯《うなず》く。「でも、走ってる車にわ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》飛び込む、なんてこと、できる?」
「私、あの時は眠ってたんだけど」
と、なつきが言った。「あの子は、パッと飛び出して来たの?」
「いや、それが……」
藤原は、少し口ごもって、「ついわき見してまして……。まさかあんな所に人がいるなんて思いませんからね。気が付くと、目の前に立ってたんです」
まさか、眠っているなつきに見とれていた、とも言えない。
「そんな所で、車道に出たっていうのが妙よね」
「さやかさんも、そう思うでしょう?」
「わ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》、だったとして……。自殺しようとしたってことになりそうね、その場合は」
「そうね」
「でも、藤原さんの車と分ってて……。そんなこと、可能?」
飲物が来る。——少し間《ま》が空《あ》いて、その間に、藤原は考え込んでいたが、
「なつきさんのスケジュールを、よほどよく知っていないと無理ですね」
と、言った。「それに、なつきさんを送って行く時、あの裏道を通る、ってことも知っていないと」
「プラス、藤原さんの車を、遠くからでも見分けられる、ってこと」
と、さやかが付け加えて、「かなりその条件をクリアするのは、厳しいわ」
「すると、やはり偶然か……」
「でも、あのホテルになぜ彼女が来たのか、ってこともあるわ」
と、さやかは続けた。「ね、本人が本当に何も憶《おぼ》えてないのなら、あそこまで来ることだって——」
「それはそうですな」
「それと、池原洋子……」
と、さやかは言って、チラッと藤原にウインクして見せる。
母、なつきは、もちろん池原洋子と夫が浮気していたことなど、知らないのである。さやかとしても、できることなら、知らせずにすませたい。
「池原さんに直接訊いてみたら?」
などと、なつきは無邪気なことを言っている。
「——あれ?」
藤原は、腰を浮かした。「社長だ」
「まあ、本当」
と、なつきも立ち上がった。
プロダクションの社長、舟橋が、暑そうに、扇《せん》子《す》で顔をパタパタやりながら、ロビーへ入って来た。
藤原があわてて駆《か》けて行く。
「社長!」
「藤原、ちょうど良かった。表のタクシー、金、払っとけ」
「はい」
藤原があわてて財布を出しながら、ホテルの玄関前に待っているタクシーへと走って行く。舟橋が、
「俺《おれ》の荷物も、下ろせ!」
と、怒鳴った。
藤原が、タクシーの運転手と二人で、せっせと荷物を運び、フロントに、部屋を何とかしろ、とかけ合っている間に、
「やあ、我らのスターのご機嫌はどうかな?」
と、舟橋は、なつきたちの方へニコニコしながらやって来た。
「社長さん! びっくりしましたわ」
と、なつきが面食らっている。
「いや、監督の早坂さんから電話をもらってね」
「二人とも困ったもんだ、って?」
と、さやかが言うと、舟橋は声を上げて笑った。
「全く! ぜひ見に来い、と言われてね。こんなすごい新人は久しぶりだ、と、あの男が珍しく興奮していた」
「——社長」
と、藤原がやって来た。「お部屋は何とか取れました」
「当り前だ」
と、舟橋は言った。「連《ヽ》れ《ヽ》が次のタクシーで来る」
「はあ」
「すまんがね」
と、舟橋は言った。「君らの部屋はスイートルームだろう?」
「ええ」
「一人、居《い》候《そうろう》させてもらえんかね」
なつきは、目をパチクリさせて、
「構いませんけど……。どなたさま?」
「実は連れの女の子供なんだ。まさか一緒ってわけにもいかんので、できれば……」
「分りました。どうせ広いお部屋を使ってるんですから」
と、なつきが答えていると、ホテルの玄関前にタクシーが停《とま》った。
「来たか。——おい、藤原、荷物を頼む」
「はい」
また藤原が駆けて行く。そして、夏らしく淡い色のスーツでタクシーから降りて来た女性……。
なつきは、まさか、と思いつつ、その女性が近付いて来るのを見ていた……。
「おい、知っとるだろ」
と、舟橋が言った。「中沢なつきとさやかだ」
「ええ、存じてます」
と、北原文代が言った。「北原文代です。——これは娘の浩《ひろ》子《こ》」
北原文代の少し後ろで、なつきがあのマンションで会った少女が、ピョコンと頭を下げた。
北原文代が、舟橋の愛人?
なつきは、唖《あ》然《ぜん》として、しばらくは言葉が出なかった。
もちろん、TV局で会うこともあるだろう。それにしても……。
「じゃ、浩子は、この二人の部屋に間借りさせてもらえ。いいな?」
「はい」
と、浩子という子が答える。
「よろしくね」
と、さやかの方から手を差し出すと、浩子は、はずかしそうに、しかしホッとしたように、その手を握った。
「お前たち、一《いつ》旦《たん》部屋へ行ってろ。俺《おれ》は監督と話がある。——おい、監督はどこの部屋だ?」
「三〇三です」
「分った。一人で行く、大丈夫だ」
舟橋が、さっさと行ってしまうと、北原文代と浩子は、ボーイに荷物を持ってもらって、部屋へ向う。
——なつきは、息をついた。
「なつきさん」
と、藤原が言った。「あの女性、確か……」
「ええ、文代だわ。何てことでしょ!」
なつきは、それだけ言って、またため息をついたのだった……。