さやかは、太田刑事との約束通り、三十分後に、ホテルの庭へ出た。
夏とはいっても、高原なので、夜になると、肌寒いくらいである。——庭には人気がなく、さやかは小《こ》径《みち》を通って、小さな池へ出た。
池の周囲にはベンチが並んでいて、時々はアベックがラブシーンなんかやっていることもあるのだが、今夜は幸い、誰もいないようだった。というより、どうせアベックったって、ここに泊っているのだ。
何もこんな所でラブシーンを演じなくても、部屋へ行きゃいいわけだから。
私は刑事さんとデートか。色気ないな、とさやかは思った。でも——確かに三十分後と言ったのに、太田の姿は見えなかった。
さやかは、約束の時間に遅れるとか、そういうことが嫌いである。太田も、約束の時間を平気で破ることのない人のように見えたが……。
「太田さん」
と、さやかは呼んだ。「——太田さん。いませんか」
植込みが、池の向う側に、囲いのように続いている。そっちの方から、カサッという音がした。
「——太田さん? そこですか?」
さやかは、音のした方へと歩いて行った。どうして返事をしてくれないんだろう?
植込みのかげから、足《ヽ》が《ヽ》覗《のぞ》いている。
「太田さん、何か——」
足を止め、さやかは立ちすくんだ。——太田が、倒れている!
「太田さん! しっかりして!」
さやかは、かがみ込んで、太田を揺さぶった。太田が、かすかに呻《うめ》いた。
生きてる! どうやら、頭を殴られたらしい。頭をかかえ上げると、手にべたっとした感触があった。血らしい。
何てことだろう!——早く、早く誰か呼んで来なきゃ。
さやかは、立ち上がって、ホテルの方へ戻ろうとしたが……。目の前に黒い人影が立っていた。
さやかは、しばらくその人影を見ていた。そして——誰なのか、分った。
「社長さん……」
舟橋は、難しい顔で立っていた。ゆっくりと首を振ると、
「どうして、こんなに早く来たんだ!」
と、言った。「あと五分遅かったら、間に合ったのに!」
「社長さん……。この刑事さんを殴ったんですね!」
「そうだ。しかし、手ごろな凶器がなかったんだよ。殺せなかった。あと五分あれば——」
さやかは、やっと気付いた。今日、母と藤原と、三人で話したことの中で、何《ヽ》が《ヽ》ひっかかっていたのか、を。
堀口万里を知っていたのは、藤原よりも、むしろ舟橋だったろう。そして、なつきのスケジュール、藤原が車で通る道、そして車そのものまでよく知っていたのは、舟橋ではないか。
「あの子を殺したんですね。堀口万里を」
と、さやかは言った。
「仕方なかったんだよ。——あの子はおかしくなっていた。あれは自分で死のうとした」
「自分で?」
「止めようとしてもみ合っているうちに——つい、本当に刺してしまった」
舟橋は、ため息をついた。「黙っているしかなかったんだよ。この映画に、私は賭《か》けていた。もし私が殺人罪で捕まったり、オーディションに来た子を愛人にしていたと分ったら、この映画は、大打撃を受けるだろう」
「じゃ……堀口万里を、ずっと?」
「そうだ。ところが、フッと姿を消してしまった。私は、気が変って、出て行ったのかと思ったんだが……。まさか藤原の所にいるとは思わなかった」
「社長さん……。でも、この刑事さんまで……。それじゃ、もう逃げようがありませんよ」
と、さやかは言った。
「いや、道はある。君はこのまま黙ってホテルへ戻れ。何も見ず、知らなかったことにして」
「そんなこと——」
「できるとも! 君は役者だ。しかも、すぐれた役者で、スターだ。分るね。私がこの刑事を始末する。君はここでの数分間を、忘れればいい」
「できません」
「いいかね。君にはスターの輝かしい未来が待ってるんだ。今、このことを明るみに出したら、映画は中止になるかもしれない。君とお母さんの二人も、このまま忘れられて行くかもしれない。せっかくのチャンスだ!」
舟橋の言葉が、さやかの耳に空《むな》しく響いた。——スター。未来。チャンス。
世の中に、価値のあるものは、それだけしかない、と思い込んでしまった人間。さやかは、そんな人間になりたかったわけではないのだ。
「私、そんなことできません」
と、さやかは言った。「人を呼んで来ます」
さやかは、ホテルに向って駆け出した。舟橋が、背後からさやかに飛びかかった。
「キャッ!」
よけようとして、足がもつれた。——二人は池の中へと転落した。さやかは声を上げようとした。
舟橋が、さやかの上にのしかかり、頭を押えつけた。水から顔を出せない!
さやかは、必死でもがいたが、息の苦しさに、気が遠くなって行くようだった。
——このまま死ぬのかしら?
映画の撮影はどうなるんだろう? そんなことが頭をかすめた。
突然、押えつけていた力が弱くなる。——そして、さやかはぐっと体を引っ張り上げられた。
「大丈夫か!」
池の中へ入って、さやかを抱き上げているのは、浩志だった。
「私——何とか」
さやかは咳《せき》込《こ》んだ。「どうしたの?」
「こいつを石で殴ったんだ。君のとこの社長じゃないか!」
「ええ……。殺されるところだった……。ありがとう」
舟橋は、気を失っている様子で、池のふちに頭をもたせかけるような格好で、倒れていた。
「そこに、刑事さんが倒れてるわ、頭を殴られて。早く手当てしないと……」
「今、あの子が人を呼びに行ってる、大丈夫だよ。けが、ないか?」
「うん……」
さやかは、ずぶ濡《ぬ》れの体を震わせた。「あの子って?」
「浩子だよ」
「そう……」
さやかは、ふと浩志を見て、「浩志、どうしてあの子と二人でここへ出て来たの?」
と、訊《き》いた。
「別に——何でもないよ。ただの散歩だよ!」
あわてて言いわけしている浩志を見て、こんな時なのに、さやかは笑い出してしまった……。
「いやはや、面目ありません」
と、太田が、頭に巻いた包帯を、そっと手で触りながら言った。
「大丈夫ですの?」
と、なつきが言った。「でも、何てことかしら」
——ここは、なつきとさやかの部屋。
太田の他に、まだショック状態の藤原、そして浩志がいた。
「じゃ、あの堀口万里って子は、車の前へ、突き飛ばされたんですか」
と、さやかは言った。
「そうです。いや、愛人の座を奪われて、頭に来た女が、カッとなって、堀口万里を薬で眠らせ、藤原さんの車の前へと突き飛ばしたんです。ところが、堀口万里は死ななかった。その代り、記憶を失ってしまった。——藤原さん」
「はあ」
「すぐに届けなかったのは、間違いですぞ」
「すみません」
藤原はシュンとしている。
「その女っていうのは?」
と、なつきが訊《き》いた。
「あなた方もよくご存知の女です。池原洋子ですよ」
さやかも唖《あ》然《ぜん》とした。——池原洋子と舟橋?
「藤原さんは知ってたの?」
「いや、全然知らなかった」
「池原洋子の華やかな男遊びは、ある意味では、舟橋との関係を隠すためのものだったんですな」
と、太田は言った。「ところがその二人の間に割り込んで来たのが、堀口万里だった」
「じゃ、もめた挙句に、堀口万里を殺そうとしたんですね」
と、さやかは言った。「でも、本当に殺したのは、舟橋さんでしょ」
「そうです。舟橋は用事で藤原さんの留守中、マンションに立ち寄って、そこで堀口万里を見たのです。びっくりしたが、万里の方は、舟橋を忘れている。——舟橋は、思い出させてやろうと、あのホテルに部屋を取ったのです」
「でも、池原洋子が——」
「ええ、運悪く、池原洋子が、舟橋の机にメモを見付けてしまった。ホテルの名とルームナンバーのね。舟橋に別の女ができたのかと思った池原洋子は、あそこへ出かけて行ったのです」
「私は、それを見かけて、追いかけたんです」
と、藤原が言った。
「ところが、問題の部屋にいたのは、何と堀口万里だった。池原洋子はびっくりして逃げ帰った。——死んでいると思っていたんですからね」
「そこへ舟橋さんが行ったのね」
と、さやかは言った。
「万里の方も、池原洋子を見て、思い出したのでしょう。そして、その部屋へ池原洋子がやって来たのは、舟橋が承知した上でのことと思った。——混乱した彼女は、やって来た舟橋の前で、ナイフを振りかざして、私とあの人のどっちを取るか決めないと、死ぬと言い出した。止めようとした舟橋ともみ合っているうちに——つい、ナイフが万里自身の胸を、刺していたのです」
「運が悪かったのね」
と、なつきは言った。「でも、それを隠そうとしたのは、運じゃないわ」
「全く、その通り。舟橋も、判断を誤ったんですな」
と言って、太田は、頭が痛そうに、眉《まゆ》を寄せた。
「——これで映画もお流れね」
と、さやかは言った。「せいせいした!」
「いや、そんなことはありません!」
突然、大声で言ったのは、藤原だった。
びっくりして、なつきとさやかが見つめていると、藤原は、
「社長から言われました。プロダクションの後のことは頼む、と。私の責任において、この『母娘坂』は、必ず完成させます!」
「でも、池原さんまで……」
「彼女の出番の主なところは大体終ってますからね。何とかつじつまの合うように、シナリオを直させます」
藤原が、こんなに張り切っているのは、珍しかった。太田が、
「私も応援しますよ」
と、言って、ニッコリ笑った。
なつきとさやかは、顔を見合わせたのだった……。